まっかちゃんのブログ

シニアが社会を変えよう! 生涯学習、生涯現役、生涯元気
https://makkachan.saloon.jp/

ものがたりの’ちから’

2012-03-27 12:26:27 | 地域コミュニティ
25日(日)13時から16時30分まで淀川区役所5階で開催された「ものがたりの’ちから’~人の流れ、川の流れ、歴史・文化の流れ~」に参加しました。

人形劇公演や紙芝居、絵本の読み語り、かるた大会など、淀川区内で活動する団体やボランティア等が連携して、淀川の人や歴史・文化を感じることができるような「ものがたり」を様々な形で表現していました。

私は、かるた大会の手伝いを行いました。かるた大会では、淀川区コミュニティスタッフが作成した「淀川区わがまち 百景いろはかるた」が使用されました。10組(小学年低学年、小学校高学年、一般)に分かれてかるた大会を行い、最高枚数を取った2名の小学生にかるたが進呈されました。なお、かるたは会場でも販売されました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祭りのしつらい-町家と町並み

2012-03-20 17:34:04 | 社会・経済
9日(金)、大阪市立大学文化交流センターの専門家講座3月「生活科学コース《町家にみる庶民の暮らしと住文化》」の2回目「祭りのしつらい-町家と町並み」を受講しました。講師は、摂南大学外国語学部教授の岩間香さんです。

京都の祇園祭宵山のように、祭りの際に店の間や座敷に屏風を飾る「屏風祭」の風景が各地に残ります。その歴史をひもとき、各地の現状、まちづくりへの応用などを写真や絵画資料などを用いて講義しました。内容は以下の通りです。

はじめに
祇園祭宵山の「屏風祭」・・・京の町家の伝統を感じさせる
 普段は見せない家の中を奥深くまで見せる
 江戸末・明治の祇園祭・・・山鉾巡行を見せるための座敷だった

1、祭り桟敷の発達
桟敷=見るための場所
 例:相撲の桟敷、芝居桟敷(天井桟敷)、祭り桟敷
1)平安時代
祭桟敷に貴族の力を示す立派な建物が造られた
 賀茂祭の桟敷の記録
2)桃山時代
桟敷の屏風飾りが一般に広まった。
 豊国祭礼図 石垣の上に見物桟敷、屏風で囲う
3)江戸時代
町家の開放が進み幕・屏風・毛氈がハレの空間を作るようになる
 賀茂祭競馬図 庶民の桟敷
 祇園祭礼図 通りの桟敷 →町家から見物
◎ハレのしつらい
 屏風、御簾(みす)幔幕(まんまく)緋毛氈(ひもうせん)、提灯

2、各地へ伝搬
1)江戸・・・天下祭 神田祭、山王祭
2)藩の庇護する祭・・・東照宮祭礼:御三家の祭礼
         藩主の祭神:仙台 大崎八幡宮
3)江戸時代後半
 地方都市で曳山や練り物 江戸と上方の交流を通じて祭見物の作法が各地に伝搬
 長崎諏訪明神祭礼 オランダ人の見物
 山形酒田 地方色のある妻入りの町並み
 福井 馬縅祭(うまおどしまつり) 雁木(がんぎ)の町並み

3、近・現代の屏風祭
1)近代
祇園祭では屏風祭がさかんに、新進画家に描かせる、新聞が特集など
明治45年には100軒以上 巡行経路に多い
2)現代
京都 祇園祭、鞍馬火祭、上・下御霊祭、嵯峨野祭
地方に残る屏風祭
 大津、日野、亀岡、三国、城端、八尾、高山、小浜、能登黒島、角館、篠山
復興と消滅の最前線 
 亀岡、岸和田・・・かなり前に復活
 三条、倉敷、村上・・・ここ5、6年間に町おこしのために復活
 天神祭・・・最近
新しい工夫
 京都・・・ビルでの屏風飾りをはじめた例 新進の画家に絵を描かせる
 倉敷・・・モダンアートの参加、美術館の参加

おわりに
都市祭礼は絵画資料が多い=①公的な記録として制作 ②祭りが鑑賞性に富むため
絵師や注文主の存在 地方の経済的・文化的な水準の高さ
屏風祭・桟敷・・・祀られるものを高めるため、あるいは町の繁栄を示すために意図的に行われた。
近代に屏風祭が衰退した原因・・・祭りの庇護者の不在 藩 分限者
祭桟敷は各家で自由に行っていた?
屏風祭は町全体で維持されたもの。
◎祭の研究は風流や曳山中心だったが、「桟敷」や「祭りの町並み」も重要な要素。
◎屏風祭の歴史を振り返ることは、現代の都市や生活を考える上でも、重要な意味をもつ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京の町屋、大阪の町屋

2012-03-05 00:21:29 | 社会・経済
2日(金)、大阪市立大学文化交流センターの専門家講座3月「生活科学コース《町家にみる庶民の暮らしと住文化》」の1回目「京の町屋、大阪の町屋」を受講しました。講師は、大阪市立住いのミュージアム副館長の新谷昭夫さんです。

庶民の伝統的な住居である町家について、建築的特色や空間構成のあり方、京都と大阪の違いなどを建物の写真や絵画資料などを用いて講義しました。内容は以下の通りです。

1、年中行事絵巻に描かれた町家
1)やすらい花の場面-『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社
2)馬長行列の場面-同上
3)正月毬杖の場面-同上
(参考)町家と農家の比較
  町家(住吉)、農家(千年家)

2、間取りからみた町家の種類
1)通りにわ形式-寛延3年(1750)うろこ形や五兵衛家指図(田中家文書)
2)通りにわ形式-宝暦10年(1760)山さき屋作兵衛家指図(田中家文書)
3)表屋造り形式-加賀屋清左衛門家指図(田中家文書)
4)大塀造り形式-林家住宅外観、林家住宅表座敷
5)大塀造り形式-仲屋住宅1階現況平面図

3、町家の空間構成
1)ケの空間ー長江家住宅間取り絵図(明治末期)
2)ハレの空間-『在京日記』宝暦7年(1757)7月25日条(聖護院宮の御峰入の行列に関する箇所)
3)ハレの空間-祇園祭礼図屏風(部分)
4)ハレの空間-『在京日記』宝暦6年(1756)6月6日条(祇園祭の宵山に関する箇所)
5)まとめ

4、町家の地域性
1)上方の町家-大坂建
2)大坂の町家-綴屋根:京都の町家(三上家)、大阪の町家(北垣家)
3)大坂の町家-壁塗込:京都の町家(秦家)、大阪の町家(北垣家)
4)大坂の町家-屋根材:桟瓦葺(京都)、本瓦葺(大阪)、鬼瓦(大阪)
5)その他

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<上方落語>の復権はなぜなされたのか

2012-03-04 18:44:30 | 落語
2月24日、立命館大阪キャンパスで、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計/大阪学講座」6回目(最終回)の「<上方落語>の復権はなぜなされたのか-四天王、わけても桂米朝がもし不在だったら―」を受講しました。内容は以下の通りです。

場末の席亭の色物の一つに過ぎなかった「万歳」が、横山エンタツ・花菱アチャココンビの出現によって「漫才」となり、大衆演芸の最高峰を独走することになった。これに反して落語はぱったりと鳴りをひそめてしまった。

戦後真っ先に立ち上がった落語人は、五代目笑福亭松鶴であった。他に第一線に立ち得る者は数少なく、松鶴、立花家花橘、四代目桂米團治、二代目桂春團治が昭和20年代に相次いで亡くなった。松鶴ら亡きあと、上方落語は惨憺たる窮地に陥っていた。

文楽の衰退は素人浄瑠璃に昔日の面影が全くないことを反映している。もとは大阪船場の旦那たるたしなみとして浄瑠璃の稽古が必須であった。かっては旦那芸の素人義太夫を積み重ね、玄人はその上に範となるだけの実力を持ち、さらに玄人の頂点には文楽の巨匠が見下すという、ピラミッド型が構成されていた。

「一輪文化」(専門のプロフェッショナル)と相並ぶ「草の根文化」(素人アマチュア衆)があって初めて盛んになる。196年代、上方落語の素晴らしさを知り大学に落研が出来てきた。

戦後、上方落語の復興に尽力した、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治、三代目桂文枝が上方落語四天王と呼ばれた。谷沢永一関西大学教授は「米朝以前・米朝以後」、「落語を庶民の知恵から知識人の感覚に格上げした」と米朝を評価した。

もし、桂米朝が不在であったら
1)上方落語の話芸水準が今日ほど高まらなかった。
2)情のある大阪弁への無理解がこの国で解消しなかった。
3)芸術性と知性を結びづける落語家を不在にした。
4)古典落語の掘り起こしに収穫をみなかった。
5)活字落語が不作であった。6)レコード全集が貧弱であった。
7)落語家の数を今日ほど増やさなかった。
8)上方落語の栄誉を高めなかった。
(注)現在:米朝一門60人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする