青い花

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ヴィクトリア朝怪異譚

2019-12-12 07:45:01 | 日記
三馬志伸編訳『ヴィクトリア朝怪異譚』には、ウィルキー・コリンズ「狂気のマンクトン」、ジョージ・エリオット「剥がれたベール」、メアリ・エリザベス・ブラットン「クライトン・アビー」、マーガレット・オリファント「老貴婦人」の四編が収録されている。

三馬氏による解題と訳注が充実していて、大変取っ付きやすいアンソロジーだった。
解題はネタバレが回避されているので先に読んでも問題ないと思う。私はヴィクトリア朝文学に疎いので、この解題には随分と助けられた。個人的には、W・W・ジェイコブスの「猿の手」の名前が載っていたのが嬉しかった。「猿の手」は、私にとって恐怖小説の入り口となった作品の一つであるので。

解題によると、イギリスにおいて18世紀中ごろ文学の一ジャンルとして確立された小説は、19世紀後半にその最盛期を迎えたとのこと。
ヴィクトリア朝時代には、ディケンズ、ハーディー、ブロンテ姉妹など、英文学史全体を通しても有数のビッグネームが犇き合っているので、その充実度は窺い知れる。
そういった文学性の高い作家が数多く誕生した一方で、この時期は所謂大衆文学の分野も豊作だった。
1860年代には、今日のミステリーやスリラー小説の源流になったとされる作品が次々に出版され、怪奇小説、恐怖小説の分野で良作が数多く発表された。それらは、センセーション小説という呼称で呼ばれるようになった。
このアンソロジーに選ばれた四編の作者は、そんなセンセーション小説の分野で人気を博した作家達である(エリオットは日本でいうところの純文学の分野での方が有名だが)。
当時の小説は長編が主流で、センセーション小説も例外ではなかった。が、内容的に長編にし難い恐怖小説は中短編が主体で、特にクリスマス時期になるとディケンズのような文壇の大御所も雑誌に短めの幽霊譚を寄稿していたという。

この時期に量産された恐怖小説は、雑誌に載せられたきり忘れ去られた作品が多い。
短編だと現在まで残っている作品は、有名作家の作品を除けば、個人の単行本より怪奇小説アンソロジーの収録作品として残っているのが一般的であるようだ。
アンソロジーに載せ易いページ数の短編はまだいい。
中編となると優れた作品でも、アンソロジーに収録するには長すぎ、個人の単行本として刊行するには短すぎるということで、取り上げる場所が少なく、埋もれてしまっている作品もかなりあるらしい。お宝が人知れず眠ったままとは勿体無い。
本書ではそうした中編の怪異譚の中から、読みごたえがあり、かつ、日本の読者にはあまり馴染みがない作品が選ばれている。アンソロジーにしては少ない収録作数なのは一つ一つの作品のページ数の多さのためだが、これが案外違和感なく読めた。

ヴィクトリア朝は科学が急速に進歩した時代で、科学に対する知識人の関心が高かった。
そんな時代背景に影響されたのか、この時期に怪異譚を書く作家は、超常現象の解明や人間心理の分析を科学の力で試そうという熱意が強かったようだ。本作に選ばれた四編からは、ゴシックロマンな香りの中に、科学への無邪気ともいえる期待が感じられた。


「狂気のマンクトン」のウィルスキー・コリンズは、『白衣の女』、『月長石』の作者として日本でもその名が知られている長編ミステリーの大家だ。
27歳でディケンズに認められたコリンズは、中短編の名手でもあった。「狂気のマンクトン」は、彼の作家人生の初期に書かれた習作的作品で、遺伝性の狂気をテーマとしている。

先祖代々遺伝性の狂気という恐ろしい不幸に祟られた名家マンクトン家の末裔アルフレッドが、一族に纏わる古い予言を信じ込み、同郷の語り手を巻き込んで、イタリアで不慮の死を遂げた叔父の亡骸の捜索に狂奔するという筋立てをサスペンスタッチで描いている。
全編を通して陰鬱な空気に支配されているこの作品の中でも、語り手の青年が古い修道院の納屋でスティーヴン叔父の遺体を発見する場面は極めて衝撃的だ。このショッキングな場面の前後で現れる、語り手が“我が尊師”と揶揄するみみっちい老修道僧とのコミカルなやり取りがまた、スイカに塩的な効果で遺体発見の場面の気色悪さを引き立てている。

コリンズの短編は欧米の怪奇小説アンソロジーに度々取り上げられてきたが、この「狂気のマンクトン」は扱いづらい長さのためか、アンソロジーに採用されたことは殆どなかった。
事情は日本でも同じで、異なる作家による怪談集は勿論のこと、コリンズ個人の選集にも収められたことはない。今回が本邦初訳である。


「剥がれたベール」は、『アダム・ビード』、『ミドルマーチ』、『ダニエル・デロンダ』など、文学性の高い大作でヴィクトリア朝中期の代表的な作家となったジョージ・エリオットが一作だけ書いた通俗小説だ。

なぜ文学の王道を邁進していたエリオットが、未来予知と読心能力をテーマとした奇怪な例外を書いたのか。
エリオットは、当時話題だった骨相学や催眠術、千里眼、読心術などに深い関心を抱いていたという。今日では似非科学と軽んじられるこれらスーパーナチュラルな分野も、ヴィクトリア朝時代には十分現実味を帯びた科学的探究の対象だったようだ。少なくとも、エリオットにとっては。
しかし、『牧師館物語』と『アダム・ビート』の出版を手掛けたジョン・ブラックウッドは、この異色作に戸惑い、自分の雑誌に掲載するにあたり、作者エリオットの名を付すことを拒否したのだった。

物語は一人の富豪が自分の臨終の場面を予知するところから始まる。
名家に生まれ、美しい妻を娶った彼が、なぜそのような孤独と苦悶に満ちた最期を遂げる羽目になるのか。そして、なぜそれが分かっているのに、彼は無策のままでいるのか。
天はこの男に有り余る富とある特殊な能力を与えた。しかし、男はそれに見合う器ではなかった。名家に生まれただけの凡庸な男が、超能力に目覚めてしまったが故にどうしようもない孤独と無気力に陥っていく過程の克明な描写は、ダーク・ファンタジーとしても、心理小説としても楽しめる。超常現象をテーマにしながらもリアルな心理描写と緊迫感あふれるストーリー展開で現代の読者をも飽きさせない傑作だ。

「剥がれたベール」は、英米では怪談のアンソロジーに折に触れて収められてきたが、日本では文学全集に載せられたことはあっても、怪奇小説アンソロジーに取り上げられたことは殆どない。エリオットと言えば純文学というのが、日本の出版界の見解なのだろうか。


「老貴婦人」のマーガレット・オリファントは、作品を量産する作家が多かったヴィクトリア朝時代にあって、とりわけ多作な作家として知られていた。小説だけでも90作以上発表し、人気作家として長らく活躍していたが、現代では本国のイギリスでもほぼ忘れられた存在である。
オリファントが読まれなくなった理由の一つとして、作品の数があまりにも多すぎるため却って代表作が定まらなかった、ということが挙げられるそうだ。未知の作家の作品を手に取ろうとする時に、代表作が分からないとどういう傾向の作家かも分からず、結局手に取るのを見合わせる、ということはまぁよくある。
私は、オリファントの作品はこの一作しか知らないのだが、詰まらないから飽きられたということでは無いと思っている。才能の有無に関係なく、運に恵まれない作家はいるだろう。「老貴婦人」は、このアンソロジーの四作の中でも、一番個性が強く面白い作品だった。

利己主義はオリファントが好んで取り上げたテーマだそうだ。
「老貴婦人」の主人公レイディ・メアリを利己主義と判定するのは少々酷な気もするが、高貴な身分の方特有の無邪気な楽観主義ゆえに思わぬ禍根を残したあたりは、責められても致し方無いかもしれない。でも、やっぱり彼女の人の良さを考えると、皆ちょっと責め過ぎだろうとも思ったり。自分でもどっちなのか割り切れない思いのまま終盤まで読み進めることになった。

レイディ・メアリは、高齢者なら当然片づけておかなければならない責務を先延ばしにしたために、死後に自分の怠慢から最も愛する者を窮地に追いやってしまったことを知って、成仏できない魂(キリスト教には不適切な表現だが、要するに現世に強い未練があって天国にも地獄にも行けない亡霊のような者達だ)の集う煉獄らしき場所で後悔に苛まされることになる。
莫大な財産を持ち、かつ人も良かったレイディ・メアリに、周囲の人々の期待は大きかった。その反動で彼女が遺書を残さず突然死すると、当然貰えると思い込んでいたあれこれがパーになった人々がこぞって彼女を批判する。

レイディ・メアリには、リトル・メアリことメアリ・ヴィヴィアンという養い子がいた。
元来相続権の無いリトル・メアリは、レイディ・メアリが遺言を残さなかったために、唐突に無一文になってしまった。レイディ・メアリが、煉獄で激しく後悔していたのは、このリトル・メアリの処遇についてである。このままでは、レイディ・メアリの財産はすべて遠い外国にいる孫の物となり、屋敷は売り払われてしまうかもしれない。そうなった時、リトル・メアリはどうなってしまうのか。財産も縁者もなく、これまでお嬢様暮らしで何の身過ぎ世過ぎの術も身につけていない彼女が…。

レイディ・メアリは、煉獄の人々に反対されながらも現世に舞い戻り、リトル・メアリの窮地を救おうとする。しかし、ただの幽霊であるレイディ・メアリに出来ることは何もない。それどころか、姿の見えない存在になったために、人々が自分を批判しているのを嫌というほど立ち聞きする羽目になるのだった。

序盤のちょっと滑稽なやり取りから、中盤の胸を締め付けられるような懊悩煩悶、そこからの救済と祝福、と筋運びも心理描写も非常に巧みだ。
オリファントは、夫と子供三人を早くに亡くしたこともあって、何らかの形で死後の世界を信じたかったようだ。「老貴婦人」を書いた意図はそこにあるらしい。しかし、この作品では、オカルトの要素が意外な効果を発揮して人情ドラマを盛り上げていた。愛と許し、その中にすべてが含まれているのだ。

オリファントの作品は、日本では江戸川乱歩が『幻影城』所収の「怪談入門」で「開いた扉」を好意的に紹介しており、その後「開いた扉」は恐怖選集に選ばれた。しかし、「老貴婦人」は、日本はおろか、英米でもアンソロジーに取り上げられることは殆ど無かった埋もれた名作である。
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