・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
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こんにちは。
今朝は8時半ごろに起床しました豊田です。
千鶴さんは勢和多気へ、悠聖を連れて帰っています。
喧嘩したわけじゃあないですよ?(苦笑)
昨日の昼過ぎから、滋賀の叔母さんと、その友人の方々と一緒に、亀山を出ました。
筍を貰いに勢和多気へ行ったのだが、一泊して、今日帰る予定です。
昨夜は、食べて、飲んで、ネットして、深夜まで起きていたので体がだるい。
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寝起きは、いつでもだるい気がする。
アッ、と、お風呂を『自動』のままにしていたことを思い出し後悔をする。
洗面を終えてから、お風呂の換気をしておく・・・・・・。
千鶴さんがいないと、こうこう、だらしなさ、が、本領を発揮してしまうwww
それで彼女来てくれてから、僕は幸せだよなあと思い、忘れていた感謝。
人間同士って、近くにいる時は、有り難さに気が付かないよね。
それから日課の座禅を50分しました。
体の存在感覚が乏しいので、澄んだ集中力がないと現在に居ることが、難しい。
澄んだ集中力は、心と体の力を抜かないと、出てこない。
自分自身に誠実に、真剣になるということは、深刻になることではない。
『気楽さ』の要素も混じっているのだ。
座禅を終えて、コーヒーを淹れると、玄関先で、読書の時間です。
2ヶ月間、毎日は、結構、長いような気がしてきました。
しかし、継続は力なりという言葉があるので、読書と座禅だけは、途切れさせていない。
今までの経験上、だいたい2ヶ月経ったくらいから、徐々に改善効果が出てきている。
外は、雨。
どんよりとした雲に覆われた空。
春でも太陽がないと寒い。
いつも見かける雀や蝶がいないが、鳥の囀りは聞こえてくる。
物悲しい灰色が、景色と空気に架かっているようだ。
読書を終えると、ロールパンを齧りながら、ブログの更新です。
楽しむために、重要なのは、力を抜いて、肩の荷を降ろす。
「こころ」がリラックスするということは形を飛び出る事である。
美しい樹と汚い樹があるという形の認識(分別作用)である。
完成か未熟か、どちらか一方だけに価値があると、判断している形である。
僕は、書道を気まぐれにしたが、それに集中して、開放されていれば、幸せが、すぐさま心に現れているのだ。
真剣に成るという事は、深刻に、間違い探しをする事ではない。
今、目の前でしていることに、心が開放されて、それに従って、体中に、生き生きとした『精気』が巡ってくることなのである。
これが性エネルギーなのだ(笑い)
それは『陽気』であるという言葉が当てはまる。
この『陰気』とか『陽気』というのは性格だけのことではない。
自己の体内に『呼吸』を通して巡っている血液循環の「ようなもの」だ。
純粋なる『印象の呼吸』が、体を、元気させるものと、疲れさせる効果があるのだ。
これは、誰でもやっている。
その違いが、結果だけを重視するのか、今、目の前を見るのかである。
結果というのは、自己が、そこに成長価値を見出すものであって、他者基準の意見だけに重きを置いてはいけないのである。
この結果を気にしないから適当に、座禅と読書をしているというわけではない。
他者を基準とせずに、楽しみながら、真剣にやっているのだ。
自己と他者を比較せず、ここに、気楽に、精神統一している事である。
ただ単に、他者からの承認のためには、していないというだ。
もっと極端に表現すれば社会から「アホ」と呼ばれても、やれるということである。
それ自体に価値があるなら、喜びがあるなら、やれるわけです。
社会(他者)に「アホ」にされても、自らは、座禅をアホニシテイナイからだ。
この自分を尊重して『こころの純粋さ』を大切にすることなのである。
他者(社会)に依存しない、生命、自然の躍動に縁る、自尊心。
そこに静寂と安心がある。
やっていることに『こころ』が開放されて、ふーッ、と、体の力が抜けたときには、生の感動があるのである。
自我の絶望が、必要なのは、頑なに守っている『形』を破壊するためにだけで、それは、『形』が捨てられたなら、持ち運んではいけないのである。
絶望ではなく、その結果としての、自然と自己の融合こそが、悟りであり、幸せである。
この自然界と自己の言動は、どちらかが、一方を所有しているのではなくて、お互いに融合しているものである。
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こんにちは。
今朝は8時半ごろに起床しました豊田です。
千鶴さんは勢和多気へ、悠聖を連れて帰っています。
喧嘩したわけじゃあないですよ?(苦笑)
昨日の昼過ぎから、滋賀の叔母さんと、その友人の方々と一緒に、亀山を出ました。
筍を貰いに勢和多気へ行ったのだが、一泊して、今日帰る予定です。
昨夜は、食べて、飲んで、ネットして、深夜まで起きていたので体がだるい。
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アッ、と、お風呂を『自動』のままにしていたことを思い出し後悔をする。
洗面を終えてから、お風呂の換気をしておく・・・・・・。
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それで彼女来てくれてから、僕は幸せだよなあと思い、忘れていた感謝。
人間同士って、近くにいる時は、有り難さに気が付かないよね。
それから日課の座禅を50分しました。
体の存在感覚が乏しいので、澄んだ集中力がないと現在に居ることが、難しい。
澄んだ集中力は、心と体の力を抜かないと、出てこない。
自分自身に誠実に、真剣になるということは、深刻になることではない。
『気楽さ』の要素も混じっているのだ。
座禅を終えて、コーヒーを淹れると、玄関先で、読書の時間です。
2ヶ月間、毎日は、結構、長いような気がしてきました。
しかし、継続は力なりという言葉があるので、読書と座禅だけは、途切れさせていない。
今までの経験上、だいたい2ヶ月経ったくらいから、徐々に改善効果が出てきている。
外は、雨。
どんよりとした雲に覆われた空。
春でも太陽がないと寒い。
いつも見かける雀や蝶がいないが、鳥の囀りは聞こえてくる。
物悲しい灰色が、景色と空気に架かっているようだ。
読書を終えると、ロールパンを齧りながら、ブログの更新です。
楽しむために、重要なのは、力を抜いて、肩の荷を降ろす。
「こころ」がリラックスするということは形を飛び出る事である。
美しい樹と汚い樹があるという形の認識(分別作用)である。
完成か未熟か、どちらか一方だけに価値があると、判断している形である。
僕は、書道を気まぐれにしたが、それに集中して、開放されていれば、幸せが、すぐさま心に現れているのだ。
真剣に成るという事は、深刻に、間違い探しをする事ではない。
今、目の前でしていることに、心が開放されて、それに従って、体中に、生き生きとした『精気』が巡ってくることなのである。
これが性エネルギーなのだ(笑い)
それは『陽気』であるという言葉が当てはまる。
この『陰気』とか『陽気』というのは性格だけのことではない。
自己の体内に『呼吸』を通して巡っている血液循環の「ようなもの」だ。
純粋なる『印象の呼吸』が、体を、元気させるものと、疲れさせる効果があるのだ。
これは、誰でもやっている。
その違いが、結果だけを重視するのか、今、目の前を見るのかである。
結果というのは、自己が、そこに成長価値を見出すものであって、他者基準の意見だけに重きを置いてはいけないのである。
この結果を気にしないから適当に、座禅と読書をしているというわけではない。
他者を基準とせずに、楽しみながら、真剣にやっているのだ。
自己と他者を比較せず、ここに、気楽に、精神統一している事である。
ただ単に、他者からの承認のためには、していないというだ。
もっと極端に表現すれば社会から「アホ」と呼ばれても、やれるということである。
それ自体に価値があるなら、喜びがあるなら、やれるわけです。
社会(他者)に「アホ」にされても、自らは、座禅をアホニシテイナイからだ。
この自分を尊重して『こころの純粋さ』を大切にすることなのである。
他者(社会)に依存しない、生命、自然の躍動に縁る、自尊心。
そこに静寂と安心がある。
やっていることに『こころ』が開放されて、ふーッ、と、体の力が抜けたときには、生の感動があるのである。
自我の絶望が、必要なのは、頑なに守っている『形』を破壊するためにだけで、それは、『形』が捨てられたなら、持ち運んではいけないのである。
絶望ではなく、その結果としての、自然と自己の融合こそが、悟りであり、幸せである。
この自然界と自己の言動は、どちらかが、一方を所有しているのではなくて、お互いに融合しているものである。