キーツを読んでみたくなって、高島誠訳『新訳キーツ詩集』を手にとった。
ジョン・キーツは、1795年生まれのイギリス・ロンドン出身の詩人。初期ロマン派を代表する詩人と評されている。
キーツに関しては、文献資料が膨大であるため、概要をとらえることが逆に困難であるが、本書収録の高島誠による解説と、詩人の安藤一郎による「キーツの墓」は、初心者がキーツを知る手がかりとして有用だろう。
空想という名の女の子はいつも旅をさせておこう
楽しいことは家庭にはないのだから
甘いままごとのはかなさは
にわか雨のしぶきと同じはかないもの
翼をもつファンシーには放浪をさせておこう 「空想」
キーツの詩語は水晶のように硬質で冷たく夢想的だ。
ことに天体や動植物の繊細な描写には特筆すべきものがある。思想の表現としての詩という面が強いため、素人には底意が掴みにくいという印象があるが、あれこれ考えずにまずは夢幻的な言葉の放出に酔うだけで十分なのだと思う。中には恋愛の苦悩とがっぷり四つを組んでいるような人間臭い作品もあって、誠実な友達に恵まれた彼の素直な人柄がしのばれる。
女よ 薄っぺらの見栄をはる
浮気で高慢、いつも空想にふけり
恥ずかしそうに目を伏せてこれでもかとみせるあのしとやかさよ
(中略)
でも女よ、きみの素直さ親切さ優しさを目にすると
まったくぼくはきみの男殺しの
優雅さを讃えずにはいられないのだ――きみの保護者になりたくて 「女よ」
ジョン・キーツは、1795年、ロンドン市内で貸馬車屋を営む若夫婦の長男として生まれた。
7カ月の早産で、成人になっても5フィート足らずの小柄だった。ジョンが8歳の時に父が事故死。まもなく母は再婚したが上手くいかずに離婚。貧困の中、次第に病み衰え、ジョンが15歳の時に結核で病没した。残された子供たちは離散し、それぞれ苦難と病苦を背負った。ジョンも25歳で亡くなっている。生涯病弱で、友人に宛てた手紙にも「健康を持たないものほど悪いものはない――そのために街路掃除人や灰ふるい人まで羨ましく思わせる」と綴っている。
私は命が終るのが恐ろしい
頭脳にみなぎるものの収穫を私のペンはまだ終わっていないのに、
高く積みあげられた書物が 実り豊かな穀倉のようにみなぎりながら
文字になって形を成していないのに 「私は命が終るのが恐ろしい」
1814年、祖母の薦めでキーツは外科医の見習いとして奉公に出、1816年には外科医の資格を得たが、この頃には詩人として生きていく決意を固めていた。週刊誌「エグザミナー」のリー・ハントや友人たちの励ましを受けつつ、試行錯誤しながら詩作を続けた。
1817年の春、キーツはワイト島への旅に出た
。旅での経験は、キーツにたくさんの詩を書かせた。22歳で処女詩集『キーツの詩集』(Poems by John Keats)を刊行したが、あまり売れなかった。
翌年はスコットランドへ旅に出た。
ヘイスティングで年上の未亡人イザベラ・ジョーンズに出会い、恋に落ちた。
1818年4月、ギリシア神話をふくらませた叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を刊行。
イザベラから受けたイメージをエンディミオンがニンフに出会う場面に投影させている。しかし、『エンディミオン』は不評を受けてしまった。傷心したキーツはスコットランドからアイルランドに渡り、そして、また恋に落ちた。
1819年の4月から8月に奇跡的な一連のオードが書かれ、1819年9月に未完で終わってしまった『ハイぺリオンの墜落』に取り掛かるまで、数多の詩を世に送り出した。
一方で、事業に失敗した弟ジョージのために金策に走ったり、恋人ファニー・ブローンとの諍いに錯乱したりと苦悩の多い時期でもあった。
ぼくには解っている 絶望なのだ
ぼくのようにおまえを愛しているものは、美しいファニーよ
お前のいくところに心がいつも飛んでいて
おまえがさまよい歩いていると
侘しい家にはいられないのだ
恋、恋しか こんな苛烈な苦しみを与えまい
美しい人よ、お願いだ
この残忍な嫉妬を起こさせないでくれ 「ファニーに寄せて」
1820年2月、喀血。
友人たちはイタリアへの保養を勧めた。画家のジョセフ・セヴァンが付き添い、キーツは帰らぬ旅路に着いた。
セヴァンの献身的な看病もむなしく、キーツは1821年2月、ローマにて病没した。
墓所の選択はセヴァンに委ねていた。キーツの大好きだった菫の花が咲く墓所に、キーツとセヴァンの二つの墓が並んでいる。二つの墓石は全く同じ形の大理石で、キーツの方には竪琴が、セヴァンの方にはパレットが刻んである。
墓碑銘は遺言により、「その名を水に描かれた者、ここに眠る(‘ Here lies one whose name was writ in water’)」と刻まれた。
極北に輝く星よ ぼくはあなたのように断じて動かぬものになりたい 「最後のソネット」
生きるということの悲惨を突き抜けた純粋精神。
25年の生涯を貧乏と病に苦しめられ、恋人からも苦悩を与えられることの多かったキーツであったが、友人には恵まれた。わずか5年の詩作期間を良き友に支えられ、キーツの名は、ロマン派の代表的な詩人として不動のものとなっている。
ジョン・キーツは、1795年生まれのイギリス・ロンドン出身の詩人。初期ロマン派を代表する詩人と評されている。
キーツに関しては、文献資料が膨大であるため、概要をとらえることが逆に困難であるが、本書収録の高島誠による解説と、詩人の安藤一郎による「キーツの墓」は、初心者がキーツを知る手がかりとして有用だろう。
空想という名の女の子はいつも旅をさせておこう
楽しいことは家庭にはないのだから
甘いままごとのはかなさは
にわか雨のしぶきと同じはかないもの
翼をもつファンシーには放浪をさせておこう 「空想」
キーツの詩語は水晶のように硬質で冷たく夢想的だ。
ことに天体や動植物の繊細な描写には特筆すべきものがある。思想の表現としての詩という面が強いため、素人には底意が掴みにくいという印象があるが、あれこれ考えずにまずは夢幻的な言葉の放出に酔うだけで十分なのだと思う。中には恋愛の苦悩とがっぷり四つを組んでいるような人間臭い作品もあって、誠実な友達に恵まれた彼の素直な人柄がしのばれる。
女よ 薄っぺらの見栄をはる
浮気で高慢、いつも空想にふけり
恥ずかしそうに目を伏せてこれでもかとみせるあのしとやかさよ
(中略)
でも女よ、きみの素直さ親切さ優しさを目にすると
まったくぼくはきみの男殺しの
優雅さを讃えずにはいられないのだ――きみの保護者になりたくて 「女よ」
ジョン・キーツは、1795年、ロンドン市内で貸馬車屋を営む若夫婦の長男として生まれた。
7カ月の早産で、成人になっても5フィート足らずの小柄だった。ジョンが8歳の時に父が事故死。まもなく母は再婚したが上手くいかずに離婚。貧困の中、次第に病み衰え、ジョンが15歳の時に結核で病没した。残された子供たちは離散し、それぞれ苦難と病苦を背負った。ジョンも25歳で亡くなっている。生涯病弱で、友人に宛てた手紙にも「健康を持たないものほど悪いものはない――そのために街路掃除人や灰ふるい人まで羨ましく思わせる」と綴っている。
私は命が終るのが恐ろしい
頭脳にみなぎるものの収穫を私のペンはまだ終わっていないのに、
高く積みあげられた書物が 実り豊かな穀倉のようにみなぎりながら
文字になって形を成していないのに 「私は命が終るのが恐ろしい」
1814年、祖母の薦めでキーツは外科医の見習いとして奉公に出、1816年には外科医の資格を得たが、この頃には詩人として生きていく決意を固めていた。週刊誌「エグザミナー」のリー・ハントや友人たちの励ましを受けつつ、試行錯誤しながら詩作を続けた。
1817年の春、キーツはワイト島への旅に出た
。旅での経験は、キーツにたくさんの詩を書かせた。22歳で処女詩集『キーツの詩集』(Poems by John Keats)を刊行したが、あまり売れなかった。
翌年はスコットランドへ旅に出た。
ヘイスティングで年上の未亡人イザベラ・ジョーンズに出会い、恋に落ちた。
1818年4月、ギリシア神話をふくらませた叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を刊行。
イザベラから受けたイメージをエンディミオンがニンフに出会う場面に投影させている。しかし、『エンディミオン』は不評を受けてしまった。傷心したキーツはスコットランドからアイルランドに渡り、そして、また恋に落ちた。
1819年の4月から8月に奇跡的な一連のオードが書かれ、1819年9月に未完で終わってしまった『ハイぺリオンの墜落』に取り掛かるまで、数多の詩を世に送り出した。
一方で、事業に失敗した弟ジョージのために金策に走ったり、恋人ファニー・ブローンとの諍いに錯乱したりと苦悩の多い時期でもあった。
ぼくには解っている 絶望なのだ
ぼくのようにおまえを愛しているものは、美しいファニーよ
お前のいくところに心がいつも飛んでいて
おまえがさまよい歩いていると
侘しい家にはいられないのだ
恋、恋しか こんな苛烈な苦しみを与えまい
美しい人よ、お願いだ
この残忍な嫉妬を起こさせないでくれ 「ファニーに寄せて」
1820年2月、喀血。
友人たちはイタリアへの保養を勧めた。画家のジョセフ・セヴァンが付き添い、キーツは帰らぬ旅路に着いた。
セヴァンの献身的な看病もむなしく、キーツは1821年2月、ローマにて病没した。
墓所の選択はセヴァンに委ねていた。キーツの大好きだった菫の花が咲く墓所に、キーツとセヴァンの二つの墓が並んでいる。二つの墓石は全く同じ形の大理石で、キーツの方には竪琴が、セヴァンの方にはパレットが刻んである。
墓碑銘は遺言により、「その名を水に描かれた者、ここに眠る(‘ Here lies one whose name was writ in water’)」と刻まれた。
極北に輝く星よ ぼくはあなたのように断じて動かぬものになりたい 「最後のソネット」
生きるということの悲惨を突き抜けた純粋精神。
25年の生涯を貧乏と病に苦しめられ、恋人からも苦悩を与えられることの多かったキーツであったが、友人には恵まれた。わずか5年の詩作期間を良き友に支えられ、キーツの名は、ロマン派の代表的な詩人として不動のものとなっている。
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