まっかちゃんのブログ

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<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか

2011-12-29 17:25:45 | 社会・経済
16日、立命館大阪キャンパスで、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計/大阪学講座」5回目の「<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか-井上靖に始まり、司馬遼太郎で終焉するまで―」を受講しました。内容は以下の通りです。戦後大阪文学は、織田作之助、小野十三郎、井上靖に始まり司馬遼太郎で終焉した。織田作之助の「可能性の文学」は、大阪が投げつけた東京の権威的既成文壇への挑戦状であった。また、詩人の小野十三郎も「短歌的抒情の否定」を大阪から歌壇に投げつけた。井上靖は大阪毎日新聞社に勤め、阪急西宮球場で行われた「闘牛」に取材した短編を書いた。戦後の文学都市大阪が何故に熱気をたたえたのか。一つは、商工業都市大阪のバイタルで猥雑な地熱は若くて有能な作家たちのエネルギーを爆発さすにふさわしい都市だった。二つ目は、司馬遼太郎が人気作家になっても東大阪に居を構えたまま、東上しなかったことである。有能でありさえすれば大阪にあっても人気作家たり得ることを証した。その上、人は人を呼ぶ。司馬は多くの作家を引き寄せた。戦後大阪の文化と経済が共に元気だった時代である。山崎豊子の「花のれん」、菊田一夫の「がめつい奴」が大阪を”ど根性”と”がめつい”都市とイメージさせた。今東光は河内のイメージをフリーセックス地帯のように描出した。なぜ、文学都市大阪がその面影をなくしたのだろうか。多くの猥雑とど根性が描かれた60年代の高度経済成長後の70年以降、大阪の猥雑とど根性を必要とした文学の時代が過ぎた。96年に終生大阪を離れず、日本文学の灯台的役割を果たした司馬遼太郎が72歳で死去した。大阪から照らした文学の灯が消えたのだった。

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大阪におけるごみ問題の近現代

2011-12-12 12:59:53 | 社会・経済
11月28日、立命館大阪キャンパスで、立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の7回目を受講しました。「大阪におけるごみ問題の近現代」と題して、大阪大学文学研究科・助教の波江彰彦さんが講義しました。概要は以下の通りです。

Ⅰ 大阪市のごみ排出・リサイクルの現状
・1人当りごみ排出量 7大都市中最大
・リサイクル率は 7大都市中最低レベル
 ⇒現在の施策・取り組みにも原因があるが、大阪市のごみ管理がたどって来た経緯も考えられる。

Ⅱ 戦前におけるごみ管理
・直営化、ごみ焼却の実験
 1900(明治33)年、「汚物掃除法」制定をきっかけに、大阪市はごみ処理事業を直営化。同年、試験炉を建設してごみ焼却の実験を開始。
・ごみ焼却処理の推進
 1916(大正5)年以降、木津川焼却場と寝屋川焼却場を新設・増設。1935(昭和10)年度には、ごみの直接償却処理率は76.3%。
・戦時体制
 塵芥報国運動(有価物の徹底回収、塵芥の養豚飼料としての供給、ごみ焼却残灰の堆肥利用)により、1944(昭和19)年にごみ処理事業を全面中止。木津川第一・第二工場は、軍の指示により造船会社に貸与。

Ⅲ 戦後のごみ管理
①ごみ管理の戦後復興期
・ごみ排出・収集
 1946(昭和21)年6月にごみ収集作業を再開(混合収集)。収集・運搬フローは戦前を継承(肩引車で各戸収集→空き地・河岸で中継作業→陸路・水路で焼却場や処分地へ)。
・ごみ処理・処分
 1948(昭和23)年1月にごみ焼却処理を再開。木津川・寝屋川焼却場を復旧。ごみ・処分方法のメインは埋立処分(柴谷処分地、市内周縁部、戦災跡など)。堆肥としても売却、養豚でも利用。

②経済成長にともなう苦境期(昭和30~40年代)
・ごみ排出・収集
 1960(昭和35)年頃からごみ排出量が急増。ごみ収集車にロードパッカー車を導入。ごみの運搬ルートは水路から陸路へ。
・ごみ処理・処分
 市内の稠密化により埋立処分地が逼迫。市外へ用地を求める。埋立処分地をめぐるトラブル頻発(環境汚染、住民からの苦情、自治体間の対立など)。
 木津川・寝屋川焼却場の老朽化。デ・ロール式焼却炉(スイスの最新式型焼却炉)の導入をめぐる苦労(導入に向けての研究開始から清掃工場完成まで10年弱を要した)。1963(昭和38)年、日本初の全連続式焼却炉(国産炉)を備える清掃工場(住吉工場)が完成。

③ごみ焼却処理体制の確立期(昭和50年代~)
・ごみ焼却施設の建設
 1963(昭和38)年~1980(昭和55)年の17年あまりで10の清掃工場を建設。1980年、全量焼却体制を達成(大阪市が宣言)。2001年(平成13)年、11番目の舞洲工場完成。
・最終処分
 最終処分場は臨海部・海上埋立へ(南港、北港)。1992(平成4年)、フェニックス計画による処分教への搬入開始。

④ごみ管理システムの転換期(平成~現在)
・ごみ減量・リサイクルの推進
 1980年代、大量消費・大量廃棄社会の限界。1990年代以降、全国的にごみ減量・リサイクルが本格化。1995年以降、各種リサイクル法制定。
・ごみ減少局面の到来
 2000年以降、ごみ排出量は全国的に減少傾向に。要因はいろいろ(家電リサイクル法の効果、経済活動・消費の落ち込み、消費財の軽量化等)考えられる。ごみ焼却能力に余裕(余剰)が生じ、清掃工場を閉鎖する動きも。

Ⅳ ごみ減量・リサイクル
・大阪市のごみ分別収集
 普通ゴミ(可燃・不燃ごみの混合収集)、粗大ごみ(2006年に有料化)、空き缶(1994年)、空きびん(1994年)、金属製の生活用品(1994年)、ペットボトル(1997年)、容器包装プラスチック(2005年)、小物金属類の申込制収集(2011年から施行実施)
・大阪市のリサイクル活動支援
 1999(平成11)年、集団回収団体支援制度を開始。2006・2009年、支援内容(奨励金)を充実化。

Ⅴ まとめ
・大阪市におけるごみ管理のこれまで
 早期のごみ焼却処理体制の確立により、大量廃棄社会に対処(しかし、近年はオーバースペックに)。ごみ処理システム転換(適正処理からごみ減量・リサイクルへ)の遅れ(高水準の処理能力が転換への努力を遅らせた? 行政や市民に甘えがあった?)。
・大阪市におけるごみ管理のこれから
 行政・民間(住民)双方の取り組みに改善・向上の余地あり。他都市を見習えば、行政がやれることはまだある(施設のダウンサイジングや転換、分別収集の見直し、事業系ごみへの厳しい対処など)。集団回収活動の今後には期待がもてそう(「新しい集団回収のかたち」がみられるようになったいま、大都市の強みを生かしたい)。  

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