青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

飛ぶ孔雀

2018-09-18 07:38:53 | 日記
山尾悠子著『飛ぶ孔雀』は、「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」の二部からなる長編小説。第一部の「飛ぶ孔雀」は8つの章、第二部の「不燃性について」は16の章によって構成される。


“シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。”
最初の一行からいきなり山尾ワールドである。
しかし、これまでの無国籍的で人工的な作品とは趣が異なり、架空の都市を舞台としつつも、処所に懐かしさと庶民的なにおいを感じさせるのが新しい。
舞台となるのは、中州にある広大な日本庭園、対岸の天守閣、川に架かる橋を揺らしながら通過する路面電車、石切場のある山、すり鉢状の構造の街など、京都、岡山、広島、高知など日本の古い地方都市のイメージを繋ぎ合わせた架空の都市だ。
一つ一つのパーツは日本的でありながら、俯瞰すると見たこともない異界が広がっている。山尾悠子はまた一段、進化を遂げたようだ。

登場人物の名前は、日本名の者もいればアルファベット一文字の者もいる。名前の付け方に法則は見られない。重要度が高いと思われる存在でもアルファベットの者もいれば、モブに近い脇役でもちゃんとした名前の者もいる。
一部二部とも小さなエピソードが未完のまま次々に連結しているが、その並びにも法則性はないようだ。記号的な登場人物、場面、小道具が、時系列がバラバラな状態で連なり、イメージの破片が乱反射する眩い異界を構築している。
一つ間違えれば無秩序になりかねない作品世界を支えているのは、練りに練られた美しい文章と精緻でリアルな情景描写だ。幻想的でありながら、ときに生々しくもある独特な雰囲気が読者を強く魅了するのだ。

例えば、第一部「飛ぶ孔雀」の〈火種屋〉。
人々が日々の炊事や煙草の火に使う火種は、煙草屋兼雑貨屋で売られているのだが、その扱いの描写が細かい。
その場で煙草に吸い付けていく者には紙縒りの先に移した火を渡すが、持ち帰り用の火種は火種入れと呼ばれる専用の容器に入れて売られている。
それは小型の香合ほどの大きさで、丸く平たく、金属製の物が殆どだが、陶器製の物もしばしば見受けられる。中身がこぼれ出ないよう蝶番の付いた丸い蓋は金具で固定されるので、爪の先でつまみの金具を引きながら開けることになる。携帯する時には信玄袋に入れる。火種入れは安価な物なので、火種の持ちが悪くなったら火種を買う時に容器ごと交換しても良さそうだ。
火種屋は煤で真っ黒になった桶の中で火種用の火を熾す。この場合の火は、必ず石による切り火で熾される。大桶の中に敷かれたシュロの繊維に引火した火は、やっとこで荒っぽく小分けにされていく。

石切り場の事故と火が燃え難くなったという現象の因果関係は最後まで明かされない。この世界では当然の事実なので敢えて読者に説明はしない、そこに妙な説得力がある。
そうした状況下で暮らす人々の日常生活が細部まで丁寧に綴られ、積み重ねられていく。そのイメージの堆積の中に溶け込んで、最初に感じた疑問が飴の様に小さくなっていくのだ。

火が燃え難くなったことで、バラック住まいの者も豪邸住まいの者も等しく難儀している。それを発端として、彼らの身の上にそれぞれのドラマが訪れる。

〈柳小橋界隈〉の柳小橋とは、シブレ山の南東に広がる城下町を流れる川の、中州の多いあたりに集中して架かる橋の一つのことだ。路面電車が通り過ぎるのはこの橋だけである。
橋の下に積み重なったバラックの一軒に住むトエは、七輪で火を熾すのにも場所を選ばねばならない。外の物干し場まで七輪を持ち出してみることもある。中洲の最南端に突き出たこの場所は、何度も濁水に浸かったために傷み放題だ。
中洲の多いこの辺りまでわざわざ漕ぎ上がってくる舟は滅多にないが、ある時物干し場に近寄って来た川舟があった。器用に漕ぎ寄せて来たその男は、二度目に来た時にはトエの恋人になっていた。宵闇にとぼしく灯る火を目印に、男は舟でトエの元に漕ぎつけるのだ。

〈岩牡蠣、低温調理〉は、Pが友人たちと共に、かつての同級生で最近未亡人になったLの豪邸で振る舞われた料理である。
冷たい前菜いろいろとシャンパンのあとで薄くスライスした岩牡蠣のマリネ。オイルを添えたパンとサラダ。卓上に犇く皿の品数は食べきれない量になっているが、湯気の立つ種類の料理は何もない。「ガスレンジの調子が悪くて手の込んだ料理が出せないのよ、ごめんね」「くるまだってこの頃はエンジンがかかり難いし。あれも要するに点火させる訳だから」そこで出張シェフによる低温料理の蘊蓄が始まる。
食後、庭で手花火に興じることになる。火の反応の良い場所は日々変わるらしい。Lが火種を閉じると同時に、夜景のおよそ半分ほどの灯がいきなり消失した。

各章は各々が独立しているようで、緩やかに繋がり合っている。
断片的な挿話が次から次へと繰り出され、イメージが増幅していく。それらのすべては、〈飛ぶ孔雀、火を運ぶ女〉に集結する。

“川中島Q庭園での夏の大寄せが、夜に至って魔界と化すこと。意外に孔雀は飛ぶ。その烈しい風切り音は泥棒避けとして充分に有効である。盗みの対象はこの場合、火、だった。”

恒例の花見を兼ねた大寄せは、今年は諸事情から盂蘭盆の日の夜に振り替えられた。
ここでも火が燃え難くなっていることが人々の話題になっている。
裕福な年配女性の「下界は茶会の最中、さて参りましょうか」のひと言で、魔界の扉が開く。
禁忌は色々あるが、とにかく芝を踏むな、これが一番大切。
四万坪ほどの敷地内に掛かった亭舎が点在しているのだが、全部を回るとすれば歩行距離は数キロに及ぶ。今年は異母姉妹のタエとスワが火を運ぶ役だ。導きの書は『灰之書』。姉妹は亭舎を巡って茶釜に火を届ける。途中で火を絶やしてはならない。
双子が火を盗もうとする。赤い目の孔雀が姉妹に襲い掛かる。石灯籠の「空洞くん」が関守石を産んで増殖させる。「空洞くん」は関守石を持ち去る孔雀とは相いれない仲だ。

大寄せの描写は夢のように美しい。
城下町を大きく蛇行して流れる夜の川。一斉にライトアップされると、池泉回遊式庭園は一面が光の海になる。その眩い閉鎖的空間を来客たちが魚の様に周遊する。陶器の火入れを手にした姉妹が、艶やかな孔雀が、増殖する石灯籠が動き回る。
この幻想的な光と闇の世界は、ピークを極めた瞬間、完膚なきまでに崩壊するに違いない。その瞬間を恐れと期待を抱きながら読み進める。これが山尾作品の醍醐味だ。


第一部の「飛ぶ孔雀」が孔雀の羽根のように絢爛たる宴のイメージなら、第二部の「不燃性について」は地を蠢く大蛇のような地下迷宮のイメージだ。

「不燃性について」は、“若いGがじぐざぐの山の頂上へ至るまでのおおよその経緯”を描く〈移行〉からはじまる。
舞台は「飛ぶ孔雀」と同じ町だが、季節は秋に移っている。テレビニュースでは地元Q庭園の大温室が取り壊されている様子が映し出されている。以前から老朽化が問題となっていたことに加え、夏に小火騒ぎがあった件にもニュースは触れている。
同じ町であるが、「飛ぶ孔雀」が中州及びその周辺を舞台としているのに対し、「不燃性について」は、古い公会堂の地下公営浴場、副業の卵配達をさばきながら夜の街を走る路面電車、路面電車の電気軌道のカーブに面した三角ビル、動物の死骸を煮込んで骨を取り出す頭骨ラボなど、舞台となる場所があちこちに点在する。

「飛ぶ孔雀」にも登場したKに加え、劇団員Q、路面電車の運転士ミツ、ダクト屋セツ、ネズミと呼ばれる浮浪児、掃除会の剣呑な老人たちなど、数多くの人物が入れ代わり立ち代わり登場するが、彼らからは活き活きとした体温は感じられず、言動や心情は極めてシンプルで記号的だ。
無機的で記号的な人物たちが、巨大なすり鉢状の舞台を動き回る。そんな彼らと、川沿いの地下公営浴場、古ビルの素人劇団、石の畸形化、自警団の喫煙者狩り、修練ホテルの双頭標本、占い付きの富籤、地下を移動する大蛇など怪しく仄暗いイメージの事象が化学反応を起こす。次々に生み出される物語が連鎖して、最後にKが古襖を開けると、そこには―――。

城下町を蛇行する川、路面電車のレール、地下エリアのダクトなどはウロボロスの暗示と取れないこともない。
長い地下の旅を経てKが辿り着いたのは〈柳小橋界隈〉なのか。彼を待っていた少女はトエなのか。そうとも読めるし、誰か別の人間の記憶とも読める。
「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」は、閉ざされた円環の世界のようだが、最終章でミツの運転する路面電車がそれを突き破ったようにも読める。すべてが謎のまま、満艦飾の世界は幕を閉じる。

本書には主人公と呼べる人物がいない。全編を貫くテーマもない。人物の内面やストーリーを描くことに主眼を置いているようにも思われない。
バラバラの破片のようなイメージを繋ぎ合わせて描かれるのは、場所である。人物の思想や人格、行動が他の誰かに影響を与えるのではない。物語の中に目に見えない磁気のような力を持つ場所が存在し、それが人物に影響を与え、動かすのだ。
煌びやかな仮想空間を構築するのが、独自の美意識から生み出される端正で硬質な文章である。山尾作品を楽しむということは、イコール言葉を楽しむということなのだろう。
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