「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
マタイ 11章 28節
イエスはまず、「わたしのところに来なさい。」と言われました。これは、イエスと個人的な関係にはいることの招きです。
私たちは、イエスの言葉を聞いて、それに同意できるかもしれません、また、それを頭で信じることもできるかもしれません。
しかし、もし、自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている安息を得る事はできないのです。
神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。
この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。
私たちは、神のために存在しているのですから、そのように生きていけば安息があるのです。
ところが私たちは自分を喜ばそうとします。自分の心を何か他のもので埋めようとします。
疲れている原因を自己吟味してみましょう。何かやりすぎていることはないか? 自分で何かをやっていないか、
そしてそれは実は自分を喜ばすためにやっていたのだ、ということです。また、この重荷は他の人から負わされることもあります。
主なる神があなたに近づかれた。それは、父の方から遠く離れているあなたのところまで歩んできてくださいました。
しかし神は。あと一歩をあなたのために残された。あなたはきっと言うでしょう。「 最後の一歩を何故残されるのですか 」と。
しかし主は言われます。「 あなたの歩みは、一歩、いや半歩でいい。」と。
そして神はなお言われた。「 私はあなたのその一歩の真実を見たいのだ 」と。 父よ。私に勇気を与えてください。
「つかれしものよ きてやすめ」とやさしくイエスまねかせたもう ……… 聖歌 222 より
シャローム そして マラナ・タ