「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」
ローマ 14章 3節
イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない」とはっきり宣言しています。
食べ物に汚れたものなどない、安息日に働きさえしなければいい、というものででなく、神が望まれるのは、もっと生き生きした愛であり、
義であると言われています。
人間は神の前では、誰もほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、その小さなさに悩みます。相手とほんのわずか違うことを、私たちは
怒ってり、非難したりします。神はどんな人でも使われますし、愛されます。
愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしのない人も潔癖な人も、それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知って愛し、
実に巧妙に私たちをお使いくださるのです。
私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。
神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。
食べる人は食べない人を侮ってはならない、とパウロは言っています。
自由にふるまっている人は、制約を受けている人を見て、侮りの思いがでてきてしまいますね。「あの人、あんなこともできないんだってさ?ばかみ
たい!」なんて感じです。また、逆に、肉は食べないという制約を受けている人は、自由にふるまっている人をさばいてしまいます。
「あの人、あんなことをやっている。なんてひどいことでしょう!」とさばいてしまうのです。このどちらもいけない、とパウロは言っています。
ローマ 12:10
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分 よりまさっていると思いなさい。」
自分が正しいと思って いることと異なることを行なっている、けれども、それが聖書で明確に書いているわけではないこと であれば、
その意見を尊重し、受け入れるということが大切です。 食べる人は食べない人を嘲り、食べない人は食べる人を裁く。
教会が本質的でないことで争うのは愚かであり、イエスの名を汚すことだとパウロは述べる。
日本においては、アメリカから持ち込まれた禁酒・禁煙が信仰の出来事とされたために、多くの人がつまずいた。