さて、今日は神からメッセージが来ました。
それは、聖戦とはなんでしょうと訴えてきたのです。
僕は思うのですが、自己解放というのは、僕が至ることではないのではないでしょうか。
僕が救われるには、赦しが必要です。
あるがままに現れを受け入れることも必要です。
しかし、これを悪魔を野放しにするという意味に受け取ったら、どうなるでしょう。
パーティが始まってしまいます。
もう、パーティが始まっているのが、今の世界なのです。
ピンチ!
なのです。
煙草が切れたのでコンビニ行こうと思ったが、髪がボサボサすぎるので母親の家へ。
髪の毛なおして「16時20分くらいに出てくでなあ」とか言う。
ふと、テレビを見ると韓国船が沈没したというニュースが・・・・・・
船内放送で待機するように流れ、娘からメールを受け取った父親が、それに従うようにアドバイスした。
結果・・・・・・
僕「なんで待機するように放送したんだろう??」
ここで母親が「船長は真っ先に逃げたらしい」
僕「え!? マジで?」
母親「あんたみたいなオカルトで罪を犯しても許されると思ってたんやに」
ちょ、ちょーっと待ったあああああああああ!!!!
これは想像が入りすぎているだろう。
その非常時に思想が影響した可能性があるとして、まず船長は、なぜ船内放送で待機を命じて逃げたのだ!?
まあ、それがほんとうの情報かどうかは別として、ほうとうと仮定してみると、どうなんだろう。
単に我が身可愛くて逃げたのだとしても、他の乗客にも「逃げろ」と普通は言うが・・・・・・
不思議だ。
状況判断を誤って、なんとかなると思っていたら、意外にすぐに非常事態になって、そのままスタコラサッサだったのだろうか。
うーむ、しかし、これを『すべての罪は赦される』と信じていたからそうなったというのは、いくらなんでも、酷い。
この『すべての罪は赦される』は、自分のやりたいようにやっていい、ではないのだ。
この話の流れだと、
何をしても赦されるから『自己』のやりたいようにやりなさいと、そのオカルトが言っているようではないか。
まあ、僕もその教えを知らないから、この2つの言葉からの、勝手な想像だけれども、
『悔い改める必要は無い』とその教えは言うのだという。
①全ての罪は赦される
②悔い改める必要は無い
その教えが、船長の行動に直接、繋がったのかどうか。
もし、ほんとうに咄嗟の非常時に、繋がったのだとしたら、悲しすぎるじゃないか。
『罪悪感』というものは、神の悲しみが反応している状態で、これが赦されるのは、神の至福に留まるからである。
神の至福に留まっていたら、目の前にある生命は、すべて自分自身なのだ!!!!
主客一体というでしょう。
わたしはあなたで、あなたはわたしなのです。
微細なる生命という『心』は、真我の展開した状態で、この至福は、いま、ここで愛なのです。
人間だけではなく、ありとあらゆる生命(空)は、自分と分割されない、生命(空)だからこそ、不死なのである。
一体化しているからこそ、赦され、癒されるわけです。
これは非常に重要な問題だ。
つまり僕が『想念』と『罪悪感』と『習慣(恐怖)』という3大悪魔を簡単にペットにすると書く。
すると、ある人がこれを、自分が2人いて、片方の自分が本物で、もう一人の自分に都合の悪い方を悪魔とするということだ!!!!
都合のいい方の自分を『神』として都合の悪い方の自分を『悪魔』としてしまったら、もう何でもありになる。
見たくない部分、『罪悪感』を感じる部分は悪魔で、自分が善いと認識している部分が『神』というのは、単に我が儘なだけでしょう。
この悪魔に対抗しているのは『至福=愛=宇宙』で、もうひとりの自分ではない!
観照者ですらない!
この時点では心は虚しくなっていて『自己』というものはトータルに明け渡されているという前提があるわけです。
嬉しい、楽しい、大好きではないのです。
アルジュナが戦いたくない親族との戦争に悩んだとき神は、
アルジュナよ、ためらうな、これがお前の運命なのだ、
今は戦うべきときなのだと言ったのです。
そしてアルジュナは神の与えた試練に立ち向かった。
ここには現状を受け入れて、戦いに向かう姿が描かれているのではないでしょうか。
現状を理解しているのです。
この場合『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』は差しだされている。
しかし、これは、何をやっても赦されるから戦おうという姿勢ではない。
むしろ、自分が差しだされているからこそ『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が払拭されているのです。
自分が差しだされていない場合は、もちろん、戦わずして捕らえられたでしょう。
それで『自己満足』というわけです。
博士が、聖徳太子の息子の一族がすべて戦わずして滅亡した話を書いていました。
聖徳太子ですら、戦ったのですと書いている。
目の前の人生に、神が与えた、試練を、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』で避けてはいけないということでしょう。
自分の居場所がわかったら、あとは人生を生ききるのです!
①すべての罪は赦される
②悔い改める必要は無い
なぜなら、あなたは自分の人生を生ききったからだ。
戦ったからだというわけです。
この地点での戦う姿勢というものが何なのかは理解にかかっているでしょう。
というか、普通に理解できる。
なぜなら、その人は至福に留まっているからです。
ハートにある人が、現れに対する信頼がある人が、目の前の試練を避けるでしょうか。
受け入れて赦し、悔い改めないのは、人生を生ききっている、戦っているからでしょう。
ムキになって書いてしまいましたが、自分も、解決しなければいけない問題だからでしょうか。
例えば、ある人が、散々悪い事をしている。
自分も、その悪い事の被害にあってしまった。
そのとき、すべてをあるがまま赦しているのであれば、単に自己都合なのです。
すべてを赦すには、悔い改める必要がなくなるには、悪いことをしている人の『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』を見て、それが救いがたい者であれば、無視する。
救いを求めるようであれば、諭す。
また、自分自身が被害を受けるようであれば、避ける。
また他者が被害を受けるようであれば助けるわけでしょう。
実際には心のない人間はいません。
『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が、その人を悪業に立たせるのであって、それで苦しむのは、その人自身なのです。
僕自身も、この悪魔に自分を差しだして、散々苦しんでいるわけです。
ハートの奥に帰れば神である人間が、その魂の汚れのために現れを穢し、苦しんでいる。
その苦しみを見て、アホだと言うのはだめだと思うのです。
苦しんでいるのは、心が鬼になっているからなのです(爆笑)
ああ、あそこに業によって苦しむ人々がいる、しかし『僕』は至福にいる、彼らもそのうち気が付くだろう。
ほうっておけ!
というのは、いくらなんでも、おかしいでしょう。
ハートの奥にある至福と共にいる人が、そんな行為をするわけがない。
ブッダが食中毒で死にかけたとき、その食事を提供した人に「私の最後の食事を供養したのだから、お前は功徳を積んだ」と言ったらしい。
これが赦しであって、悔い改める必要がない境地ではないでしょうか。
しかし、ここで、もし、ブッダが、その人の供養した食事が、毒だと知って食べたのだとしたら、どうでしょう。
これでは、おかしな話になってしまいます。
グルジェフさんも、こう言っています。
悪いと知って罪を行えば、償いがたい罪を犯す。
『罪悪感』がないというのは、目の前の、いま、ここで、愛と一体化しているからなのです。
良心が痛むのに、大丈夫だと無視することでは、あ、り、ま、せ、ん。
この場合に、真に教えを理解している人が、愛と一体化している人が、どう人生を戦うのかなのです。
僕が飲み放題で、お金にだらしないけど、そこは、まあいっかっていうのは、赦しではないでしょう(爆笑)
また、過去に、あんな悪い事したけど『罪悪感』なんていらないやと言ってしまったら、アホでしょう(爆笑)
『良心の呵責=神の悲しみ』がそこにある。
しかし、ここで無欲が貪欲を制するように戦うには、神の至福がなければ無理なのです。
悪想念の海の中で生きる、僕たちの周りに、真我の至福でいる状態を頻繁に起こらせる必要があるでしょう。
悪魔が、その人を乗っ取っているからです!!!!
本来の、その人のハートにある自然な心は、愛そのものなのです。
『罪を憎んで人を憎まず』という珠玉の格言があります。
この罪は、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』の3大悪魔で、これを消滅させなければいけない。
自分自身の『善』を持ち運んだら、信条を持ち運んだら、こんなことできるわけがないじゃないですか。
自分がもういないから、神がそこにいて、この神の至福が、行為に無意識のうちに現れる。
あるがままに生ききっている究極の境地!
まあ、僕はまだ、ふんだんに、守るべき自己を持っているということが、よくわかります・・・・・・orz
バベルの塔のてっぺんで、見ているのは、単に孤独な自我である。
この観照者は、人生の現れの中に消滅してしまわなければならないのです。
そこで、初めて無為自然。
愛という大海、極限に到達し、もはや死はない。
また悔い改めることも、罪もない。
なぜなら、その人は、もはや、神、そのものであるからです。
って、まあ、偉そうなこと書いてないで「お前がそうなれよ」と怒られそうですが・・・・・・orz
興奮してごめんw
でも、真我の至福というのは世界そのもので、つまり目の前に、今展開している人生そのものだと思うのです。
あるがままに、純粋な美しさが爆発している映像なのです。
それは、聖戦とはなんでしょうと訴えてきたのです。
僕は思うのですが、自己解放というのは、僕が至ることではないのではないでしょうか。
僕が救われるには、赦しが必要です。
あるがままに現れを受け入れることも必要です。
しかし、これを悪魔を野放しにするという意味に受け取ったら、どうなるでしょう。
パーティが始まってしまいます。
もう、パーティが始まっているのが、今の世界なのです。
ピンチ!
なのです。
煙草が切れたのでコンビニ行こうと思ったが、髪がボサボサすぎるので母親の家へ。
髪の毛なおして「16時20分くらいに出てくでなあ」とか言う。
ふと、テレビを見ると韓国船が沈没したというニュースが・・・・・・
船内放送で待機するように流れ、娘からメールを受け取った父親が、それに従うようにアドバイスした。
結果・・・・・・
僕「なんで待機するように放送したんだろう??」
ここで母親が「船長は真っ先に逃げたらしい」
僕「え!? マジで?」
母親「あんたみたいなオカルトで罪を犯しても許されると思ってたんやに」
ちょ、ちょーっと待ったあああああああああ!!!!
これは想像が入りすぎているだろう。
その非常時に思想が影響した可能性があるとして、まず船長は、なぜ船内放送で待機を命じて逃げたのだ!?
まあ、それがほんとうの情報かどうかは別として、ほうとうと仮定してみると、どうなんだろう。
単に我が身可愛くて逃げたのだとしても、他の乗客にも「逃げろ」と普通は言うが・・・・・・
不思議だ。
状況判断を誤って、なんとかなると思っていたら、意外にすぐに非常事態になって、そのままスタコラサッサだったのだろうか。
うーむ、しかし、これを『すべての罪は赦される』と信じていたからそうなったというのは、いくらなんでも、酷い。
この『すべての罪は赦される』は、自分のやりたいようにやっていい、ではないのだ。
この話の流れだと、
何をしても赦されるから『自己』のやりたいようにやりなさいと、そのオカルトが言っているようではないか。
まあ、僕もその教えを知らないから、この2つの言葉からの、勝手な想像だけれども、
『悔い改める必要は無い』とその教えは言うのだという。
①全ての罪は赦される
②悔い改める必要は無い
その教えが、船長の行動に直接、繋がったのかどうか。
もし、ほんとうに咄嗟の非常時に、繋がったのだとしたら、悲しすぎるじゃないか。
『罪悪感』というものは、神の悲しみが反応している状態で、これが赦されるのは、神の至福に留まるからである。
神の至福に留まっていたら、目の前にある生命は、すべて自分自身なのだ!!!!
主客一体というでしょう。
わたしはあなたで、あなたはわたしなのです。
微細なる生命という『心』は、真我の展開した状態で、この至福は、いま、ここで愛なのです。
人間だけではなく、ありとあらゆる生命(空)は、自分と分割されない、生命(空)だからこそ、不死なのである。
一体化しているからこそ、赦され、癒されるわけです。
これは非常に重要な問題だ。
つまり僕が『想念』と『罪悪感』と『習慣(恐怖)』という3大悪魔を簡単にペットにすると書く。
すると、ある人がこれを、自分が2人いて、片方の自分が本物で、もう一人の自分に都合の悪い方を悪魔とするということだ!!!!
都合のいい方の自分を『神』として都合の悪い方の自分を『悪魔』としてしまったら、もう何でもありになる。
見たくない部分、『罪悪感』を感じる部分は悪魔で、自分が善いと認識している部分が『神』というのは、単に我が儘なだけでしょう。
この悪魔に対抗しているのは『至福=愛=宇宙』で、もうひとりの自分ではない!
観照者ですらない!
この時点では心は虚しくなっていて『自己』というものはトータルに明け渡されているという前提があるわけです。
嬉しい、楽しい、大好きではないのです。
アルジュナが戦いたくない親族との戦争に悩んだとき神は、
アルジュナよ、ためらうな、これがお前の運命なのだ、
今は戦うべきときなのだと言ったのです。
そしてアルジュナは神の与えた試練に立ち向かった。
ここには現状を受け入れて、戦いに向かう姿が描かれているのではないでしょうか。
現状を理解しているのです。
この場合『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』は差しだされている。
しかし、これは、何をやっても赦されるから戦おうという姿勢ではない。
むしろ、自分が差しだされているからこそ『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が払拭されているのです。
自分が差しだされていない場合は、もちろん、戦わずして捕らえられたでしょう。
それで『自己満足』というわけです。
博士が、聖徳太子の息子の一族がすべて戦わずして滅亡した話を書いていました。
聖徳太子ですら、戦ったのですと書いている。
目の前の人生に、神が与えた、試練を、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』で避けてはいけないということでしょう。
自分の居場所がわかったら、あとは人生を生ききるのです!
①すべての罪は赦される
②悔い改める必要は無い
なぜなら、あなたは自分の人生を生ききったからだ。
戦ったからだというわけです。
この地点での戦う姿勢というものが何なのかは理解にかかっているでしょう。
というか、普通に理解できる。
なぜなら、その人は至福に留まっているからです。
ハートにある人が、現れに対する信頼がある人が、目の前の試練を避けるでしょうか。
受け入れて赦し、悔い改めないのは、人生を生ききっている、戦っているからでしょう。
ムキになって書いてしまいましたが、自分も、解決しなければいけない問題だからでしょうか。
例えば、ある人が、散々悪い事をしている。
自分も、その悪い事の被害にあってしまった。
そのとき、すべてをあるがまま赦しているのであれば、単に自己都合なのです。
すべてを赦すには、悔い改める必要がなくなるには、悪いことをしている人の『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』を見て、それが救いがたい者であれば、無視する。
救いを求めるようであれば、諭す。
また、自分自身が被害を受けるようであれば、避ける。
また他者が被害を受けるようであれば助けるわけでしょう。
実際には心のない人間はいません。
『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が、その人を悪業に立たせるのであって、それで苦しむのは、その人自身なのです。
僕自身も、この悪魔に自分を差しだして、散々苦しんでいるわけです。
ハートの奥に帰れば神である人間が、その魂の汚れのために現れを穢し、苦しんでいる。
その苦しみを見て、アホだと言うのはだめだと思うのです。
苦しんでいるのは、心が鬼になっているからなのです(爆笑)
ああ、あそこに業によって苦しむ人々がいる、しかし『僕』は至福にいる、彼らもそのうち気が付くだろう。
ほうっておけ!
というのは、いくらなんでも、おかしいでしょう。
ハートの奥にある至福と共にいる人が、そんな行為をするわけがない。
ブッダが食中毒で死にかけたとき、その食事を提供した人に「私の最後の食事を供養したのだから、お前は功徳を積んだ」と言ったらしい。
これが赦しであって、悔い改める必要がない境地ではないでしょうか。
しかし、ここで、もし、ブッダが、その人の供養した食事が、毒だと知って食べたのだとしたら、どうでしょう。
これでは、おかしな話になってしまいます。
グルジェフさんも、こう言っています。
悪いと知って罪を行えば、償いがたい罪を犯す。
『罪悪感』がないというのは、目の前の、いま、ここで、愛と一体化しているからなのです。
良心が痛むのに、大丈夫だと無視することでは、あ、り、ま、せ、ん。
この場合に、真に教えを理解している人が、愛と一体化している人が、どう人生を戦うのかなのです。
僕が飲み放題で、お金にだらしないけど、そこは、まあいっかっていうのは、赦しではないでしょう(爆笑)
また、過去に、あんな悪い事したけど『罪悪感』なんていらないやと言ってしまったら、アホでしょう(爆笑)
『良心の呵責=神の悲しみ』がそこにある。
しかし、ここで無欲が貪欲を制するように戦うには、神の至福がなければ無理なのです。
悪想念の海の中で生きる、僕たちの周りに、真我の至福でいる状態を頻繁に起こらせる必要があるでしょう。
悪魔が、その人を乗っ取っているからです!!!!
本来の、その人のハートにある自然な心は、愛そのものなのです。
『罪を憎んで人を憎まず』という珠玉の格言があります。
この罪は、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』の3大悪魔で、これを消滅させなければいけない。
自分自身の『善』を持ち運んだら、信条を持ち運んだら、こんなことできるわけがないじゃないですか。
自分がもういないから、神がそこにいて、この神の至福が、行為に無意識のうちに現れる。
あるがままに生ききっている究極の境地!
まあ、僕はまだ、ふんだんに、守るべき自己を持っているということが、よくわかります・・・・・・orz
バベルの塔のてっぺんで、見ているのは、単に孤独な自我である。
この観照者は、人生の現れの中に消滅してしまわなければならないのです。
そこで、初めて無為自然。
愛という大海、極限に到達し、もはや死はない。
また悔い改めることも、罪もない。
なぜなら、その人は、もはや、神、そのものであるからです。
って、まあ、偉そうなこと書いてないで「お前がそうなれよ」と怒られそうですが・・・・・・orz
興奮してごめんw
でも、真我の至福というのは世界そのもので、つまり目の前に、今展開している人生そのものだと思うのです。
あるがままに、純粋な美しさが爆発している映像なのです。