豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

老子

2014-04-06 21:44:00 | 読者に人気の記事
こんばんは!

今日はちょっと嫁とバトルしてました(苦笑)


竹取物語の作者は菅原道真じゃなくて、紀貫之が最有力候補だったんだね。

いやあ、しかし『天の羽衣』って一体なんなんだろう?

身につけると何もかも忘れてしまうのは嫌だなあ・・・・・・。

あれだ、たぶん白い光のような身体で魂を包んで月へ旅立つのではないだろうか。

ああ、でも空飛ぶ車も出てきているよね!?

あの時代で既に空飛ぶ車という考えはあったんだなあ。

不思議、不思議。

月の軍勢は、凄まじく強いのだろうか。

そして、王がいる!

竹取物語を書いた人は、間違いなく大変な知識の持ち主だったでしょう。

何度も読まないと理解できなさそうですが、たくさんのアイデアが詰まってます。


さて、お次は老子様ですね。

中国が生んだ巨人。

宇宙一いい加減な博士も頻繁に引用していましたが、詳しいことは知りません。

これは、抑えておこう。

たぶん基本です(爆笑)


道は天地の根である!!!!



  老子
               出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
 中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。
 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。


 老子の履歴

 史記の記述

 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。

 1.老子者,楚苦縣鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也

 2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)

 3.老子脩道,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道之意五千餘言而去,莫知其所終。

 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳

 伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという。これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」)。楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)、郷の曲仁という場所の出身で、周国の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない(「老子」『列仙伝』においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。)
 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。
 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。
 『史記』には続けて、

 4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時雲。

 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳

 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。
 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。

 5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。

 6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。

 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳

 ここでは、老子は周の「太史儋(太史捶)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(捶)」と老子の字「耼」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。
 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため、これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。
 『史記』は老子の子孫についても言及する。

 7.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家于齊焉

 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳

 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、孫は「宮」、そのひ孫(老子から8代目の子孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。
 この膠西王卬とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。


 諸子百家の著述

 荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老冉という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編でも「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)と老子に触れている。
 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。


 定まらない評価

 このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した。
 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老髟的生命和時代考』)、郭沫若(『老髟・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(『重訂老子正詁』、1957年)、剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し、1957年に刊行された杜国庠の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている。


 伝承

 生涯にまつわる伝説

 一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。
 『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき)に老子を懐妊したが62年間(80年間、81年間、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。
 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。


 字・伯陽

 現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「耼」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である。
 老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す。


 尹喜

 伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。
 この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。
 郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。


『老子道徳経』から推測される老子

 議論

 老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。
 『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある。
 「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自にほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した。
 老子の8代目子孫と孔子の13代目子孫が同じ時代に生きていたと言われ、5代分の開きがある。
 墨子や孟子の著作には、老子について触れた部分が全く無い。
 礼を守ったと伝わる老子と、その著作『老子道徳経』の内容には、大きな隔たりがある。
(老子について述べた箇所がある)『荘子』にある多くの説話のほとんどは寓話であり、事実とはみなされない。
 老子の言動(『老子道徳経』の内容)は、春秋時代の雰囲気からすると異質すぎる。
『老子道徳経』には、戦国時代に使われた用語(例えば「王侯」「万乗之君」「仁義」など)が含まれる。
 馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた。
 一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める。
 また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた。
 このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたもとという考えが主流となり、「擬古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった。


 馬王堆・郭店の発掘書

 このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された「馬王堆3号」墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。
 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される。
 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の1/3にしか相当しない。
 浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した。
 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。


 思想から見る老子

 政治思想の源流

 政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。
 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。


 老子の社会階級

 老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。

 小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來

 — 道經80

 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。
 中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。


 道教における老子

 老子の神格、三清の太上老君像。伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている。
 漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。


 理想の師弟

 西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。
 老子と尹喜の出逢い7世紀の書『三洞珠囊』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。
『三洞珠囊』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。


老子八十一化説

 太上老君は、歴史の中で多くの「化身」または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという。
 これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された。
 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた。仏教界の反発は強く、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された。


 参考文献

 貝塚茂樹 「第四章 有と無の超越 ‐老子の哲学‐ (p86-105)」『諸子百家』 岩波新書、初版1961年。ISBN 4-00-413047-6。
 浅野裕一 「第一章 無為の哲人・老子 (p49-71)」『諸子百家』 講談社学術文庫、2006年(初版2004年)、第8刷。ISBN 4-06-159684-5。
 浅野裕一・湯浅邦弘編 『諸子百家<再発見>』 岩波書店、2004年、第1刷。ISBN 4-00-023399-8。
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竹取物語

2014-04-06 14:16:47 | 日記
こんにちは!

最近、家事育児手伝いをしないので、嫁に怒られる僕です。

怪しい記事載せると友達減るからやめてとも言われる(笑い)


さてラーマクリシュナさん、如何でしたでしょうか。

神への愛に夢中になって感覚の楽しみを忘れるとは、凄いですね!

神の中に僕はいるけど、僕の中に神はいないっていうのが苦の原因と言うわけですね。

私を神に捧げよ!!

って話だけど、最初からそうなのに知らないだけだったりして・・・・・・。


さて、今回は竹取物語です。

神秘学の知識が鏤められている。

間違いなく古代日本には凄い聖者がいたようだ。

菅原道真ってやばかったのかな!?


グルジェフさんの創造の光を参照してから、読むと面白いと思います。

天使が月へかぐや姫を連れて行く!


天の王国とは『月』のことだったのだ!!!!


人間は月の食料である(グルジェフ)





  竹取物語
                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


『竹取物語』(たけとりものがたり)は、日本の物語。成立年、作者ともに未詳。『竹取物語』は通称で、『竹取翁の物語』とも『かぐや姫の物語』とも呼ばれた。また、現代は『かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形で出版されている。


 概要

『竹取物語』は、日本最古の物語と伝えられ、「物語の祖(おや)」とも言われる。遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされ、かな(元は漢文)によって書かれた最初期の物語の一つである。
 内容は、「竹取の翁(おきな)」によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。かぐや姫は五人の貴公子から求婚を受けるもこれを退け、帝から召し出されても応じず、八月の満月の夜に「月の都」へ帰る。『万葉集』巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌があり、この物語との関連が指摘されている。


 成立

 成立年は明らかになっていない。原本の漢文は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が最古といわれ、完本では安土桃山時代の天正20年(1592年)の奥付を有する「武藤本」[1]が最古といわれる。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られ、また『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。元々、口承説話として伝えられたものが『後漢書』や『白氏文集』など漢籍の影響を受けて一旦は漢文の形で完成されたが、後に平仮名の崩し字に書き改められたと考えられている。
 またこの説話に関連あるものとして『丹後国風土記』、『万葉集』巻十六、『今昔物語集』などの文献、謡曲『羽衣』、昔話『天人女房』、『絵姿女房』、『竹伐爺』、『鳥呑み爺』などが挙げられる。当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと考えられる。
 作者についても不詳である。作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。
 以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、他に文章博士などを歴任し、仁和2年(886年)から仁和6年(890年)まで、竹取の翁の名・讃岐造と同じ讃岐国の讃岐守に遷任したことがあり、自身の出生も余呉の羽衣伝説で語られる菅原道真など数多くの説が提唱されている。


 あらすじ

 ここでは現在一般的に知られている話を紹介する。

 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさかきの造(さかきのみやつこ、讃岐造(さぬきのみやつこ)とする本もある。)といった。
 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸(約 9 cm, この物語には「三」という数字が頻出する)程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。
 その後、竹の中に金を見つける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。 翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで妙齢の娘になったので、髪を結い上げる儀式を手配し、裳を着せた。この世のものとは思えない程の美しさで、家の中には暗い場が無く光に満ちている。翁は、心が悪く苦しいときも、この子を見れば消えた。
 この子はとても大きくなったため、御室戸斎部(みむろどいんべ)の秋田を呼んで名前をつけさせた(斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族)。秋田は「なよ竹のかぐや姫」と名づけた(なよ竹は「しなやかな竹」という意味で、ちらちらと揺れて光ることを「かがよう」という)。このとき人を集めて詩歌や舞など色々な遊びを催し、三日に渡り盛大な祝宴をした。
 世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。
 そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言うようになった。
 その内に、志の無い者は来なくなっていった。最後に残ったのは色好みといわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。五人の公達は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。
 これを見て翁がかぐや姫に「仏のように大切なわが子よ、変化の者(神仏が人の形をとって顕現した姿、または化物の類)とはいえ翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、あなたも結婚のないままいらっしゃるわけにはいかない」と言うとかぐや姫は、良くもない容姿で相手の深い心も知らずに結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないとし、「世の畏れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚できません。ほんのちょっとしたことです。『私の言う物を持って来ることが出来た人にお仕えいたしましょう』と彼らに伝えてください」と言った。 夜になると例の五人が集まって、或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠い、或る者は唱歌し、或る者は口笛を吹き、扇を鳴らしたりしていた。翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。
 その意思とは石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。
 石作皇子は大和国十市郡の山寺にあった只の鉢を持っていき嘘がばれたが、鉢を捨ててまた言い寄ったことから面目ないことを「はぢを捨てる」(恥を捨てる)と言うようになった。
 車持皇子は玉の枝の偽物をわざわざ作ったがその報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚、長い年月姿が見えなかったことから「たまさかに」(偶さか=まれ)と言うようになった。
 阿倍は唐の商人から火鼠の皮衣を購入した。この衣は本来燃えぬはずであったが、姫が焼いてみると燃えたので贋作と分かり、阿倍に因んでやり遂げられないことを「あへなし」(敢えなく)と言うようになった。
 大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、理に合わないことを「ああ堪へがた」(ああ堪え難い)と言うようになった。
 石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って子安貝らしきものを掴んだが転落して腰を打ち、しかも掴んだのは燕の古い糞であり貝は無かったことから、期待外れのことを「かひなし」(甲斐がない)と言うようになった。
 その後、中納言が気弱になり病床にあることを聞いたかぐや姫が「まつかひもない」と見舞いの歌を送ると中納言はかろうじて、(あなたの歌を頂けたのだから)かひはかくありける、と返歌を書き息絶えた。これを聞いてかぐや姫は少し気の毒に思ったことから、少し嬉しいことを「かひあり」(甲斐がある)と言うようになった。結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。
 そんな様子が帝にも伝わり、帝は姫に会いたがった。 喜ぶ翁の取りなしにもかかわらずかぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。 帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。 かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。
 その後、帝は狩りに行くついでに不意をつきかぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。 本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。
 日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。
 帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった(人間界での長い年月は天人にとって僅かな時間に当たる)。それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。
 それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野の大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。 家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠(周囲を壁で塗り籠めた部屋)の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。
 かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。
 翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありません。そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。
 そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所に立ち並んでいる。 内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。
 王は「お前、幼き者(未熟者。天界と人界では時の感覚が異なり、翁といえど「幼き人」)よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。
 屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。
 かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏し、かぐや姫も心乱れてしまう。かぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。天人の中の者に持たせた箱があり天の羽衣が、また別の箱には不死の薬が入っている。一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、帝への手紙と歌を書き、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。
 帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つきの岩笠という人(月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏)を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。
 その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「富士の山(士に富む山)」と名づけた(不死の薬を燃やしたから「不死の山」だろう、という読者の予想の裏をかいている)その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。また、その時に山頂に積もっていた雪が決して溶けることがなくなった(万年雪)ともいう。


 物語としての性格

 この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている。
 大きく捉えれば、天人女房型説話が難題求婚譚を挟んだ形になっているが、これは単なる伝承の継ぎ接ぎではない。それら伝承を利用しつつ、「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生があるからである。
 竹中生誕説話において、竹は茎が空洞であることや成長の急激さにより神聖視され、説話の重要な構成要素の一つになっている。その特徴を顕著に示す話の一つが『竹取物語』であり同系列の昔話に『竹姫』、『竹の子童子』がある。竹中誕生譚は他の異常誕生譚に比べると事例が稀で、日本国内よりはむしろ中国や東南アジアに多い。『継子と笛』も継子の霊が竹になり、それで作った笛を父親が吹くと霊が自分の消息を伝える。日本の昔話では竹中の精霊は人間界に留まれないものが多い。竹は神の依代であると同時に呪力を持つと考えられていた。七夕の竹を畑に立てての虫除け、耳病に火吹竹をあてる等の風習が地方にはあり、また聖人の杖が根づいたり、呪言とともに逆さにした竹が成長したという神聖視する心意の伝説も多い。竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。
 多くの要素を含んでいるため、他作品との類似性ないし他作品からの影響が指摘されている。『竹取物語』は、異界から来た主人公が貧しい人を富ませた後に再び異界へ去っていくという構造から成り立っており、構造的には羽衣伝説と同一である。このほか、中国の典籍(『後漢書』『白氏文集』など)との類似点も多数指摘されており、これらの影響を受けていると考えられている。
 平安時代後期の『今昔物語集』にも竹取物語と同様の説話(巻31「竹取の翁、女児を見つけて養う語」)が採集されているが、求婚者への難題は3題のみで、月へ帰る夜も十五夜でなく、富士山の地名由来譚も登場しない、『竹取物語』より簡略化された内容である。漢籍などを参照したと考えられ、完成した内容を持つ『竹取物語』とは異なり、今昔所収の説話は口頭伝承されてきた「竹取の翁の物語」の古態を伝えているのではないかと想定されている。
 なお、後年の作家によって、本作は「世界最初のSF小説」と言及される事がある(藤川桂介著の「宇宙皇子」の後書きなど)しかしながら実際には、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた『本当の話』と『イカロメニッパス』のほうが古い。


 登場人物と時代

 かぐや姫のモデル

 『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命又は伊志麻命の娘・賀具夜媛命や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。
 イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している。


 5人の貴公子のモデル

 竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。
 また、車持皇子は藤原不比等とされ、不比等は天智天皇の落胤との説があり、母の姓が「車持」であるためといわれる。
 石作皇子のモデルは多治比嶋と推定され、多治比嶋が宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。


 時代設定

 この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。
 また、この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。


 時代背景と謎解き

 江戸時代の国文学者・加納諸平は『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。
 歴史によれば藤原氏は8世紀、権力の掌握を目的に多くの政敵に血の粛清を加えて「藤原氏だけが栄える世」を構築し、藤原氏批判の書を焼き捨てる等の政策を繰り返したが、その中で表立っての藤原氏批判などが出来ようはずもなく、同時代に成立したと考えられる『竹取物語』という物語の中に様々な工夫を凝らして藤原氏に対する批判が込められていたとしても不思議なことではない。
 最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。
 作中に月からの使いからもたらされた不老不死の薬のくだりがあるが、帝が「かぐや姫がいないこの世で永遠の命が必要であるか」と薬を富士の山の火口で焼く一幕について、皇室も藤原氏に利用される存在でしかないという帝の嘆きとは取らず、天人がかぐや姫を迎えに来る際、「穢き所」と地上を評する一文があることから、藤原氏により支配されてしまった世を嘆いている作者の言葉と見る向きもある。
 作中に登場する「天の羽衣」について、かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語り、人間を何がしか別種の存在へと変化させるのが「天の羽衣」の力であることを示唆する場面があるが、皇室にも天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣がある。


 由来の地

 日本各地に竹取物語由来の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っている。また以下の7市町(市町村コード順)では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されているが、行政間での繋がりの交流であり直接「竹取物語の舞台」だということにこだわった「サミット」を行っているのではない。これら地域は、上記に記されたような地名起源説など無く竹林の関係や天女伝説地それに地名に「竹原」とある等の関係からで物語発祥にこだわった団体ではない。

 静岡県富士市
 物語の結末で、富士の山(士に富む山)が登場することと、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという富士市説から麓の富士市にある竹林を由来としている。また、竹取物語と類似の話が富士山本宮浅間大社(富士宮市)の縁起として伝えられており、祭神の木花咲耶姫がかぐや姫のモデルだとする説もあるが、祭神を木花咲耶姫に擬するのは近世からともされる。

 京都府向日市
 竹の子の里であり孟宗竹が多い。孟宗竹は江戸時代からのものである。

 奈良県広陵町
 竹取の翁は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていることから、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉)と考えられている。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される藤原京から十分通える距離であり、「竹取物語ゆかりの神社」と称する讃岐神社も鎮座している。

 岡山県真備町(現倉敷市)

 広島県竹原市

 香川県長尾町(現さぬき市)

 鹿児島県宮之城町(現さつま町)

 滋賀県長浜市木之本町の辺りは、日本最古の羽衣伝説の舞台となった余呉湖や、背後の山の字名が「香具山」と呼ばれる伊香具神社(いかぐ)、石作の皇子を連想させる石作神社、月を連想させる高月町といった、竹取物語に登場する事物に関係するような神社や地名が多数点在する。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される近江大津京から、馬を乗り継ぐ等すれば通えなくはない距離である。


 海外の類話とそれに関する諸説

 アバ・チベット族「斑竹姑娘」との関連

 竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」(はんちくこしょう)という物語がある。内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似している。
 伊藤清司(東洋史)は、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったとした。これに対し、益田勝実(日本古代文学)は、『金玉鳳凰』収載の「斑竹姑娘」の改訂過程への疑問と翻案説に賛成しないとした。
 近年の研究では、奥津春雄(国文学)はむしろ「斑竹姑娘」の方が「竹取物語」の翻案であるとしている。


 本文

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 田中大秀著『竹取翁物語解』、松屋書店、明治28年(1895年)(『竹取翁物語解』 - 国立国会図書館)
 『日本古典文学大系 9 竹取物語 伊勢物語 大和物語』岩波書店 1957年10月
 阪倉篤義校訂『竹取物語』、岩波文庫、1970年、ISBN 4003000714
 『日本古典文学全集 8 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』小学館 1972年12月
 野口元大校注『新潮日本古典集成 竹取物語』新潮社 1979年5月 ISBN 978-4-10-620326-8
 『完訳日本の古典 第10巻 竹取物語、伊勢物語、土佐日記』小学館 1983年
 星新一訳『竹取物語』、角川文庫、1987年、ISBN 404130315X
 『新編日本古典文学全集 12 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』小学館 1994年12月
 『新日本古典文学大系 17 竹取物語 伊勢物語』岩波書店 1997年1月発行 ISBN 4-00-240017-4


 関連文献

 野村純一他編著『昔話・伝説小事典』、みずうみ書房刊、ISBN 4838031084
 関裕二著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』、ポプラ社、2006年、ISBN 978-4591091920
 原田実著『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』、文芸社、2007年、ISBN 978-4-286-02751-7、109-112頁