青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

キーツ

2016-02-17 07:05:29 | 日記
キーツを読んでみたくなって、高島誠訳『新訳キーツ詩集』を手にとった。

ジョン・キーツは、1795年生まれのイギリス・ロンドン出身の詩人。初期ロマン派を代表する詩人と評されている。
キーツに関しては、文献資料が膨大であるため、概要をとらえることが逆に困難であるが、本書収録の高島誠による解説と、詩人の安藤一郎による「キーツの墓」は、初心者がキーツを知る手がかりとして有用だろう。

空想という名の女の子はいつも旅をさせておこう
楽しいことは家庭にはないのだから
甘いままごとのはかなさは
にわか雨のしぶきと同じはかないもの
翼をもつファンシーには放浪をさせておこう   「空想」

キーツの詩語は水晶のように硬質で冷たく夢想的だ。
ことに天体や動植物の繊細な描写には特筆すべきものがある。思想の表現としての詩という面が強いため、素人には底意が掴みにくいという印象があるが、あれこれ考えずにまずは夢幻的な言葉の放出に酔うだけで十分なのだと思う。中には恋愛の苦悩とがっぷり四つを組んでいるような人間臭い作品もあって、誠実な友達に恵まれた彼の素直な人柄がしのばれる。

女よ 薄っぺらの見栄をはる
浮気で高慢、いつも空想にふけり
恥ずかしそうに目を伏せてこれでもかとみせるあのしとやかさよ
(中略)
でも女よ、きみの素直さ親切さ優しさを目にすると
まったくぼくはきみの男殺しの
優雅さを讃えずにはいられないのだ――きみの保護者になりたくて  「女よ」

ジョン・キーツは、1795年、ロンドン市内で貸馬車屋を営む若夫婦の長男として生まれた。
7カ月の早産で、成人になっても5フィート足らずの小柄だった。ジョンが8歳の時に父が事故死。まもなく母は再婚したが上手くいかずに離婚。貧困の中、次第に病み衰え、ジョンが15歳の時に結核で病没した。残された子供たちは離散し、それぞれ苦難と病苦を背負った。ジョンも25歳で亡くなっている。生涯病弱で、友人に宛てた手紙にも「健康を持たないものほど悪いものはない――そのために街路掃除人や灰ふるい人まで羨ましく思わせる」と綴っている。

私は命が終るのが恐ろしい
頭脳にみなぎるものの収穫を私のペンはまだ終わっていないのに、
高く積みあげられた書物が 実り豊かな穀倉のようにみなぎりながら
文字になって形を成していないのに   「私は命が終るのが恐ろしい」

1814年、祖母の薦めでキーツは外科医の見習いとして奉公に出、1816年には外科医の資格を得たが、この頃には詩人として生きていく決意を固めていた。週刊誌「エグザミナー」のリー・ハントや友人たちの励ましを受けつつ、試行錯誤しながら詩作を続けた。

1817年の春、キーツはワイト島への旅に出た
。旅での経験は、キーツにたくさんの詩を書かせた。22歳で処女詩集『キーツの詩集』(Poems by John Keats)を刊行したが、あまり売れなかった。

翌年はスコットランドへ旅に出た。
ヘイスティングで年上の未亡人イザベラ・ジョーンズに出会い、恋に落ちた。

1818年4月、ギリシア神話をふくらませた叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を刊行。
イザベラから受けたイメージをエンディミオンがニンフに出会う場面に投影させている。しかし、『エンディミオン』は不評を受けてしまった。傷心したキーツはスコットランドからアイルランドに渡り、そして、また恋に落ちた。

1819年の4月から8月に奇跡的な一連のオードが書かれ、1819年9月に未完で終わってしまった『ハイぺリオンの墜落』に取り掛かるまで、数多の詩を世に送り出した。
一方で、事業に失敗した弟ジョージのために金策に走ったり、恋人ファニー・ブローンとの諍いに錯乱したりと苦悩の多い時期でもあった。

ぼくには解っている 絶望なのだ
ぼくのようにおまえを愛しているものは、美しいファニーよ
お前のいくところに心がいつも飛んでいて
おまえがさまよい歩いていると
侘しい家にはいられないのだ
恋、恋しか こんな苛烈な苦しみを与えまい
美しい人よ、お願いだ
この残忍な嫉妬を起こさせないでくれ   「ファニーに寄せて」

1820年2月、喀血。
友人たちはイタリアへの保養を勧めた。画家のジョセフ・セヴァンが付き添い、キーツは帰らぬ旅路に着いた。
セヴァンの献身的な看病もむなしく、キーツは1821年2月、ローマにて病没した。
墓所の選択はセヴァンに委ねていた。キーツの大好きだった菫の花が咲く墓所に、キーツとセヴァンの二つの墓が並んでいる。二つの墓石は全く同じ形の大理石で、キーツの方には竪琴が、セヴァンの方にはパレットが刻んである。
墓碑銘は遺言により、「その名を水に描かれた者、ここに眠る(‘ Here lies one whose name was writ in water’)」と刻まれた。

極北に輝く星よ ぼくはあなたのように断じて動かぬものになりたい  「最後のソネット」

生きるということの悲惨を突き抜けた純粋精神。
25年の生涯を貧乏と病に苦しめられ、恋人からも苦悩を与えられることの多かったキーツであったが、友人には恵まれた。わずか5年の詩作期間を良き友に支えられ、キーツの名は、ロマン派の代表的な詩人として不動のものとなっている。
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ヤマトヌマエビ

2016-02-15 06:58:45 | 日記

金魚の水槽の苔とりのためにヤマトヌマエビを頂きました。でも、うちの金魚ちゃんたちは食いしん坊なので、エビちゃんたちを食べちゃうかもしれません。


ラムズホーンも追加してもらえましたよ。前回いただいたものは親指の爪くらいの大きさでしたが、今回のものは3ミリくらいの大きさです。
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友チョコ

2016-02-12 07:12:25 | 日記

娘が、「明日、お友達にバレンタインディーのチョコを渡したい」と言うので、昨日一緒に作ってみました。娘作は、タルト型を使ったチョコ。すべて友チョコです。まだ、好きな男の子はいないそうですよ。ちょっと安心。


私作は、ショコラケーキ。生地にレモンピールを混ぜ込みました。
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ストーブ犬猫

2016-02-10 07:07:44 | 日記

ストーブの温風の当たる位置で寛ぐ凜と桜。いつもは桜の方が先に寝てしまいますが、今日は頑張って凜を見守っています。


しかし、3分も経たないうちに睡魔に負けてしまう桜なのでした。
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眠れる美女

2016-02-08 06:59:18 | 日記
川端康成の『眠れる美女』は、三島由紀夫が解説を手掛けている新潮文庫版がおすすめ。本編だけでなく、三島渾身の美麗な解説も楽しめるので、一粒で二度美味しい。

《主人公は江口という67歳の裕福な老人。妻と嫁いた娘が3人おり、孫もいる。若い頃から漁色家で、最近まで愛人がいたようだ。
江口老人は知り合いの木賀老人の紹介で「眠れる美女」の家に来た。二階建ての寝部屋が二間しかないその娼家で、相手をしてくれるのは普通の娼婦ではない。薬で眠らされた裸の生娘だ。絞め殺されても気がつかないほど深く眠っている。
江口老人は部屋までの廊下を案内されている間中、娼家の女からこの娼家のルールを言い含められる。娘にたちの悪い悪戯をしてはいけないし、起そうとしてもいけない。「安心できるお客さま」は皆ルールを守ってくれている、と釘を刺され、江口老人は苦い笑いも出ない顔で娘の眠る部屋の杉戸を開けるのだが…》

三島は『眠れる美女』を、「その執拗綿密な、ネクロフィリー(注 死体愛好症)的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致と云ってよい」と評しているが、本書はまさに理想のネクロフィリー小説。
実際の死体って硬くて冷たいし、そのうち腐るので、長期的な愛玩には適さない儚い存在だ。私の中にネクロフィリー的な傾向があるのは間違いないのだが、如何せん腐乱死体は苦手なので、『ネクロマンティック』は受け入れられないのである。
その点、薬で眠らされた娘は、寄り添えばあたたかく柔らかく、ほのぼのとした体臭もして、いかがわしいことをしているという興奮も与えてくれるのに、相手はこちらの存在を知らないという実にありがたい存在だ。なかなかのアイデアなので、この娼家が実際に存在したら好事家が集まるんじゃないかと思う。まぁ、犯罪なのですが。でも、犯罪でなくても世間に露見したら身の破滅になる遊びってきっと楽しいはず。
また、三島の「作品全体が、いかにも息苦しいのは、性的幻想につねに嫌悪が織り込まれているためであり、又、生命の讃仰につねに生命の否定が入り混じっているためである」との指摘も秀逸。変態であることに躊躇いの無い変態文学って読んでいて萎える。自慰を見せつけられているみたいで、勝手にやっていてくれって思う。
川端独特の執拗綿密な表現で娘の体の各部位や匂いの特徴を描き出している合間に、江口老人のとりとめのない回想が差し挟まれているのには、鬱々とした孤独と酩酊感に見舞われる。
娘の爪、歯、舌、唇、指、髪など、身体の各部位を物として執拗に観察し堪能する、噎せ返る様なパーツ愛好が大変結構。江口老人が娼家に通う間隔がどんどん短くなっていく緊迫感も良い。
その一方で、江口老人が、娼家の女の言う「安心できるお客さま」たちの老いぼれぶりを嗤い、彼らに比べれば自分はまだ男性として現役だとか、詰まらないことをブツブツ独白している様は滑稽だ。勃とうが勃つたまいがジジイであることには変わりがないので、要らない抵抗である。中上健次の『岬』に主人公の青年が娼婦(実は妹)にペニスを掴まれて、こんなものに振り回されて可哀そう、と言われるシーンがあるのだが、まさにそれ。こんなものが無くて良かったですよ、私。
江口老人がコロコロ娘を換えるあたりが、男性ならではの感覚なのかな、とも。
私だったら最初の娘で通しますけどね。確かに二度目の娘について娼家の女が述べた「慣れている」と言う言葉は気になりますど。寝ているだけなのに慣れているってどういうことなのかは興味がある。でも、やはり相手をコロコロ換えるのには抵抗がある。それだと、ただの買春になってしまって趣向として面白くない。1人の対象――この場合は、1つと表現するのが正解か?――との関係を大切にしたい。相手は寝ているだけだから、関係も減ったくれもないのだが、そのディスコミュニケーションに身悶えしたいという変態性を抱えている私です。
江口老人――川端とも?――とは変態の方向性が違う私だが、それでも息苦しい閉塞感の中で、六人の眠れる美女たちをキャラ被りせずに描き分けているのを読むのは面白かった。合間合間に差し込まれる江口老人の回想は昔の女との情交の話が多くて、何年、何十年も前のことをしつこいな、と辟易させられたが、眠れる美女たちの描写は甘美なので舐めるように堪能させてもらった。割と早い段階で江口老人が娼家にとって迷惑な客になるであろうことが予測される場面が出て来て、不吉な匂いが立ち込める中、物語が唐突に終わるのも後味が悪くて良い。
江口老人には変態に徹しきれない妙なマトモさがあって、娘と何らかの関係を築きたいという要求を押し出してしまうのだ。不健全なことは不健全なまま通すのが変態の正しい作法だと思うのだけど…。
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