※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
人気ブログランキングへ←調子に乗ってすいませんorz
おはようございます。
世界という水晶玉に顔を突っ込んで楽しんでいる、皆さん!
正真正銘のダメ人間、豊田真大です。
昨日は仕事終わって、連休に入るのでビール買って飲んでました。
我が、尊敬する、今は亡き『宇宙一いい加減な博士』の名文を読みながら、気が付いたら寝ていた。
COMOさんの『カルキのディクシャ WHO IS THAT』というページにリンク全集があります。
まあ検索すればすぐに出てきますね。
COMOさん、ありがとうございます。
もう充分に楽しませていただきました。
神は『絶対』です。
全宇宙の更に上にある、絶対者のことなのですが、この神は、全宇宙を創造している根本なのです。
まあ、優しい白い光です。
しかしながら、この神の『自然』はカオス、混沌として調和しているのです。
『自然森』のような状態なのです。
自然森が神なのですが、まあ、この神は、森に住む生き物にとって、なくてはならない存在なのです。
例えですよ!
しかし、例えば狼が、子羊を食べようと狙っていて、襲いかかったら、森は何もしてくれません(爆笑)
子羊自身が一生懸命、逃げなくてはいけないのです。
しかし、この森が無くては『生命』が展開する、混沌、全体がなくなるのです。
だから、この創造後の世界において、受動的に思われる神に近づくのは我々の方なのです。
ほんとうは能動的なのは神の方なのですが、人間の世界では受動的に感じられるのです。
で、神が、無言で帰ってきたことを承認すると、わかる。
なぜ人類だけが、神の、まあ、この例えで言えば、自然森の生命力に帰ることが出来るのか。
人類は、神と出会うために、神の意志を、理性として受け取っているからなのです。
ですから、僕が、僕自身に都合の良いようにはいきません。
困ったことがあったから、神様、助けて下さいと言ったら、助けてくれることもある。
これは、心理的に助けてくれるのです。
出来事は変化しない。
まあ、博士曰く、神は、神の意志を働かせて、運命を変えることもあるようなこと書いていますが、、、
基本、この人間の世界では、人類の意志のほうが、神の意志よりも能動的なのです。
しかし、この世界では、神が一時的に、人間に憑依するということが希に起こるのです。
意識を失った瞬間などに、助けてくれるか、どうかは、神が決めているのです。
まあ、言えば、運命が、そう定めているのです。
天界から地獄への波動の振動率によって、様々な法則が流れているわけで、これを自我の意識がどうこうできないのです。
で、ここからが本題ですが、
僕が、ここ最近、超興奮して、書きまくっている『至福』というのは、
これは全宇宙が、この、神の世界で、展開している生命の根源、つまり全員がさいしょっから、いる場所である。
これが、自分自身の心なのだと書いているのです。
で、この『心』というのは、まあ言ったら、機能のようなものです。
心の中でペチャクチャ喋っている自我のことや、喜怒哀楽の感情を指してはいないのです。
こういった心が虚しくなることなのです。
これらの自我や歓喜は、心を覆う、『想念』と『罪悪感』という悪魔の代弁者なのです。
全員に共通しているのです!
だから、僕個人とは無関係なことはないのですが、例えば、僕が個人的な願望で、この神をどうこうはできないのです。
極端に表現すると、
神は、僕のことなど、どうでもいいのです(爆笑)
与える者は与えてくれて、あとは放っておいてくれているのです。
ほっとけ!
なのです(爆笑)
僕にとっては神は救いになるのですが、神にとっては、僕がどうなるかは法則の内に定めてあるのです。
この法則の内で、自分で、どう生きるかは、自由なのですが、、、
この自分というのは、魂の自分がどうあるかと言うことです。
わかりやすく、例えてみると、普段の我々の生活、現実世界は、映画のエキストラ達の生活です。
主人公ではありません。
しかし映画にはしっかりとしたストーリーがあって、このストーリーから変更されることはないのです。
『タイタニック』号は必ず沈没することに決まっているのです。
そして主人公達が愛を遂げることも決まっているのですが、また起こることも決まっているのですが、
スクリーンに映さなくてもいいような、細々したことまでは、決まっていないのです。
そして、この、細々したところで、人間は、自己を高めて、神に近づくことが可能性として許されているのです。
魂がどうあるか、なのです。
まあ、もしかしたら、主人公として生まれてきている人もいるでしょうから、この人の運命は、ほとんど自由がありません。
こういった人たちは、神の化身です。
まあ、仏陀とか、キリストとか、まあ運命が、定められていることがほとんどなのではないでしょうか。
しかし、彼らは最早、個人ではないので、演技しているとも考えられます。
さて、何が言いたいか。
自我と歓喜を、取り去らないと、神には近づいていけないということなのです。
あるがままに、という言葉は、やりたいようにではないのです。
まあ、知っている人の方が多いでしょう笑
やりたいように自由にやるのは、あるがままにの正反対です。
僕が楽しい、嬉しい、大好きの世界は、確かに充足感があるでしょう。
僕の神様を心の中に感じるのも、まあ、自由です。
なんでも許されているのです。
しかし、言葉の意味を考えてみてください。
『永遠の至福』なのですよ!
永遠なのです!
わかりますか?
永遠の至福というのは、虚しくしているときにしか個人には現れません!
永遠に至福なのですが、この永遠は、一時的にしか現れないのです。
これを永遠を永遠として、理解するのは、人間の側の努力によって成されるのです。
一時的なものを永遠だとわかるから、永遠に至福であるように努めるのです。
これが『全き注意、全き努力』なのです。
至福という言葉は、楽しい、嬉しい、大好きでは、ないのです!!!!
たしかに『嬉しさ』は感じますが、それは、個人が戻ってきたときに記憶の中にある至福に感じているのです。
だから放心したときには、ただただ愛=至福に安心しているのです。
とても静かな、静粛な、状態で、心は虚しいのですが、至福の中に安心しているのです。
博士が悟ったら、なんでもOKやで、酒も煙草もエッチもみんなOKやで、と書いているのは、
もう自分が肉体ではなくなった、凄まじく高度な人たちの話です。
この人達は、まあ言ったら、肉体が歓喜しても、至福を失わないほどに自己を遠ざけたのです。
なぜ、ここまでしつこく書くのかというと、僕が、これで超勘違いのどつぼに嵌って、
散々、苦しんだからなのです。
もう、ほんとに長く、長く、勘違いしていたのです。
僕自身が!
あるがままに、は、とてつもなく厳しい言葉なのです。
例えば、自分の家族が亡くなったとしても、あるがままにという意味なのです。
至福が失われないのです。
ここで嬉しい、楽しい、大好きと思う人はいません!!!!
また、自分の執着しているものが取り去られても、あるがままにという意味なのです。
大好きな人がいなくなっても、あるがままに、至福なのです。
だから、こういう状態にある人は、自分自身の幸福のために神を利用などしないのです!!!!
わかりますか?
神は、『自然森』の『生命力』のことなのですよ。
あなたが今日、どのように過ごしているかなどに、いちいち援助しません。
あなたの自我や感情には興味ないのです。
自由を許しているのです。
しかし、この自我や感情の方が苦しんでいるから、神に近寄るようになる。
自分が生命力、そのものだ、と感じ取るとき、自我や歓喜と共存していないのです。
この心は全宇宙で、この全宇宙である心は、神の生命力によって支えられているのです。
全宇宙ですよ!
ひとつの宇宙のことではないのです。
絶対-全宇宙-宇宙-太陽-惑星-地球-月-絶対
の、この全てが、心にあって、自分自身だという意味の『自分』なのです。
ここに、豊田君個人の、あしたの飯の問題が入ってこないのは当たり前です。
また、自分の感情が、喜怒哀楽、または、人生でのあれこれ、が問題になっているのは個人の方なのです。
いわゆる『個人的』感情の解放ということは、確かに、気持ちがいい。
『個人的』自己承認という状態も、確かに、気持ちがいい。
最高です。
でも、この状態は、喜怒哀楽、どの状態にあっても、我々はOKだという単純な理解の上にあってはいけない。
なぜなら、これでは絶対に根本苦は取り除かれません。
ずーっと言い続けるつもりですか、
わたしはOKだ、わたしはOKだ、わたしはOKだ、
いつになったら苦がなくなるのか、が問題なのであって、わたしがOKかどうかは、どうでもいいのです。
私が消えない限り、神は現れないのです。
だから、私の神などはいないのです。
神と共にあるという状態は、神に自分自身のすべてをトータルに明け渡しています。
ということなのです。
とてつもなく難しいことなのですが、うーん、そうでもないか。
簡単なことなのですが、欲望という悪魔が、それを遮っているだけなのです。
この悪魔は、自分、自分、自分なのです。
自分はOKだ、なのです(爆笑)
しかし、弱っちいやつらなのです。
奴らの武器と言ったら、パターン(習慣)と、想念と、罪悪感の3つだけなのですから。
ここでグルジェフさんが、このパターン(習慣)と戦うことを推奨しているのですが、
はっきり言って無理w
習慣と戦うには、師匠がいるのです!
つまり自分を情け容赦なく虐め倒してくれる、グルジェフさんのような師匠と一緒に生活しないと無理なのです。
嘘をつくからです。
嘘は、毎日つかれています。
嘘をついていない人はいないくらい毎日やっています。
もちろん僕もやってます(ごめんw)
あの、嘘というのは、自己欺瞞というものですが、これは『無知』と仏陀が言ったことと同じなのです。
自分を知らないことを誤魔化しているのです。
ここで幸運か不運かはわかりませんが、師匠と出会うことができた人は弱点を容赦なく叩きのめされるのです。
泣くほどやられる・・・・・・。
嘘がつけなくなるまで、容赦なく、弱点を突かれ続けるのです。
そうすると『放心』する(爆笑)
しかし僕は『第4の道』ではなく『第0の道』を提唱したい。
第1の道 ファキール 肉体の制御
第2の道 修道僧 祈り
第3の道 ヨーギ 知性
第4の道 ずるい人間 理解
第0の道 ダメ人間(爆笑) 放心
この第0の道は、道ではありません笑
道は4つしかないのです。
しかし、この第0の道は、ダメ人間の道なのです!!!!
つまり僕のような、世間的にダメな人間でも至れるのであります。
絶対に!
神は、すべてに浸透する、心である全宇宙の上位に存在しているのです。
この神の至福は、もちろん、ダメ人間にも浸透しています。
グルジェフさんは第4の道は最短だと言いました。
つまり、最初に『理解』を掴むことで、その他の3つの道を追い越してしまうのです。
身体は聖なる段階に高めるには、長時間かかります。
感情は、まあ、早いですが、理解に欠けるので、役に立ちません。
知性は、更に早いですが、達成したあとに、長く修業しなくてはいけません。
理解は、最短です。
しかし放心は、自己と引き替えに、すべてを即座に達成するのです!
だから道ではありません。
道はないのです。
やることもないのです。
ダメ人間募集中、ただし絶望している人に限る!
なのです(爆笑)
真我探求も明け渡しも、必要ないのです。
実はデスよ!
これは、個人意見ですが、僕のようにダメな人間のほうが、この『放心』の意味が理解できるのです(爆笑)
優れた人は理解できません。
何言ってるんだこのアホはと思うに違いないのです。
しかし、このダメ人間の持っている特質は、非常に優れているのですw
その優れている点は、
『純粋である』という点なのです!!!!
この純粋さは社会で優秀に活躍されている人にもありますが、我々は、それに勝る『純粋性』なのです。
まあ言葉を悪くすれば『世間知らずのアホ』となるのです。
この、世間知らずのアホは、なんと、優れているのです(爆笑)
自分なんてものを、明け渡すことは、なんと自動的に人生が与えてくれるという極めて幸運な状況にあるのです。
ですから、道もなく、教えもなく、師もなく、第0の道、
つまり無い道、
絶望しているダメ人間の道なのです!!!!
さあ、この秘訣を、書いてみましょう(ごめんねw)
第0の道、つまり、何もない道において、唯一、あるのが、
神です。
自然森です。
生命力です。
心=宇宙です。
福音です。
愛です。
至福です。
放心です。
優しい白い光です。
絶望です。
虚しさです。
全体性です。
いま・ここです。
最愛の人です。
ゆらめく無です。
解放です。
お前はもう死んでいるです。
純粋さです。
仏性です。
自我と歓喜以外の全てです!
この、たったひとつのある。
つまり第0の道なのに『ある』のは、ほんとうはゼロなのです。
だから、ゼロの道にある、これらの『ある』たったひとつ『在る』ものは無であり有だ。
ダメ人間、ただし絶望している人だけが、この、無い道に、道なき道に入る権利がある。
絶賛、大募集中!!
人気ブログランキングへダメ人間、世界代表にエールを!笑
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正真正銘のダメ人間、豊田真大です。
昨日は仕事終わって、連休に入るのでビール買って飲んでました。
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COMOさん、ありがとうございます。
もう充分に楽しませていただきました。
神は『絶対』です。
全宇宙の更に上にある、絶対者のことなのですが、この神は、全宇宙を創造している根本なのです。
まあ、優しい白い光です。
しかしながら、この神の『自然』はカオス、混沌として調和しているのです。
『自然森』のような状態なのです。
自然森が神なのですが、まあ、この神は、森に住む生き物にとって、なくてはならない存在なのです。
例えですよ!
しかし、例えば狼が、子羊を食べようと狙っていて、襲いかかったら、森は何もしてくれません(爆笑)
子羊自身が一生懸命、逃げなくてはいけないのです。
しかし、この森が無くては『生命』が展開する、混沌、全体がなくなるのです。
だから、この創造後の世界において、受動的に思われる神に近づくのは我々の方なのです。
ほんとうは能動的なのは神の方なのですが、人間の世界では受動的に感じられるのです。
で、神が、無言で帰ってきたことを承認すると、わかる。
なぜ人類だけが、神の、まあ、この例えで言えば、自然森の生命力に帰ることが出来るのか。
人類は、神と出会うために、神の意志を、理性として受け取っているからなのです。
ですから、僕が、僕自身に都合の良いようにはいきません。
困ったことがあったから、神様、助けて下さいと言ったら、助けてくれることもある。
これは、心理的に助けてくれるのです。
出来事は変化しない。
まあ、博士曰く、神は、神の意志を働かせて、運命を変えることもあるようなこと書いていますが、、、
基本、この人間の世界では、人類の意志のほうが、神の意志よりも能動的なのです。
しかし、この世界では、神が一時的に、人間に憑依するということが希に起こるのです。
意識を失った瞬間などに、助けてくれるか、どうかは、神が決めているのです。
まあ、言えば、運命が、そう定めているのです。
天界から地獄への波動の振動率によって、様々な法則が流れているわけで、これを自我の意識がどうこうできないのです。
で、ここからが本題ですが、
僕が、ここ最近、超興奮して、書きまくっている『至福』というのは、
これは全宇宙が、この、神の世界で、展開している生命の根源、つまり全員がさいしょっから、いる場所である。
これが、自分自身の心なのだと書いているのです。
で、この『心』というのは、まあ言ったら、機能のようなものです。
心の中でペチャクチャ喋っている自我のことや、喜怒哀楽の感情を指してはいないのです。
こういった心が虚しくなることなのです。
これらの自我や歓喜は、心を覆う、『想念』と『罪悪感』という悪魔の代弁者なのです。
全員に共通しているのです!
だから、僕個人とは無関係なことはないのですが、例えば、僕が個人的な願望で、この神をどうこうはできないのです。
極端に表現すると、
神は、僕のことなど、どうでもいいのです(爆笑)
与える者は与えてくれて、あとは放っておいてくれているのです。
ほっとけ!
なのです(爆笑)
僕にとっては神は救いになるのですが、神にとっては、僕がどうなるかは法則の内に定めてあるのです。
この法則の内で、自分で、どう生きるかは、自由なのですが、、、
この自分というのは、魂の自分がどうあるかと言うことです。
わかりやすく、例えてみると、普段の我々の生活、現実世界は、映画のエキストラ達の生活です。
主人公ではありません。
しかし映画にはしっかりとしたストーリーがあって、このストーリーから変更されることはないのです。
『タイタニック』号は必ず沈没することに決まっているのです。
そして主人公達が愛を遂げることも決まっているのですが、また起こることも決まっているのですが、
スクリーンに映さなくてもいいような、細々したことまでは、決まっていないのです。
そして、この、細々したところで、人間は、自己を高めて、神に近づくことが可能性として許されているのです。
魂がどうあるか、なのです。
まあ、もしかしたら、主人公として生まれてきている人もいるでしょうから、この人の運命は、ほとんど自由がありません。
こういった人たちは、神の化身です。
まあ、仏陀とか、キリストとか、まあ運命が、定められていることがほとんどなのではないでしょうか。
しかし、彼らは最早、個人ではないので、演技しているとも考えられます。
さて、何が言いたいか。
自我と歓喜を、取り去らないと、神には近づいていけないということなのです。
あるがままに、という言葉は、やりたいようにではないのです。
まあ、知っている人の方が多いでしょう笑
やりたいように自由にやるのは、あるがままにの正反対です。
僕が楽しい、嬉しい、大好きの世界は、確かに充足感があるでしょう。
僕の神様を心の中に感じるのも、まあ、自由です。
なんでも許されているのです。
しかし、言葉の意味を考えてみてください。
『永遠の至福』なのですよ!
永遠なのです!
わかりますか?
永遠の至福というのは、虚しくしているときにしか個人には現れません!
永遠に至福なのですが、この永遠は、一時的にしか現れないのです。
これを永遠を永遠として、理解するのは、人間の側の努力によって成されるのです。
一時的なものを永遠だとわかるから、永遠に至福であるように努めるのです。
これが『全き注意、全き努力』なのです。
至福という言葉は、楽しい、嬉しい、大好きでは、ないのです!!!!
たしかに『嬉しさ』は感じますが、それは、個人が戻ってきたときに記憶の中にある至福に感じているのです。
だから放心したときには、ただただ愛=至福に安心しているのです。
とても静かな、静粛な、状態で、心は虚しいのですが、至福の中に安心しているのです。
博士が悟ったら、なんでもOKやで、酒も煙草もエッチもみんなOKやで、と書いているのは、
もう自分が肉体ではなくなった、凄まじく高度な人たちの話です。
この人達は、まあ言ったら、肉体が歓喜しても、至福を失わないほどに自己を遠ざけたのです。
なぜ、ここまでしつこく書くのかというと、僕が、これで超勘違いのどつぼに嵌って、
散々、苦しんだからなのです。
もう、ほんとに長く、長く、勘違いしていたのです。
僕自身が!
あるがままに、は、とてつもなく厳しい言葉なのです。
例えば、自分の家族が亡くなったとしても、あるがままにという意味なのです。
至福が失われないのです。
ここで嬉しい、楽しい、大好きと思う人はいません!!!!
また、自分の執着しているものが取り去られても、あるがままにという意味なのです。
大好きな人がいなくなっても、あるがままに、至福なのです。
だから、こういう状態にある人は、自分自身の幸福のために神を利用などしないのです!!!!
わかりますか?
神は、『自然森』の『生命力』のことなのですよ。
あなたが今日、どのように過ごしているかなどに、いちいち援助しません。
あなたの自我や感情には興味ないのです。
自由を許しているのです。
しかし、この自我や感情の方が苦しんでいるから、神に近寄るようになる。
自分が生命力、そのものだ、と感じ取るとき、自我や歓喜と共存していないのです。
この心は全宇宙で、この全宇宙である心は、神の生命力によって支えられているのです。
全宇宙ですよ!
ひとつの宇宙のことではないのです。
絶対-全宇宙-宇宙-太陽-惑星-地球-月-絶対
の、この全てが、心にあって、自分自身だという意味の『自分』なのです。
ここに、豊田君個人の、あしたの飯の問題が入ってこないのは当たり前です。
また、自分の感情が、喜怒哀楽、または、人生でのあれこれ、が問題になっているのは個人の方なのです。
いわゆる『個人的』感情の解放ということは、確かに、気持ちがいい。
『個人的』自己承認という状態も、確かに、気持ちがいい。
最高です。
でも、この状態は、喜怒哀楽、どの状態にあっても、我々はOKだという単純な理解の上にあってはいけない。
なぜなら、これでは絶対に根本苦は取り除かれません。
ずーっと言い続けるつもりですか、
わたしはOKだ、わたしはOKだ、わたしはOKだ、
いつになったら苦がなくなるのか、が問題なのであって、わたしがOKかどうかは、どうでもいいのです。
私が消えない限り、神は現れないのです。
だから、私の神などはいないのです。
神と共にあるという状態は、神に自分自身のすべてをトータルに明け渡しています。
ということなのです。
とてつもなく難しいことなのですが、うーん、そうでもないか。
簡単なことなのですが、欲望という悪魔が、それを遮っているだけなのです。
この悪魔は、自分、自分、自分なのです。
自分はOKだ、なのです(爆笑)
しかし、弱っちいやつらなのです。
奴らの武器と言ったら、パターン(習慣)と、想念と、罪悪感の3つだけなのですから。
ここでグルジェフさんが、このパターン(習慣)と戦うことを推奨しているのですが、
はっきり言って無理w
習慣と戦うには、師匠がいるのです!
つまり自分を情け容赦なく虐め倒してくれる、グルジェフさんのような師匠と一緒に生活しないと無理なのです。
嘘をつくからです。
嘘は、毎日つかれています。
嘘をついていない人はいないくらい毎日やっています。
もちろん僕もやってます(ごめんw)
あの、嘘というのは、自己欺瞞というものですが、これは『無知』と仏陀が言ったことと同じなのです。
自分を知らないことを誤魔化しているのです。
ここで幸運か不運かはわかりませんが、師匠と出会うことができた人は弱点を容赦なく叩きのめされるのです。
泣くほどやられる・・・・・・。
嘘がつけなくなるまで、容赦なく、弱点を突かれ続けるのです。
そうすると『放心』する(爆笑)
しかし僕は『第4の道』ではなく『第0の道』を提唱したい。
第1の道 ファキール 肉体の制御
第2の道 修道僧 祈り
第3の道 ヨーギ 知性
第4の道 ずるい人間 理解
第0の道 ダメ人間(爆笑) 放心
この第0の道は、道ではありません笑
道は4つしかないのです。
しかし、この第0の道は、ダメ人間の道なのです!!!!
つまり僕のような、世間的にダメな人間でも至れるのであります。
絶対に!
神は、すべてに浸透する、心である全宇宙の上位に存在しているのです。
この神の至福は、もちろん、ダメ人間にも浸透しています。
グルジェフさんは第4の道は最短だと言いました。
つまり、最初に『理解』を掴むことで、その他の3つの道を追い越してしまうのです。
身体は聖なる段階に高めるには、長時間かかります。
感情は、まあ、早いですが、理解に欠けるので、役に立ちません。
知性は、更に早いですが、達成したあとに、長く修業しなくてはいけません。
理解は、最短です。
しかし放心は、自己と引き替えに、すべてを即座に達成するのです!
だから道ではありません。
道はないのです。
やることもないのです。
ダメ人間募集中、ただし絶望している人に限る!
なのです(爆笑)
真我探求も明け渡しも、必要ないのです。
実はデスよ!
これは、個人意見ですが、僕のようにダメな人間のほうが、この『放心』の意味が理解できるのです(爆笑)
優れた人は理解できません。
何言ってるんだこのアホはと思うに違いないのです。
しかし、このダメ人間の持っている特質は、非常に優れているのですw
その優れている点は、
『純粋である』という点なのです!!!!
この純粋さは社会で優秀に活躍されている人にもありますが、我々は、それに勝る『純粋性』なのです。
まあ言葉を悪くすれば『世間知らずのアホ』となるのです。
この、世間知らずのアホは、なんと、優れているのです(爆笑)
自分なんてものを、明け渡すことは、なんと自動的に人生が与えてくれるという極めて幸運な状況にあるのです。
ですから、道もなく、教えもなく、師もなく、第0の道、
つまり無い道、
絶望しているダメ人間の道なのです!!!!
さあ、この秘訣を、書いてみましょう(ごめんねw)
第0の道、つまり、何もない道において、唯一、あるのが、
神です。
自然森です。
生命力です。
心=宇宙です。
福音です。
愛です。
至福です。
放心です。
優しい白い光です。
絶望です。
虚しさです。
全体性です。
いま・ここです。
最愛の人です。
ゆらめく無です。
解放です。
お前はもう死んでいるです。
純粋さです。
仏性です。
自我と歓喜以外の全てです!
この、たったひとつのある。
つまり第0の道なのに『ある』のは、ほんとうはゼロなのです。
だから、ゼロの道にある、これらの『ある』たったひとつ『在る』ものは無であり有だ。
ダメ人間、ただし絶望している人だけが、この、無い道に、道なき道に入る権利がある。
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