マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神の命令は

2024年11月29日 | キリスト教

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

                              マタイ 11章 28節

ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。

現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。


人生の現実は不条理に満ちており、人は不条理に負けて、挫折する。しかし、そのどうにもならない不条理の現実の中で、イエスを信じてすべてを任せ、身を投じていくことで救いが与えられる。


私たち一人一人に与えておられる重荷を最もよく知っておられる方です。他の人はあまりにも自分に合わない重荷を負わせようとするかもしれません。しかし、イエス様の与えられる命令は、いわゆる重荷にはならないのです。


だから 信仰の創始者であり、完成者であるイエスにいつも目を注いで、主の「くびきを負うことの心地よさを、楽しさを、麗しさを」日々経験していきたいと思います。


1ヨハネ5:3
「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 

   「つかれしものよ きてやすめ」とやさしくイエスまねかせたもう ……… 聖歌 222 より

 

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呪いと祝福

2024年11月22日 | キリスト教

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、

もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、

あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」

                                 申命記 11章 27節 ~28節

 

新しい契約においては、キリストを信じる者は、すでに聖霊によって神の証印を押されており、キリストにあって神のうちにいる者にされていることです。

キリストにあってすべての天にある霊的祝福を受けています。ですから、イスラエルのように、神に従順だから祝福されて、不従順であればのろわれるということはありません。

しかし、です。その、キリストのうちにいる自分というのを信仰をもって見つけていかなければいけません。

新約においては、神がキリストにあってなされたことを信じることによって、祝福されます。

何かを行なったから祝福されるのではなく、神が祝福されたことを信じることによって祝福されるのです。

ですから、イエスさまが言われた、「わたしのうちにとどまりなさい」という命令は、すでにキリストのうちにいる私たちが、

その霊的真理を受け入れ続けるということであります。そこに祝福の鍵があります。

 

ただこの世界にはいまだに 福音を受け入れない人は必ずいる。その人々には、福音(キリストの香り)は呪い、滅びの香りになる。

2 コリント 2:16 
「 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。 」

 

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信じたから・・・ ?

2024年11月15日 | キリスト教

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

                                  Ⅱコリント 11章 27節


私たちが信じた後、とおらなければならない道。 

( 信仰 × 試練 = 信仰 - カス + 忍耐 = 円熟したクリスチャン ) しかし、もし出来るならば通りたくないと言うのが本音でしょう。

誰もが、苦しみから解放されたいと願いますが、何処にも、苦しみの無い人生などと言うものはありません、

信仰を持ってクリスチャンになったとしても、それは苦しみに出会わない人生を意味するものではありません。

 ( それどころか、聖書にはあなた方はこの世にあって艱難がありますとはっきり記されています。 ) 

では、信仰を持つと言う事は、一体何を意味するのでしょうか。

それは、苦しみに出会わない人生ではなく、苦しみはあるけれども、苦しみによって潰れてしまう事のない人生、

そんな人生を聖書は確かに約束しているのです。苦しみに潰れず、いや潰れないだけではなく、それを乗り越えて、

その都度新しくされていく、その素晴らしい人生を約束しているのです。

私たちには、「 確信 」 の二文字はあっても、 「 絶望 」 の二文字はありえないのです。

 

信仰者の強さは、自分の強さではありません、自分が強いのではなく、共におられる主が強いのです。

誰もが強く揺るがない人生を送りたいと願わない人はないのです。

もしも、強さの原因が、単なる自信であるならば、その強さはやがて、自らの限界と共に崩壊する可能性を秘めているのでは。

私たちは、一見強そうに見えて、実は大変もろいのではないでしょうか。
   
         「 苦しむ事が悪いと言うのではなく、思い煩う事が問題なのです 」
              日曜日には教会へ家族揃っていかれますように。

 

「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・

神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、

私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。

                                                                                                   三浦綾子著 「泉への招待」から

 

 

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神のあわれみ

2024年11月01日 | キリスト教

「・・・。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」


                                          Ⅱ列王記 4章 26節

あなたの死に出会っても わたしの魂は悲しみに屈しない

死は長い別離ではない それは蔓を伸ばしていき 

塀の向こう側で花を咲かせる 薔薇の蔓のようなものではないか

死は人を隠すものではあるが 人と人とを分かつものではない

あなたはキリストの側に行っただけなのだ

あなたはキリストと共におり キリストは私と共にいてくださる

キリストにあって私たちは いまも結び合わされている

                               「 荒野の泉 」12月3日の記事より

 

死とは辛く悲しいものです、それはその死が全てであるかのように思うからです。

もちろん一時の別れは辛いものですが。しかし。キリストを主と信じ受け入れた者にとっては死も生も私たちには影響を及ばさない。

 

主イエスは言われました。

「・・・ 。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 で終わらずに。

神の国においても共にいてくださるのです。  マタイ 28:20


ルカ7:13-15
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。

そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。

すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。

 

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