「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
マタイ 3章 3節
洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者の声」として現れました。彼は神殿ではなく、学校でもなく、
荒れ野で宣べ伝えました.町の大通りではなく、人通りのない荒れ野で叫びました。
荒れ野とは、イスラエルが40年間彷徨ったところであり、イエスが誘惑にあわれたところです.
荒れ野はまた、人生の荒野、人々が愛を失い、冷たくなる場所でもあります。
この荒れ野を、神の恵みの場所とするためには、悔い改めが必要です。悔い改めとは、神を中心にして生き始めることです。
すべてを神中心にやり直すことです。どんなに信仰深そうに見えることでも、真に神が中心になっていなければ、
それは形だけのもの、表面的なものにすぎません。
また、荒野とは神に出会い訓練を受ける場所でもあります。ただ一人だけになり、自分を見つめなおして、
自分を知り、その自分のすべてを神に告白し、弱さをさらけ出して、この神に信頼し委ねるのならば、
神が共におられるのを、知ることができます。
申命記 8:2
「あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」
申命記 1:31
「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、
あなたの神、【主】が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」