青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

『異端の奇才——ビアズリー』

2025-03-05 10:43:01 | 日記

3月2日に、三菱一号間美術館で開催中(2月15日~5月11日)の『異端の奇才——ビアズリー』展に行ってきました。
個人的に今、心身があまり良くない状態で。東京まで出るのが億劫ではあったのですが、大好きなビアズリーの作品をじかに観ることが出来る機会はそうないと思い、少々無理して出かけました。
行って良かったです。自分にはまだ美しいものを見て満たされる感性が残っているという確認が出来たので。人生には美が必要なのです。


東京駅中央口。20年ぶりくらいに来ました。
この日は東京国際マラソンかなんかの開催日で、三菱一号館美術館までの道は規制されていて歩き難かったです。






東京駅に着いた時に11時を回っていたので、近くで腹ごしらえしてから美術館に入りました。


三菱一号館美術館。
「25歳。時代を駆け抜けた。」のキャッチコピーが鮮烈です。
オーブリー・ビアズリー(1872-1898)は、イギリス南部の海辺の街ブライトンで生を受けました。父親が財産を使い果たしたため、ビアズリーは16歳から事務員として働き家計を支え、夜間に制作活動を行いました。
7歳で肺結核と診断されたビアズリーは、音楽と絵の才能に長け、読書を好む少年でした。一家の困窮状況では、本人の希望していた美術学校入学は叶わず、独学で絵の勉強をするしかありませんでした。
ビアズリーは仕事を終えて帰宅してから、蝋燭の光をたよりに精緻な線描や大胆な白と黒のコントラストからなる洗練された作品を描き続けました。
画家として成功を収めた後も、この制作スタイルは変わることなく、カーテンを閉め切った暗い部屋で創作を続け、発表前の完成作品はごく少ない親しい人にのみ見せていたそうです。
ビアズリーが表舞台で活躍したのは、肺結核で他界する25歳の春までの約5年と極めて短い期間でした。その短い時間の中で、ビアズリーは病魔と闘いながら約1000点の作品を世に残したのです。

企画展は、「1 THE BEGINNING はじまり」「2 EARLY BEARDSLEY 初期ビアズリー」「3 SUCCESS: THE ʻBEARDSLEY PERIODʼ DAWNS 成功――「ビアズリーの時代」の到来」「4 OSCAR WILDEʼS SALOMÉ ワイルドの「サロメ」「5 BEHIND THE SCENES 制作の裏側」「6 TOWARDS MATURITY 成熟に向けて」の六つのパートに分かれていました(「3 SUCCESS: THE ʻBEARDSLEY PERIODʼ DAWNS 成功――「ビアズリーの時代」の到来」のみが撮影可)。

出世作のマロリー著『アーサー王の死』や代表作ともいえるワイルド著『サロメ』、後期の傑作ゴーティエ著『モーパン嬢』など、初期から晩年までの挿絵や直筆の素描に加えて、彩色ポスターや同時代の装飾など、約220点を通じてビアズリーを堪能出来ました。
『サロメ』を描いたほかの画家(モロー、リケッツ、ミュシャなど)の作品が展示されていたのも興味深かったです。





































































































自撮り下手くそ夫婦。

『異端の奇才——ビアズリー』展は、作品そのものは勿論、展示のされ方や三菱一号館美術館の内装などすべてが満足でした。満たされた心で、ミュージアムショップでお土産を購入。


図録、ポスカ、ピエロのアクキー。
図録はブルーの『サロメの化粧』が表紙のものと、ピンクの『髪盗み』が表紙のものの二種ありました。


Tシャツは、私は『サロメ』、夫は『ステューディオ』を選びました。
ピエロのグッズが売っていて嬉しかったです。私たちはこのピエロを“邪悪なキューピー”と呼んでいます。画の主役でもないのに単体でグッズになっていて笑。
残念ながら、「イエロー・ブック」のトートバッグは売り切れでした。

美術館を出てから皇居方面を散策するつもりでしたが、マラソンで通りが混雑していたので、そのまま東京駅に向かいました。




東京駅構内をぶらぶら。コメにアップルパイを買って帰宅。
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