ヴォルテール著『ミクロメガス』には、ボルヘスによる序文と、「メムノン」「慰められた二人」「スカルマンタドの旅行譚」「ミクロメガス」「白と黒」「バビロンの女王」の6編が収められている。
本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の7巻目にあたる。思惑があっての並びであろうから、本来なら1巻から読むのが正しいのだろう。
が、私が“バベルの図書館”を知ったのが、ボルヘスの『夢の本』に収録されていたパピーニの「病める騎士の最後の訪問」が気に入ったことからなので、 “バベルの図書館”は、当然の如くパピーニの『逃げてゆく鏡』から読み始めた。この『逃げてゆく鏡』は、“バベルの図書館”の最終巻にあたる。端から順番が違っているので、今後も好きな巻から読んでいけばいいと開き直った。
実のところ、『ミクロメガス』は、なるべく後回しにするつもりだったのだ。
なんせ私は、四半世紀ほど前に祖父の本棚から借りパクしたキルケゴールの『死に至る病』を未だ読了できていないくらいの哲学オンチで(その間に祖父が鬼籍に入ったので永遠に返せなくなってしまった)、ヴォルテールなど絶対理解できない、苦行のような読書は御免蒙りたいという気持ちが強かった。それにも関わらず、パピーニに続いて、ヴォルテールを手に取ったのは、『ミクロメガス』と言うタイトルの、神話的でもあり宇宙的でもある響きに強く心惹かれたからなのである。
ヴォルテールの物語には、『千夜一夜物語』と『ガリヴァー旅行記』の二つの典拠がある。
本書にはその両方が収められているが、私が読みやすいと感じたのは、『ガリヴァー旅行記』典拠の作品だった。
中でも、表題作の「ミクロメガス」は、期待以上の面白さで、他には「メムノン」「スカルマンタドの旅行譚」も所々笑いをかみ殺しながら読み進めたものである。
読んでみて思ったのだが、ヴォルテールは読者からの理解をさほど期待していなかったのではあるまいか。自身の作品の中で、持ち前の批評精神をもって、理屈屋や無謀な大望を抱く者を皮肉るヴォルテールは、むしろ熱心な追従者を倦んでいたのかもしれない。
ボルヘスは序文で、“おそらくヴォルテールは人間をそれ以上複雑な分析には値しないものと考えたのであろう。たぶん彼は間違ってはいないであろう”と述べている。我々が自身の心中に複雑怪奇な深淵を抱えていると感じるのは、錯覚なのだろうか。何だかそんな気がしてきた。
また、“ライプニッツは、この地球はありとある可能な世界のうちで最良の世界であると言いつづけていた。ヴォルテールはそのようなありそうもない理論を愚弄するために、「オプティミスム」という言葉を考え出した。(略)破局と災難の実例を積み上げでみせることは彼にはむつかしいことではなかったが、彼はそれを、得られた結果が人心を荒涼たらしめる悲しみではなく、それとは正反対のものとなるほどの椀飯振舞と、じつに気の利いた文致とをもって行ったのである。ヴォルテールのような人間を産み出した宇宙がどうして邪悪なものであり得ようか。彼は自分をペシミストと信じていたが、彼の気質はその愁うべき可能性を彼に禁じた”、というボルヘスの見解も、ヴォルテールの作品を読んでいく上で大きな手掛かりになった。そして、最後まで読んだ後に、もう一度序文を読み返し、なるほどそういうことかと感じ入ったのである。
「ミクロメガス」は、宇宙を股に掛けた巨人たちの冒険譚だ。
宇宙版ガリヴァー旅行記とでも言ったらよいのか、出てくる数字がいちいち壮大なのが笑いを誘う。
「ミクロメガス」は、
第一章―――シリウス星系の一住人が土星へ旅すること
第二章―――シリウス星の住民と土星の住民が話を交わすこと
第三章―――シリウス星の住民と土星の住民とが二人して旅に出ること
第四章―――地球上で彼らの身に起ったこと
第五章―――二人の旅人が実験と推論を重ねること
第六章―――異星人と人間の間に生じたこと
第七章―――人間との会話
の七つの章から構成されている。
シリウス星に、ミクロメガスと言う名の若き才人が住んでいた。
我々の住む地球に比べるとシリウス星は途轍もなく巨大な星であり、そこの住民もまた、我々地球人に比べると大変な巨人である。
“ミクロメガス氏は、頭の天辺から爪先まで二万四千歩、即ち王尺で云えば十二万尺の身の丈があり、他方、地球の市民たる我々の身の丈は、たかだか五尺余りに過ぎず、かつまた我々の天球は周囲九千里であるから、(略)即ちミクロメガス氏を産出せしめた天球は、是非ともわれらの小さな地球の、正味二千百六十万倍の円周を有していなければならない”
桁が違い過ぎて上手く想像できないが、シリウス星人にとって地球などちっぽけな蟻塚に過ぎないことはわかる。
では、なぜ偉大なるシリウス星人ミクロメガスが、辺境の蟻塚まで旅することとなったのか。
事の発端は、ミクロメガスが四百五十歳頃の子供時代が終わろうとする時期(シリウス星人は大変な長寿なのだ)に、知的好奇心の赴くままに行った実験の結果をまとめた著書にある。著書中から胡乱なにおいを嗅ぎ付けた律法博士から告発を受け、裁判沙汰となったのだ。二百二十年も続いた裁判の結果、ミクロメガスは、八百年間宮廷の出入りを禁ずるという有罪判決を受けた。
それを切掛けにミクロメガスは、己が《知性と心情》の修行の仕上げをせんがため、惑星から惑星へと旅を始めたのだった。
ミクロメガスは、土星に立ち寄った際に、土星アカデミーの才気ある人物と意気投合した。
意気投合と言っても、土星は地球のほぼ九百倍の大きさしかない矮小な星であり、そこの住人も身の丈がたかだか千トワーズ(1949メートル)の矮人に過ぎない。ミクロメガスは相手に理解を示しつつも、
“如何に身の丈が六千尺しかなくとも、いやしくもものを考える存在である以上、決して莫迦にしたものではないかも知れぬ”
と、ナチュラルに上から目線である。
この土星の矮人の知力は、恐らくシリウス星人と地球人との中間くらいなのだろう。ミクロメガスのうっすらと皮肉な物言いせいで、彼に対して若干マヌケな印象を抱いてしまうが、馬鹿にしたものではないはずだ。
土星人の感覚が七十二種類であるのに対し、シリウス星人の感覚は千種類もある。また土星人の寿命は約一万五千年だが、シリウス星人は土星人の七百倍も生きる。生涯に受け取る情報量が異なるので、哲学論を交わすのにも対等な雰囲気にはならないのは致し方ない。
それでも、議論の末、二人は連れ立って哲学的小旅行を試みることにしたのである。
木星、火星を経由した二人は、遂に地球に到達する。
しかし、三十六時間で地球を一周できてしまう巨人たちには、地球上の生物を裸眼で捉えることが出来ない。せっかちな土星の矮人は、地球上には生物は存在しないと決めてかかるのだが、偉大なるミクロメガスは、見えないからと言って存在しないとは限らないと諭す。その後、身に着けていたダイヤモンドを顕微鏡代わりに、まずは鯨を見つけ、それから鯨と同じ大きさの船を見つけるのだった。
ここから、漸く巨人と地球人との対話が始まる。
土星の矮人は、その小ささ故に地球人をかなり侮っている(ちょうどミクロメガスが土星の矮人を侮っているように)。一方のミクロメガスは、
“目に見えぬ昆虫諸君、畏くも創造主の御手に依り、無限小世界の深淵中に生れた皆さん。私はまず測り難く思われる大自然の秘密を示し給うた神に対し、厚く感謝を捧げるものであります。おそらくわが宮廷で諸君に目見えることまでは許されないでしょうが、しかし私は何びとをも侮る気はありませんから、諸君を保護して差し上げましょう”
とこれまた安定の上から目線なのだった。
その後、地球の物理学者が巨人たちの身長を正確に測定したとことから、ミクロメガスは地球の賢人たちと対話を始める。
これを脇で聞いている土星の矮人の反応が可愛い。
彼は地球人の返事に驚愕した余り、つい十五分ほど前には彼らに魂などあるはずはないと言っていた癖に、今度は、こいつらは魔法使いではあるまいか、と感嘆するのである。しかし、物語はそのまま地球人礼賛とはならない。ミクロメガスは、
“いや本当に、かつてないほどよく解りました、如何なるものに対しても、見かけの大きさなんかで判断を下すべきではないと云うことが!おお神よ!あなたはこれほどとるに足らぬように見える存在にさえ、一個の知性を与え給うた”
と彼が巨人でなければ、そろそろぶん殴りたくなるような言い草だ。
ミクロメガスは、この無限小世界に住むダニどもが、物理や歴史など目に見えるものに対してそれなりの見解を述べることが出来ると知ると、霊魂とはなんであるか、また人は如何にして自分の思想を形成するのか、その点を聞かせてもらいたいと願い出るのだった。
答える哲学者たちの学派は様々であり、その主張もまた様々だった。が、数が多いだけで全員碌なことを言わない。
ミクロメガスは、「神は私が手を下すことなしに一切をなし給うのであります」と唱えるマルブランシュ派の学者には、「むしろ君はいないほうがいいんじゃないの」と答え、その他の哲学する微生物どもにも、相応と思われる対応をした。最後に、聖トマスの『神学大全』を信奉する者の「すべてが、ただひたすら人間のために造られた」という主張を聞くに至って、巨人たちは、抑えきれない爆笑に息を詰まらせながら、互いに折り重なって笑い転げるのだった。この無限小のダニどもの、無限大とも云うべき傲慢さはどうであろう。
ともあれ、ミクロメガスは、地球人たちに彼らのサイズにふさわしい哲学書を作ってやると約束し、出発前に手渡した。受け取った地球人がその書を開いてみると、そこには真っ白な頁以外何も書かれていなかったという締めである。
本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の7巻目にあたる。思惑があっての並びであろうから、本来なら1巻から読むのが正しいのだろう。
が、私が“バベルの図書館”を知ったのが、ボルヘスの『夢の本』に収録されていたパピーニの「病める騎士の最後の訪問」が気に入ったことからなので、 “バベルの図書館”は、当然の如くパピーニの『逃げてゆく鏡』から読み始めた。この『逃げてゆく鏡』は、“バベルの図書館”の最終巻にあたる。端から順番が違っているので、今後も好きな巻から読んでいけばいいと開き直った。
実のところ、『ミクロメガス』は、なるべく後回しにするつもりだったのだ。
なんせ私は、四半世紀ほど前に祖父の本棚から借りパクしたキルケゴールの『死に至る病』を未だ読了できていないくらいの哲学オンチで(その間に祖父が鬼籍に入ったので永遠に返せなくなってしまった)、ヴォルテールなど絶対理解できない、苦行のような読書は御免蒙りたいという気持ちが強かった。それにも関わらず、パピーニに続いて、ヴォルテールを手に取ったのは、『ミクロメガス』と言うタイトルの、神話的でもあり宇宙的でもある響きに強く心惹かれたからなのである。
ヴォルテールの物語には、『千夜一夜物語』と『ガリヴァー旅行記』の二つの典拠がある。
本書にはその両方が収められているが、私が読みやすいと感じたのは、『ガリヴァー旅行記』典拠の作品だった。
中でも、表題作の「ミクロメガス」は、期待以上の面白さで、他には「メムノン」「スカルマンタドの旅行譚」も所々笑いをかみ殺しながら読み進めたものである。
読んでみて思ったのだが、ヴォルテールは読者からの理解をさほど期待していなかったのではあるまいか。自身の作品の中で、持ち前の批評精神をもって、理屈屋や無謀な大望を抱く者を皮肉るヴォルテールは、むしろ熱心な追従者を倦んでいたのかもしれない。
ボルヘスは序文で、“おそらくヴォルテールは人間をそれ以上複雑な分析には値しないものと考えたのであろう。たぶん彼は間違ってはいないであろう”と述べている。我々が自身の心中に複雑怪奇な深淵を抱えていると感じるのは、錯覚なのだろうか。何だかそんな気がしてきた。
また、“ライプニッツは、この地球はありとある可能な世界のうちで最良の世界であると言いつづけていた。ヴォルテールはそのようなありそうもない理論を愚弄するために、「オプティミスム」という言葉を考え出した。(略)破局と災難の実例を積み上げでみせることは彼にはむつかしいことではなかったが、彼はそれを、得られた結果が人心を荒涼たらしめる悲しみではなく、それとは正反対のものとなるほどの椀飯振舞と、じつに気の利いた文致とをもって行ったのである。ヴォルテールのような人間を産み出した宇宙がどうして邪悪なものであり得ようか。彼は自分をペシミストと信じていたが、彼の気質はその愁うべき可能性を彼に禁じた”、というボルヘスの見解も、ヴォルテールの作品を読んでいく上で大きな手掛かりになった。そして、最後まで読んだ後に、もう一度序文を読み返し、なるほどそういうことかと感じ入ったのである。
「ミクロメガス」は、宇宙を股に掛けた巨人たちの冒険譚だ。
宇宙版ガリヴァー旅行記とでも言ったらよいのか、出てくる数字がいちいち壮大なのが笑いを誘う。
「ミクロメガス」は、
第一章―――シリウス星系の一住人が土星へ旅すること
第二章―――シリウス星の住民と土星の住民が話を交わすこと
第三章―――シリウス星の住民と土星の住民とが二人して旅に出ること
第四章―――地球上で彼らの身に起ったこと
第五章―――二人の旅人が実験と推論を重ねること
第六章―――異星人と人間の間に生じたこと
第七章―――人間との会話
の七つの章から構成されている。
シリウス星に、ミクロメガスと言う名の若き才人が住んでいた。
我々の住む地球に比べるとシリウス星は途轍もなく巨大な星であり、そこの住民もまた、我々地球人に比べると大変な巨人である。
“ミクロメガス氏は、頭の天辺から爪先まで二万四千歩、即ち王尺で云えば十二万尺の身の丈があり、他方、地球の市民たる我々の身の丈は、たかだか五尺余りに過ぎず、かつまた我々の天球は周囲九千里であるから、(略)即ちミクロメガス氏を産出せしめた天球は、是非ともわれらの小さな地球の、正味二千百六十万倍の円周を有していなければならない”
桁が違い過ぎて上手く想像できないが、シリウス星人にとって地球などちっぽけな蟻塚に過ぎないことはわかる。
では、なぜ偉大なるシリウス星人ミクロメガスが、辺境の蟻塚まで旅することとなったのか。
事の発端は、ミクロメガスが四百五十歳頃の子供時代が終わろうとする時期(シリウス星人は大変な長寿なのだ)に、知的好奇心の赴くままに行った実験の結果をまとめた著書にある。著書中から胡乱なにおいを嗅ぎ付けた律法博士から告発を受け、裁判沙汰となったのだ。二百二十年も続いた裁判の結果、ミクロメガスは、八百年間宮廷の出入りを禁ずるという有罪判決を受けた。
それを切掛けにミクロメガスは、己が《知性と心情》の修行の仕上げをせんがため、惑星から惑星へと旅を始めたのだった。
ミクロメガスは、土星に立ち寄った際に、土星アカデミーの才気ある人物と意気投合した。
意気投合と言っても、土星は地球のほぼ九百倍の大きさしかない矮小な星であり、そこの住人も身の丈がたかだか千トワーズ(1949メートル)の矮人に過ぎない。ミクロメガスは相手に理解を示しつつも、
“如何に身の丈が六千尺しかなくとも、いやしくもものを考える存在である以上、決して莫迦にしたものではないかも知れぬ”
と、ナチュラルに上から目線である。
この土星の矮人の知力は、恐らくシリウス星人と地球人との中間くらいなのだろう。ミクロメガスのうっすらと皮肉な物言いせいで、彼に対して若干マヌケな印象を抱いてしまうが、馬鹿にしたものではないはずだ。
土星人の感覚が七十二種類であるのに対し、シリウス星人の感覚は千種類もある。また土星人の寿命は約一万五千年だが、シリウス星人は土星人の七百倍も生きる。生涯に受け取る情報量が異なるので、哲学論を交わすのにも対等な雰囲気にはならないのは致し方ない。
それでも、議論の末、二人は連れ立って哲学的小旅行を試みることにしたのである。
木星、火星を経由した二人は、遂に地球に到達する。
しかし、三十六時間で地球を一周できてしまう巨人たちには、地球上の生物を裸眼で捉えることが出来ない。せっかちな土星の矮人は、地球上には生物は存在しないと決めてかかるのだが、偉大なるミクロメガスは、見えないからと言って存在しないとは限らないと諭す。その後、身に着けていたダイヤモンドを顕微鏡代わりに、まずは鯨を見つけ、それから鯨と同じ大きさの船を見つけるのだった。
ここから、漸く巨人と地球人との対話が始まる。
土星の矮人は、その小ささ故に地球人をかなり侮っている(ちょうどミクロメガスが土星の矮人を侮っているように)。一方のミクロメガスは、
“目に見えぬ昆虫諸君、畏くも創造主の御手に依り、無限小世界の深淵中に生れた皆さん。私はまず測り難く思われる大自然の秘密を示し給うた神に対し、厚く感謝を捧げるものであります。おそらくわが宮廷で諸君に目見えることまでは許されないでしょうが、しかし私は何びとをも侮る気はありませんから、諸君を保護して差し上げましょう”
とこれまた安定の上から目線なのだった。
その後、地球の物理学者が巨人たちの身長を正確に測定したとことから、ミクロメガスは地球の賢人たちと対話を始める。
これを脇で聞いている土星の矮人の反応が可愛い。
彼は地球人の返事に驚愕した余り、つい十五分ほど前には彼らに魂などあるはずはないと言っていた癖に、今度は、こいつらは魔法使いではあるまいか、と感嘆するのである。しかし、物語はそのまま地球人礼賛とはならない。ミクロメガスは、
“いや本当に、かつてないほどよく解りました、如何なるものに対しても、見かけの大きさなんかで判断を下すべきではないと云うことが!おお神よ!あなたはこれほどとるに足らぬように見える存在にさえ、一個の知性を与え給うた”
と彼が巨人でなければ、そろそろぶん殴りたくなるような言い草だ。
ミクロメガスは、この無限小世界に住むダニどもが、物理や歴史など目に見えるものに対してそれなりの見解を述べることが出来ると知ると、霊魂とはなんであるか、また人は如何にして自分の思想を形成するのか、その点を聞かせてもらいたいと願い出るのだった。
答える哲学者たちの学派は様々であり、その主張もまた様々だった。が、数が多いだけで全員碌なことを言わない。
ミクロメガスは、「神は私が手を下すことなしに一切をなし給うのであります」と唱えるマルブランシュ派の学者には、「むしろ君はいないほうがいいんじゃないの」と答え、その他の哲学する微生物どもにも、相応と思われる対応をした。最後に、聖トマスの『神学大全』を信奉する者の「すべてが、ただひたすら人間のために造られた」という主張を聞くに至って、巨人たちは、抑えきれない爆笑に息を詰まらせながら、互いに折り重なって笑い転げるのだった。この無限小のダニどもの、無限大とも云うべき傲慢さはどうであろう。
ともあれ、ミクロメガスは、地球人たちに彼らのサイズにふさわしい哲学書を作ってやると約束し、出発前に手渡した。受け取った地球人がその書を開いてみると、そこには真っ白な頁以外何も書かれていなかったという締めである。