「 主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」
詩編 37編 16節
詩編 37編 16節
「ひとりの人の持つわずかなもの」とは一体何なのでしょうか。それは、豊かな命、豊かな心ではないでしょうか。
自分は正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、
人にも罪人だと思われていた取税人が、二人並んで神殿の前で祈りました。
パリサイ人の祈りは、「この横の取税人のような罪人でない事を感謝します。
神よ。私は何事も正しくやってきました。」でした。
取税人の祈りは、「神よこんな罪人のわたしをあわれんでください」でした。
イエス・キリストは軍配を取税人の方にはっきり示されたのです。
罪を悔い改めて神を恐れ(畏れ)、神に新しい心をいただいた正しい人のその心、その命こそ豊かなのです。
見えるところは僅かでも、それは宝石のように貴重なものです。
御言葉と心の関係を主が土のたとえで話されていたとき、良い土地に落ちる種は三十倍、六十倍、
百倍の実を結ばせると約束されましたが、それはただ、良い土地に一つの種が落ちるという僅かな出来事によってです。
ルカ18:10~14
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、
奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人であって、あのパリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」