青い花

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地獄門

2016-02-03 07:00:22 | 日記
『地獄門』(1953年) は、日本初のイーストマン・カラー作品で、大映にとっても初の総天然色映画。監督は衣笠貞之助。主役・盛遠を演じるのは長谷川一夫。盛遠に翻弄される人妻・袈裟を演じるのは京マチ子。

『平家物語』や『源平盛衰記』などで語り継がれた、袈裟と盛遠の物語を題材にした菊池寛の『袈裟の良人』をベースにしている。
第7回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール、第27回アカデミー賞で名誉賞と衣裳デザイン賞を受賞した。

《平清盛の厳島詣の留守を狙って、平治の乱が起きた。
平康忠は、焼き討ちをうけた御所から上皇と上西門院を救出するために替え玉を立てた。上西門院の替え玉となった袈裟(京マチ子)の車を護衛する遠藤武者盛遠(長谷川一夫)は袈裟を彼の兄・盛忠の家に届けたが、袈裟の美貌の虜になってしまう。
清盛派の権臣の首が法性寺の通称“地獄門”に晒される中、盛遠は厳島に急行、乱の勃発を清盛に伝えた。それによって都に攻め入った平氏は、一挙に源氏を破って乱を収めた。

“地獄門”の前で袈裟と盛遠は再会した。
袈裟は護衛の礼を述べつつも盛遠と距離を置きたがっている様子だったが、盛遠は偶然の再会に運命を感じたようで前のめり気味になっていた。

武功に対して望み通りの褒賞を与えると言う清盛に、盛遠は袈裟を娶りたいと乞うたが、彼女は御所の侍・渡辺渡(山形勲)の妻だと教えられ、願いを却下される。盛遠はその場に同席した人々の笑い者になるが、袈裟を諦めることが出来なかった。

袈裟への執着を抑えられなくなった盛遠は加茂の競べ馬で渡に勝ったが、祝宴の席で渡に真剣勝負を挑み、清盛の不興を買ってしまう。

盛遠は、袈裟の叔母の家に押しかけ、刀を抜いて叔母を脅し、袈裟を誘き出す。
従わねば夫も叔母も殺すと脅された袈裟は、盛遠に靡いたふりをして、「夫を殺してくれ」と迫った。気を良くした盛遠は渡の寝所に忍び込み、彼を切り殺すが、死体を確かめると、それは袈裟だった。袈裟が渡の身替りとなって盛遠に己を殺させたのである。
己の身勝手を悔いた盛遠は、渡に「殺してくれ」と頼むが、それも叶わない。数日後、剃髪し僧衣を纏った盛遠はひっそりと都を離れた。》

『地獄門』は、黒澤明の『羅生門(1950年)』、溝口健二の『雨月物語(1953年)』とともに、国際映画祭で大きな賞を受けた日本映画の1つとして日本映画史の上で重要な作品であるが、作品の質そのものが高いとは思えない。日本人の目で観れば、時代劇としての華がある訳でもなく、抒情的な趣がある訳でもない、絵的な美しさ以外に評価のしようの無い作品なのである。

国際的な評価が高かったのは、 エキゾチックな様式美――要するに欧米人が理想とする日本の美が、彼らの望む形で色彩豊かに表現されていたからではなかろうか。
『地獄門』では、現実離れした鮮やかさで衣装や調度品、風景などの色彩が施されており、独特の人工美世界を構築している。しかし、日本映画が様式美だけで賞を得たのはこの一作のみだった。これ以後の日本映画で国際的な評価を得た作品は、何れも実質的な内容が評価されたからで、評価基準は欧米の作品と同じであった。つまり『地獄門』は欧米の作品と同じ土俵には立っていなかったということである。

また、本作は日本国内ではあまり評価が高くなかった。
掻い摘んでしまえば、頭の悪いストーカーに付き纏われた貞淑な人妻が、策を弄してストーカーに自分を殺させ貞操を守る、という内容である。欧米人は「エキゾチック・ジャパン」で済ませられるかもしれないが、同じ日本人としては、男女どちらにも感情移入が出来ずイライラしてしまうのだ。
それでも何とか観ていられるのは、袈裟と盛遠を演じるのが、京マチ子と長谷川一夫という絵に描いたような美形同士だからで、ブサイクが同じことをやったら作品として成立しない。あくまでも絵空事として楽しむのが本作の最善の鑑賞法である。

遠藤盛遠は、文覚の出家前の俗名である。文覚は、鎌倉時代初期に権勢を誇った人物だが、出家前には不名誉なエピソードが幾つかある。
盛遠の横恋慕話は、『源平盛衰記』の中に出ており、そこでは袈裟を殺した償いに出家したということになっている。しかし、『愚管抄』ほかの記録には、そうした話は出てこないので、『源平盛衰記』の創作かも知れない。後に芥川龍之介が、『源平盛衰記』に基づいて『袈裟と盛遠』を書き、菊池寛が『袈裟の良人』を書いた。『地獄門』は、『袈裟の良人』をベースにしている。

せっかく京マチ子を使うのなら、芥川の『袈裟と盛遠』をベースにした方が、京マチ子の妖艶な美しさを活かせたのではないだろうか?男の狂気に翻弄され、恫喝に怯える貞淑な人妻の役には、京マチ子は勿体ないのである。
タイトルに使われている”地獄門”が、もし、黒澤明の『羅生門』(原作は芥川龍之介の『藪の中』と『羅生門』)を意識して付けたのだとしたら、どちらも京マチ子が出ていることだし、猶更…と思うのだが。
それから、盛遠を演じた長谷川一夫だが、こちらも本作の盛遠のような短慮バカは似合わない。同じ悪漢でも、『袈裟と盛遠』の盛遠みたいに、情欲に翻弄される哀しさや、愛の不確かさへの戸惑いを内包していたのなら、長谷川の正統派な二枚目顔が効いて、共感出来る部分があっただろう。

芥川の『袈裟と盛遠』は、渡殺害計画実行直前の僅かな時間の物語で、前半が盛遠、後半が袈裟の独白で構成されている。

盛遠が袈裟を愛していたのは彼らが童貞・処女だった頃のことで、情交を結んだ時には、袈裟の容色の衰えに打撃を受け、彼女を醜く破廉恥な女だと思い、そんな彼女に欲情する己を傀儡の女を買う男よりも卑しいと感じるようになっていた。

二人の関係は常に袈裟が主導権を握っている。
袈裟の夫の殺害を持ちかけたのは盛遠であるが、袈裟に押されて心にも無いことを言わされた感が否めない。そして、計画を放棄したら袈裟に復讐されるという怯えから、憎くもない男を殺さなければならなくなった己の境遇を呪い、袈裟を憎み蔑んでいるのが、当夜の盛遠である。

袈裟は、盛遠が彼女のことを蔑み、憎み、そして怖がっていることを知っている。
袈裟が夫の身代わりになって殺される最期を選んだのは、夫のためではない。袈裟は、夫が彼女を愛していることを知っているが、その愛に対してどうしようという力もないと思っている。
彼女は、心を傷つけられた口惜しさと、躰を汚された恨めしさと、その二つのために死に甲斐の無い死を選んだのだ。何の創造性もカタルシスもない、まさにこの世の地獄である。

「昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この燈台の光でさえ、そういう私には晴れがましい。しかもその恋人に、苛まれ果てている私には。」

このセリフ、京マチ子に言って欲しかった…。
袈裟の抱く底無しの虚無に吸い込まれるようにして、盛遠は道を踏み外してしまう。京マチ子の妖艶な流し目には男一人の人生を狂わせるだけの吸引力があるので、それを活かせる脚本・演出にしてくれたら、『地獄門』も絵的な美しさだけの作品で終わらなかったであろうに、と残念に思う。

『地獄門』の感想から『袈裟と盛遠』に横滑りしてしまったので、これにて終了とする。
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