まっかちゃんのブログ

シニアが社会を変えよう! 生涯学習、生涯現役、生涯元気
https://makkachan.saloon.jp/

<上方落語>の復権はなぜなされたのか

2012-03-04 18:44:30 | 落語
2月24日、立命館大阪キャンパスで、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計/大阪学講座」6回目(最終回)の「<上方落語>の復権はなぜなされたのか-四天王、わけても桂米朝がもし不在だったら―」を受講しました。内容は以下の通りです。

場末の席亭の色物の一つに過ぎなかった「万歳」が、横山エンタツ・花菱アチャココンビの出現によって「漫才」となり、大衆演芸の最高峰を独走することになった。これに反して落語はぱったりと鳴りをひそめてしまった。

戦後真っ先に立ち上がった落語人は、五代目笑福亭松鶴であった。他に第一線に立ち得る者は数少なく、松鶴、立花家花橘、四代目桂米團治、二代目桂春團治が昭和20年代に相次いで亡くなった。松鶴ら亡きあと、上方落語は惨憺たる窮地に陥っていた。

文楽の衰退は素人浄瑠璃に昔日の面影が全くないことを反映している。もとは大阪船場の旦那たるたしなみとして浄瑠璃の稽古が必須であった。かっては旦那芸の素人義太夫を積み重ね、玄人はその上に範となるだけの実力を持ち、さらに玄人の頂点には文楽の巨匠が見下すという、ピラミッド型が構成されていた。

「一輪文化」(専門のプロフェッショナル)と相並ぶ「草の根文化」(素人アマチュア衆)があって初めて盛んになる。196年代、上方落語の素晴らしさを知り大学に落研が出来てきた。

戦後、上方落語の復興に尽力した、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治、三代目桂文枝が上方落語四天王と呼ばれた。谷沢永一関西大学教授は「米朝以前・米朝以後」、「落語を庶民の知恵から知識人の感覚に格上げした」と米朝を評価した。

もし、桂米朝が不在であったら
1)上方落語の話芸水準が今日ほど高まらなかった。
2)情のある大阪弁への無理解がこの国で解消しなかった。
3)芸術性と知性を結びづける落語家を不在にした。
4)古典落語の掘り起こしに収穫をみなかった。
5)活字落語が不作であった。6)レコード全集が貧弱であった。
7)落語家の数を今日ほど増やさなかった。
8)上方落語の栄誉を高めなかった。
(注)現在:米朝一門60人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする