『ホテルの窓からの若松』 会津若松旅行―5
ホテルのロビーの外のテーブルで,町の空気を吸いながらの朝食も楽しい。
それにしても日曜とはいえ人通りは少ない。観光客以外では,やはり若松も人口減が
進んでいるのだろうか。
この日も思い出巡りの様だった。
市内の道は広く洒落た店舗があり、一番長く最後に住んだ我が家辺りは,レンガ敷で
野口英世青春通りなんて洒落た名前になっていた。
空襲が激しくなり、家族して疎開して最初に住んだ家を探しに行った。
ちょっと郊外になるがお城の東側という感じだった。目印は近所に藩の天文台跡があった
ことだ。ここもいい遊び場だった。すぐに見つかった。立派に整備されていた。これを基に
目的の家の見当をつけた。細い路地は覚えているが、こんなに狭い道だったのかと驚く。
確信は持てなかったが、毎晩お風呂を貰いに行ったお向かいの家らしき感じの空家を見つけた。
するとその前という事になるがそこは更地になっていた。ここは母と兄の三人で天皇の終戦宣言
を汗をかきかきラジオの前に正座して聞いた場所だ。
そんな思い出や感傷などを振り切って、いよいよ鶴ヶ城へ向かう。
途中で車中から、郊外に移転した我が母校(卒業はしていないが)の謹教小学校の新しい校舎が見えた。
もう一軒、お城のすぐ前の親戚をも訪ねてみた。そこは家も表札も代わっていて逡巡したが思い切って
インターフォンを押す。自分が何者かを説明するのが難しかった。相手は従兄妹の一番下の娘の旦那さんで
話は遠い。その娘だった子も出てきたが互いに面識はない。
この親戚にもお世話になったので、何とか感謝の気持ちを伝えたいと思ったが虚しいものだった。
まさに昔は遠くなりにけりだ!
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