《永遠不滅の真理のことば》
ジャンヌ・ド・サルツマン
「新しい状況に立ち向かうことのできるただ一つの可能性は、それだけが人間の感情の質を変え得る、あの、まったくの誠実さで、自己を深く内省することであった」
Views from the Real World
・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
こんにちは。
本日は午後2時ごろに起床しました豊田です。
今朝、量子力学について、いろいろネットサーフィンをしていて、疲れて、気がついたら、眠っていたようだ。
だるい体を引き摺って洗面をします。
それから座禅15分をするのだが、どうも鼻腔が調子が悪く、途中で一旦止めて、やり直しをする。
しかし、妄念世界のオンパレードだった。
空想というのは、どこかに溜まっているものが、ドンドン浮き出てくるのではないだろうかと思われる。
※ランキング2ヶ所クリックにご協力宜しくお願いします。
↓↓↓↓↓↓↓
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
考えているわけではなくて、自動的に連想が、湧いてくる。
ここの切り替えが、普段の内的態度から影響を受けているような気がする。
座禅を終えると、コーヒーを淹れて読書ですね。
今日は雨で、静かだった。
大きくならないように途中で太い枝を切られた樹を見ると、憐憫の情が湧く。
そういうえば僕の父親は桜の樹の枝を切ろうとして転落、頭部打撲によって、意識不明の世界をさ迷ったのだ。
読書を終えてブログの更新です。
以前、大阪の路上占い師に「あなたはもっと人を信頼してください。それが成功の秘訣ですよ。疑うのをやめてください」と言われました。
中々、いい事を言う。
もちろん、誰でも彼でも信頼していたら大変なことになるのは人生経験上確信していますが、信頼に値する人たちに対しても疑ってしまう癖が、いろいろと台無しにしているという事実もある。
極端に傾くのが、良くないのである。
どんなに自分より優れた人であっても、必ず、疑ってかかる(苦笑)
そこで「迷い」が生まれて、あっちでもない、こっちでもない。
過去の経験から『我見』が生じて、この『我見』から物事を偏向して見るという癖が、自己が定まらない原因ではないだろうか。
自分が見て、確かめて、素晴らしいと思えるところの一部だけを抜くのではなく、全体を当てはめて、そこから、見てみるのがいいのかもしれない。
阿部敏郎さんは、純粋な心の周囲に、付着した『観念』と、これを言っていた。
仏教では、仏、つまり、この場合は、お釈迦様を敬いなさいと教える。
全体を信頼せずに、一部だけを、自分の都合に縁って、信条のように、『観念』として持ち運ぶのではなく、その『敬愛』する心で、全体を当てはめていかなければいけない。
我侭な意見が、それを邪魔する。
ここは、僕自身にとっての、大きな弱点、欠点である。
父母を大切にする人は善人の印であるとグルジェフさんは言った。
自分が落ちていなければ、このような優れた人でも、敬愛することはできないだろう。
人を敬愛することなしには、感謝も、ほんものではないだろう。
自己都合による感謝では、心の質を、高めていくことはできないようなのだ。
尊敬に値する人を、敬愛できるように、ならなけばいけない。
では、それを見分けるにはどうすればいいだろうか。
グルジェフさんは『注目すべき人』の条件に3つを挙げている。
①機知に富む点で周囲の人々をしのぐ人間。
②本性の発露を自制することを心得ている人間。
③他人の弱さに対して公正に辛抱強く対処する人間。
これを批判するのではなく、敬愛できるように、練習しよう。
臨機応変に対応して創意工夫に溢れた人を見たら、尊敬しよう。
自分のしている仕事を改善する能力のある人である。
自尊心や虚栄心を満たすような言葉や行いを控えている人を見たら、尊敬しよう。
他人の立場に立って、忍耐できる、人を思いやることができる優しい人である。
良心(法)に照らして、間違いを間違いであると指摘、注意してくれる人を見たら、尊敬しよう。
人を叱ることを恐れず、天の声に縁って、道を正す、真の大師である。
父母を敬うことの出来る人は、敬愛に、値する。
父母を敬うことの出来ない人は、それに、値しない。
植物や動物に愛を実行できる人は、敬愛に、値する。
植物や動物に愛を実行できない人は、敬愛に、値しない。
こ、これは!?
千鶴さんと悠聖が、どっちの条件も満たしているのが気に食わないが(爆笑)
これぞ神の恩寵か?www
ま、まあ、優れた人を批判せず、敬愛することで我侭を落とせるように精進しよう。
僕の主要な欠点は『疑惑』と『我見』である。