マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

仕えるとは

2024年07月26日 | キリスト教

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、

わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」    

      ヨハネ  12章 26節

 

現在、地球には、何十億人という人がいます。

それらの人を大きく二つに分けるとすると、次のように分けることができます。

一組は、イエス様を信じている人たちです。もう一組は、イエス様を信じていない人たちです。


そして、私たちは、このどちらかに属します。どちらに属するかは、とても大切なことです。

片足をあちらに、もう一方をこちらにしていると疲れますよ。

 

あなたは真実にどちらに属しておられますか。今日、潔く主に平伏しましょう。

 

黙示録 3:15 ~16

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。

わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
                                                    
                                                   

主に出会ったと言うことは大変素晴らしく、感謝してもし尽くせないものです。

信仰の先輩そして影で祈り支えてくれた信仰の友に感謝。

しかし、この友だちに出会っただけでは不完全です、

自身が悔いて神の前にひれ伏し、主を体験的にお迎えしなければならない。


十字架を受け入れることは、一回限りのことではありません。

十字架を受け入れるというのは、

一生涯、その中に生き仕えるという事ことを意味します。

 

 

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あなた次第です ・・・・ が。

2024年07月19日 | キリスト教

「 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、

      なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

                                                                        伝道者の書  2章 11節

自分の人生、どう使おうと勝手だ。そう、その通りですか゛。全てが自分のためになるとは、限らないのです。

人の現在の生き方を、決めるものは、その人の未来観でしょう。

 

神か、富か、どちらを取ると言われたら、多くの人は富のほうに手を出すことでしょう。

だ、富のはかなさを知らないからではないからでしょうか。富は、永遠にはあなたのものとはならないのです。

そのことは十分に知っているはずなのに、

 

この世での刹那的なひと時に人生を求めてしまう。弱いわたしたちです。


 三つの選択

 この世においてか ・・・・ 。

 あの世においてか ・・・・ 。

 この世も、あの世においてもか ・・・・ 。


主イエス・キリストを信じる者には、今も、また来る日においても、全て満たされるのです。

少し、虫のいい話に思われるでしょうが、私たちはこれを事実とし受け入れています。

あなたはどちらに賭けられるでしょうか、あなた次第です ・・・・ が。
 

イエス・キリストの教会はあなたに永遠の希望を提供しています。

「 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。

    私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」    

                                  Ⅰコリント  6:12

 

 

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故郷へ

2024年07月12日 | キリスト教

ややにちかし あまつわがや こころにえがきて われはまてり  

          そなえられし わがすまいは かがやける まちのなかにぞある 

                                 聖歌 364 より
へブル 11:16
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。                                                 

                                                                                 天の故郷です。地上に思いをはせるのか、それとも天におもいをはせるのか。地上も捨てたものではないですが、

天に比べたら、地上は月とスッポンです。だから、この地上における不便も喜んで耐え忍びました。
 
                                                                         
ピリピ  1:23
私は、その二つのもの (死と生) の間に板ばさみとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。  

 

クリスチャンは、単に後の世のことを思って、この世で苦しみ悩んでいる存在ではありません。

なぜなら、主にあって豊かな実が結ばれていくからです。けれども、同時に、この世には何の未練もありません。

なぜなら、天に用意されているものが、どれだけすぐれているかを知っているからです。

ここは苦しいから、はやく天国に行きたいでもないし、ここは楽しいから死にたくない、でもないのです。どちらも自分にとっては益なのです。


                                                                                    

      もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。

       聖書には死後のことも、今の命をどのように生きるかも書かれています。

           聖書は、決して死を待ち望むようには命じてはいません。

             天国を待ち望むべきであるとごく頻繁に命じています。  

                               マシュー・ヘンリー 

 

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カナンの地へ

2024年07月05日 | キリスト教

 

けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・ 。     


                   ピリピ人への手紙 3章 20節 

 

「  しかし、私たちのふるさとは天にあります。 そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。

     私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。」   同 3:20   リビングバイブル

 


「 心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地想うだに 我が胸 躍るよ 」 ヨルダンの彼方に。  聖歌 642番より 

 


一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。

「 今日一日感謝でした。明日が楽しみです 」 と言うことのできる日々を送っておられますか。

勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、

しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。

 

一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。

カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。

今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしいこと、悲しいこと、嫌なこと。

等々に対して積極的に迎えることができるのです。この地上では旅人、カナンの地目指して喜び勇んで歩む日々なのです。

 

                    想像してください。あなたがカナンの地におられることを。

 

 天に国籍があるということは、いつも天を思っている、天の御座にキリストがおられることを思って生きるということです。

 

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