青い花

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悪魔の恋

2019-01-18 07:40:01 | 日記
カゾット著『悪魔の恋』には、ボルヘスによる序文と表題作が収録されている。

本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の19巻目にあたる。私にとっては、5冊目の“バベルの図書館”の作品だ。

カゾットの経歴については、序文に詳しく記されている。
1720年頃ディジョンに生まれたカゾットは、ジェズイット会の教育を受けながらも、キリスト教への信仰は捨てなかった。また、彼は、フランス革命で命を奪われた多くの人物の一人でもあった。『悪魔の恋』の成功で存命中から高名だったカゾットであるが、革命の犠牲者となったことが、更に彼を伝説の人にしたのだと思う。
彼の最期は以下のものであった。

“熱烈な君主制主義者であった彼はルイ十六世支持をけっして隠さない。一七九二年八月、当局は、陰謀を企んでいると考えられる文面の数通の手紙を押収する。カゾットは逮捕され、娘のエリザベートも自分からすすんで下獄する。運命は彼に素晴らしい最期を授ける。七十歳をゆうに越えてから、彼は絞首台へ上ってこう言うことができるのだから。「私はこれまでと同じように、神とわが国王に対して忠実に死んでいく」”

カゾットの処刑は、ルイ16世の処刑より四ヶ月ほど早かった。
斯様に劇的な生涯を送ったカゾットの作品は、フランス語の散文で書かれているが、その内容は幻想的だ。
彼は20歳でパリに出たころにはこのように書いていた。

“ぼくは孤独の、内省の、漠としたとりとめのない黙想の、愛好家でした……ぼくは、たとえ外面的人生のどんなに日常的な相の発現するところにいようとも、ほとんど全世界から、自分を完全に孤立させることを決意しました。”

1772年に『悪魔の恋』が出版され大当たりすると、彼は所属していた秘密結社から、重大な奥義を暴露したと告発される。それに対してカゾット自身はこのように言明している。

“ぼくらは父祖の霊たちの間に生きている。目に見えない世界がぼくらを取り巻いている……ぼくらが思いをはせる友人たちが、絶えず親しげにぼくらに近寄ってくる。ぼくは見る、善を、悪を、善人たちを、悪人たちを。往々にして、それらの生存者たちは、ぼくが彼らを見ているうちに、入り乱れてごっちゃになり、肉体を装って生きている者と、そんな粗野な外見など脱ぎ捨ててしまった者とを、そもそも最初から識別することなど、ぼくには必ずしもできないほどである…”

“今朝、全能者の眼差しのもとに、われらを一つに結び合わせていた祈りの間、堂内はあらゆる時代、あらゆる国の生者と死者とでみちあふれ、ぼくには生と死とを見分けることが出来なかった。それは奇妙な混乱だったが、また壮麗な光景でもあった。”


『悪魔の恋』の主人公アルヴァーレは、当時25歳の大尉だった。
彼は当世の若者らしく、財布の続く限り女遊びや賭博に耽る生活を送っていたが、ある時、仲間の一人からカバラ(降霊術)の話を聞かされる。

それはソベラーノという名の冷ややかな印象の男だった。
彼はアルヴァーレと二人きりになると、カルデロンなる精霊を呼び出し、パイプに火をつけさせた。好奇心でいっぱいになったアルヴァーレは、自分も精霊と交流したいと頼み込む。ソベラーノは、悪魔に付け入られる危険があるので、精霊との交流を可能にするには試練の期間が二年はかかると渋る。が、向こう見ずなアルヴァーレは、悪魔が出てきたら耳を引っ張ってやると食い下がる。そして、次の金曜日にカバラを行う約束を取り付けるのだった。

当日、パンタクルの円の中に一人取り残されたアルヴァーレは、悪魔ベエルゼビュートと交信することになった。
ベエルゼビュートは並外れた大きな耳の付いた駱駝の姿をしており、その身の毛のよだつような姿にふさわしい不気味な口調で、「何ぞ御用(ケ・ヴオイ)?」と答えた。
慄きつつも、どうにか気絶せずに済んだアルヴァーレは、ソベラーノへの見栄もあって、悪魔に対し、御主人様の呼び出しにそんな見苦しい姿で現れるとはどういうことだ、それ相応な姿になり、神妙な口をきけ、と尊大な態度を取った。
そんな彼に対して、どういう訳か悪魔は従順だった。最初はスパニエル犬に、次には四季施を着た可愛らしい小姓になって、命じられるままに、美しい調度品と葡萄酒、御馳走を出して宴会を開き、ソベラーノとその友人達をもてなすのだった。
ビヨンデットと名乗る小姓の美しさと巧みなもてなしは客人たちの羨望の的になり、中でもベルナディルロという男は熱心にアルヴァーレの成功の秘密を知りたがった。

ソベラーノ達を馬車で各々自宅に送り届けると、アルヴァーレは自分の館に戻り、ビヨンデットと二人きりになった。すると、ビヨンデットは美女の姿になり、アルヴァーレに対して熱心に求愛を始め、追い出さないで欲しいと懇願し、まめまめしく尽すようになった。
この女――今度はビヨンデッタと名乗った――の正体が悪魔であることを知っているアルヴァーレは、当然、彼女の求愛をはねつける。そして、必要以上に彼女を邪険に扱うのだが、避ければ避けるほど意識してしまい、

“お前があの醜悪な駱駝でなかったらなあ……(略)ああも心を撃ち、ああも優しい、あいつの眼差の輝きは、残酷な毒物なんだ。あんなに形の美しい、色鮮やかな、瑞々しい、そして、見たところああもあどけないあの唇も、佯りを言うためにしか開かないのだ。あの心も、仮に心があるものなら、それは裏切るためにしか熱しはしないのだろう”

と、彼女に溺れないように己に言い聞かせるのだった。

しかし、気を紛らわせるためにのめり込んだ賭博で大きな借財を作ってしまい、ビヨンデッタの助けを借りることになってしまう。
更にはビヨンデッタを避けるために贔屓にしていた娼婦オランピヤが、嫉妬からビヨンデッタを刺し瀕死の重傷を負わせたことで、アルヴァーレの心は、

“この女は、僕と同じように命を持っていたのだ。僕がこの女の言葉を聞き入れようとせず、ことさらに危険な目に遭わせたために、今その命を落とそうとしている。おれは獣だ、人でなしだ。
お前は、世にも愛すべき人間なのに、僕はお前の数々の好意を全く見当違いな受け取り方をしてきたが、もしお前が死んだら、僕は生き残ろうとは思わない。“

とはっきりと矢印を傾けてしまうのだった。
その後、アルヴァーレは回復したビヨンデッタを伴い、ヴェネツィアの母の元まで結婚の承諾を貰いに向かうのだったが…。


ボルヘスによれば、『悪魔の恋』は、ル・サージュの『跛の悪魔』の意図的なアンチテーゼなのだそうだ。
ベエルゼビュートは、アルヴァーレを我が物にするために美女の姿を装い、姦計を用いるが、自分が仕掛けた罠に嵌って、アルヴァーレに本気で恋してしまう。真正面から愛を乞い、懸命に尽し、すすり泣くビヨンデッタの純情可憐な姿に、彼女の正体を見ているアルヴァーレでさえ幻惑され、醜悪な元の姿を失念してしまう。それは、ベエルゼビュート自身も同じだったのだろう。悪魔は、心まで恋する女になりきってしまった。まるで仮初の姿が、本来の姿を乗っ取ってしまったかのように。
ところが、ここまで上手くアルヴァーレの心を引き付けておきながら、彼が永遠の愛を誓う寸前になって、ベエルゼビュート=ビヨンデッタは、本来の姿を現し、彼のもとを去ってしまう。

いったい、悪魔の心の内で何が起きたのか。
アルヴァーレは、悪魔に愛を誓う時、彼=彼女から、それは本当の名ではないと言われても、頑なにビヨンデッタと呼び続けた。そして、自分は悪魔なのだと繰り返す彼=彼女に、「よしてくれ、可愛いビヨンデッタ、君が誰であろうと、その不吉な名前を口に出してくれるな」と、ビヨンデッタがベエルゼビュートであることをけっして認めようとはしなかった。
何故、アルヴァーレは心底ビヨンデッタを愛していながら、彼女がベエルゼビュートであるという事実を受け入れなかったのだろうか。悪魔と結ばれるなんてことはあってはならないという、18世紀の良識が愛よりも勝ったのだろうか。彼は、終にベエルゼビュートの名を呼ぶことはなかった。
悪魔自身もまた、18世紀的な良識を乗り越えられなかったのかもしれない。
悪魔は、そのままアルヴァーレを騙し続けることが可能だったのだ。
それにも関わらず、悪魔はアルヴァーレに悟らせるかの如く、醜悪な駱駝の頭とぬるぬると光る大きな蝸牛の姿になり、アルヴァーレの元から消え去ってしまった。その時、悪魔の心にあったのは、ありのままの姿を受け入れられなかったことに対する悲しみだろうか。結ばれるのなら、別に仮初の姿でも構わないだろうとは思わなかったらしい。18世紀の悪魔は、現代人の私よりよほど純粋で誠実だったようだ。両想いのように見えて、絶望的に噛み合わない二人の悲恋であった。
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