・・・・・ 。神がその人を受け入れてくださったからです。
ローマ 14章 3節
「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」
「 私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方が誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい 」 クロムウェル
教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。
私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を ( 色んな意味を込めて )、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。
主イエスは 「 信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない 」 とハッキリ言われています。
食べ物に汚れたものなどははない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものではなく、主が望まれているのは、もっと生き生きとした愛であり、義であると言われているのです。
私たちは神の前では、だれもほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、差の小さな差に悩みます。相手のほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。主は、どんな人も使われるし、愛されます、愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知ったうえで愛し、私たちを適材適所によって使ってくださるのです。
何故。人を裁いてはならないのか ? それは、神が愛をもってその人を受け入れているからです。
食物についての聖句を。
「・・・・ イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 」 マルコ 7:19
「・・・・ しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」 Ⅰテモテ 4:3
「・・・・ 神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」 Ⅰコリント 8:8
「・・・・ しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、・・・・ 」 ローマ 14:23
「・・・・ 、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 」 Ⅰコリント 10:31 その他。
そして最後に。
「 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 ヨハネ 4:32
裁くのも疲れてしんどいものです。裁かれるのもまた辛くしんどいものです、平安がありますように。アーメン