イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
ヨハネ 5章 6節
このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあます。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、
私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。
しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。
その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。
水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。
「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。
「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。
「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら 神様の愛は現われなかった」。
水野源三・短歌と詩集から
「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。
その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。
その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。
“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。
すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。 三浦綾子・泉への招待から
三八年も病気で苦しんでいた男が、ベテスダという池のそばにいました。
水が動くとき、真っ先に飛び込んだ者が癒されるという言い伝えがあったからです。
しかし、自分が飛び込もうとすると、他の人が飛び込み、そのチャンスを逃していました。
主イエスはこれを見て、この男に声をかけ癒してやりました。この男の苦悩と孤独は、
肉体の苦しみの上に心の苦しみ、孤独が付きまとっていました。
私たちが悩むときもまた同じです。人に話すことができない、
あるいは、分かってもらえない孤独感が付きまといます。
しかし、主キリストは神の御子として救い主として、
私たちと共にいてくださいます。