・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
こんにちは。
今日は午前11時に目覚めました。
相変わらず体調がよくないですが、洗面を、のんびりします。
予想より早く目覚めたので多少気分がいい。
そのあとで座布団を2枚敷いて、座禅を15分間行います。
いつもの如く、連想の流れに、飲み込まれてしまう。
たまにハッ、となって帰るが、また、流されていってしまった。
※ランキング2ヶ所クリックにご協力宜しくお願いします。
↓↓↓↓↓↓↓
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
座禅を終えると、コーヒーを淹れて、読書ですね。
煙草を吸いながら、のんびりと時間をかけて1章だけを読みます。
情報というのも、意識して読まないと、流れていく。
自分は読んでいるつもりでも、機械的に、流れているだけで、何の印象も残らない。
新聞でも、テレビでも一緒ですね。
今日は、どんよりと曇っていて、風が冷たい。
洗濯物が風に揺られている。
右を見るといつもは気にも留めない樹が、真っ白な花を咲かせている。
人間の視界というものは、広がったり、狭まったりする。
いつもと同じ、日常でも、全く違う風景になることもあるのだ。
自分の心、次第である。
で、ブログ更新ですね。
どうも、このような精神世界の話をすると、それを現実逃避だと勘違いされたりする。
つまり目の前にある現実から目を背けて、空想の世界に飛んでいると思われるのだ。
著作者:djandyw.com
例えば、戦争反対である。
そんなことを考えても、現実問題として戦わねばならない。
お釈迦様が自分の祖国が戦争で滅びそうになったとき、3度まで敵の侵攻を防いだ。
3度まで防いで、宿業の避け難きを知り、もう、そのままにしたそうだ。
また、無心に瞑想をしている人が蛇にかまれて、死んでしまった時に、アホなことをする奴だと言ったらしいです(苦笑)
その他にも、托鉢ということをして、御飯をいただいて回っているとき「お前も耕してから食べろ」と農夫に言われて「私も耕してから食べている」と言っています。
別に現実を否定するようなものではないのであります。
バガヴァットギーターのアルジュナの話を読めば、感動しますが、あの時、クリシュナは「アルジュナよ、今は、戦うときなのだ」と教えています。
そうして、眼前の敵が、もう既に、神に飲まれている映像を見せるのです。
私は死なない、あなたも死なない、などと書くと、そんなアホな!
あの人も、この人も、苦しんで亡くなってしまったではないかと、何を現実逃避しとるんじゃお主は~と思われる。
そうではなくて、死というものは、生があって初めてあるものである。
死があったら、もう、既に、あなたは生きていないのだから、私やあなたは死を見ることなどできようはずもない。
生きているからこそ、死があるのであって、それを見るのだ。
当たり前の話である。
昔、楠木正成が最後の戦いに赴くとき、必ず死ぬことが分かっていたので迷った。
禅僧に生死の決意とは如何に?
禅僧「喝!!!」
で、そのまま戦地に駆けて、見事に散ったそうである。
生きることに目を背ける話しではなくて、ここに、生きることの話なのです。
迷いが取れれば、それで、そこにいるしかない。
「いまここ」に存在している以外に、どこにも生き様がないんですね。
そういう大きな流れの中での話を学んでいるのであって、自分が、現実を消去したり、自分を消去したりという、そんなことではないんです。
「あるがままに」というのは、もう、みんな既に「あるがまま」でしかない。
このように事が運んで、それを認識したときには、もう過ぎ去っているんだから、どう転んだって神の流れの中にしかいないわけです。
だから苦行は無駄、修行は無駄であるとなる。
しかし、今度は、そこのところが、また考えから評価して、それならば、何もしないというのは、ずーっと寝転んでいることかと思う人がいるわけです(爆笑)
何もしないというのは、何もできようがないということですよ!?
著作者:Igor Menezes - Photographer
どうしようもない。
どうしようもない現実に対して「迷い」があるわけでしょう。
その「迷い」は「迷っている」から迷いがあるwww
だから「喝!!!」で終わる。
目の前の眼前の風景に自己を生きるしか、ないのは、修行したからではなく、最初から、そこにしか生きてないんですよ。
最初から最期まで、絶対に、そこは踏み外されないからこそ真理なんですね。
真理というのは、あの人は真理を所有しているけど、この人には真理がないなんていう、差別が全くないことのことなんです。
だから、考え方を弄っても、気がつくわけがない。
ただリラックスして頭の世界を抜ける。
抜けるというのは、ここに帰ってくることであります。
だから空想世界に飛ぶということは、全く、反対のことのはずなのです。
天が心であると書くと、それが、もう、空想を呼んでしまうわけですが、その天は心であるということは思念の世界にはないんです。
実際に目を空に向けた『天』、つまり宇宙の果てが、実際にある自分の心である。
頭の中で生成するわけじゃないですよ?
そのようにあるのは修行したからでもないですよ。
誰でも、全員、みんな、最初から、そのものでしかないことなのです。
例えば、前にも書きましたが理解させよう、できるようにさせようというのは、これは、どんなことになるでしょう?
もう既に、そうである、他者に、そうではないと思わせる。
自分が、もう、すでに自然の働きの中にあるのにも拘わらず「努力」が理解を生むと思わせるのだが、この「努力」が自己を基点に、働き出すのだ。
これは自我の強化に繋がります。
努力というのは「解放」に向けての努力であるべきなのです。
著作者:霖霖七
この「解放」というのは、力を抜くことです。
ただ、安心して、目の前にある生を受容することで、自分のコントロールが手放された時に、最初から、そうでしかない『リアル』な『生』に自我が消える。
だから認識が働かなくなっているんですね、その瞬間だけは。
全てがひとつである。
空性であるとかいう、話は、この現実と乖離しないのです。
現実のリアルの側が自分を生きているのだから、全体が自分であり、その全体が自分を生きているのは、己というものが実際には、なく、その空の己、実体のない我が、全体とひとつであると表されるわけですね。
たから、これを認識できたら嘘なんです。
たとえば「空」はこれだと認識している人がいます。
想像でもいいです。
それとか「ひとつ」である私を認識しているという人がいます。
そんなことは有りえません!
無というのは、無いんですよ?
無いから無ということです。
無いから無である私を、無我を認識したとは、コレ、如何に?
想像、空想が膨らんで、ある状態を思考の中で構築して、それを体感している気になっているというのは非常に危ういと感じられます。
そういう人が、結構いるように見受けられるのですが、彼ら、彼女らは、空を実体があるもののように思っているのであります。
空の実体は、この目の前の現実です。
絶対に乖離しません。
また、すべてはひとつというのは、無我と同じ意味です。
私の認識が介入できる余地が、ここに、ないのであります。
認識の向こう側が、別次元の心であり、ひとつなる活動体なのです。
だから実際には表現しようがないことなのであります。
表現したら全部「嘘」「仮」の例え話でしか、ありえません。
その例え話で、宇宙と自己は同じであると言ったり、書いたりした人がいるわけです。
これを空想を逞しくして、自我を肥大化させて、想像の中の宇宙の果てが『私』であると認識し、その認識を持ち運んでいると、自我が、そこに投影される。
私が、今まで、肉体だったのが、対象が「宇宙」に変わっただけである。
相変わらずの私の所有物の対象が、宇宙に変わったり、あなたに代わったり、しても、それは諸行無常の内にあるので、必ず、失われます。
数日前に書きましたが「光」があるとき「闇」は存在できないのです。
著作者:LoXsToCkK
だから「闇」が「光」を持ち運んだり、規定したり、想像したり、生きたり、同一化したり、所有したり、理解したり、できない。
光があるとき、闇は必ず消えている。
実際には闇は、なかったからである。
なかったものを表現しようが無いではないか。
○が私であり、その○は心であり、それは思考であり、世界であり、体であり、感情であり、思いである。
この○が私であると認識しているのが、その丸の中に映っている出来事の中に飲み込まれた時に、この○内部の神の風景が、○ごとフットバスのだ。
○がなくなったとき、誰が、そこにいるというのだろうか。
現実という水晶玉に、頭だけ突っ込んでいるのが、あなたなのである。
その水晶玉が、己であると思っているのだが、実体は8割がた、それ以外の次元にいる。
その8割が感情であり、感覚である。
水晶玉の中に、全身が投入された時に、○が認識される。
そして、このリアルなる反映が、あなたに溶け込んだときに、○である水晶玉の外側に、ある神の働きが、ここに最初からあると気がつくのである。
その外側の次元と、目の前の風景が合体したとき、つまり神の意志に己の闇が打ち破られた時に○が消える。
するとワンネスだが、それは、認識されないのである。
実体無き「空」なのだ。
からっぽ、なんですwww
そして、このような空想的な表現が、実際には、頭から生まれているので、実際に、そこの真実を現しているわけではない。
このように、ある、リアルの側が、あなたを存在させ、それを抜けるということは、あなた自体が溶けること、融合することであって、その融合の先を認識すること表現することは、実際に不可能なので、例えであるなら、まだしも、まるで体験を所有しているように感じられる表現を見ると違和感を覚えるのです。
これらは、実際の現実、この、ここである、私から離れてない。
そうでなければ『絶対安心』の境地に立てるわけがないではないか。
って、また考えの世界にいってしまっている「だめま」でした(爆笑)
著作者:PhoTones_TAKUMA
要するに言いたかったのは、心の質を言葉にはできないってことです。
感情で感じるしかないんですね。
今日、試しに載せてみた写真の風景、その印象を感情的に受け取っている、感受しているのが、真の「あなた」ですよ^^
「解放」は感情で感じることで、それは、「緊張」を解くことです。
方法も何も、ないし、持ち運ぶこともできない光。
言い表しようも無い、その『質』は、愛という言葉では規定できないのです。
まあ、僕のブログより写真の方が100万倍リラックスできますね(爆笑)
とりあえず、肩の力が抜けていたら、もう、そのまま悟りです^^ ?
ブログ読者に人気の記事
こんにちは。
今日は午前11時に目覚めました。
相変わらず体調がよくないですが、洗面を、のんびりします。
予想より早く目覚めたので多少気分がいい。
そのあとで座布団を2枚敷いて、座禅を15分間行います。
いつもの如く、連想の流れに、飲み込まれてしまう。
たまにハッ、となって帰るが、また、流されていってしまった。
※ランキング2ヶ所クリックにご協力宜しくお願いします。
↓↓↓↓↓↓↓
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
座禅を終えると、コーヒーを淹れて、読書ですね。
煙草を吸いながら、のんびりと時間をかけて1章だけを読みます。
情報というのも、意識して読まないと、流れていく。
自分は読んでいるつもりでも、機械的に、流れているだけで、何の印象も残らない。
新聞でも、テレビでも一緒ですね。
今日は、どんよりと曇っていて、風が冷たい。
洗濯物が風に揺られている。
右を見るといつもは気にも留めない樹が、真っ白な花を咲かせている。
人間の視界というものは、広がったり、狭まったりする。
いつもと同じ、日常でも、全く違う風景になることもあるのだ。
自分の心、次第である。
で、ブログ更新ですね。
どうも、このような精神世界の話をすると、それを現実逃避だと勘違いされたりする。
つまり目の前にある現実から目を背けて、空想の世界に飛んでいると思われるのだ。
著作者:djandyw.com
例えば、戦争反対である。
そんなことを考えても、現実問題として戦わねばならない。
お釈迦様が自分の祖国が戦争で滅びそうになったとき、3度まで敵の侵攻を防いだ。
3度まで防いで、宿業の避け難きを知り、もう、そのままにしたそうだ。
また、無心に瞑想をしている人が蛇にかまれて、死んでしまった時に、アホなことをする奴だと言ったらしいです(苦笑)
その他にも、托鉢ということをして、御飯をいただいて回っているとき「お前も耕してから食べろ」と農夫に言われて「私も耕してから食べている」と言っています。
別に現実を否定するようなものではないのであります。
バガヴァットギーターのアルジュナの話を読めば、感動しますが、あの時、クリシュナは「アルジュナよ、今は、戦うときなのだ」と教えています。
そうして、眼前の敵が、もう既に、神に飲まれている映像を見せるのです。
私は死なない、あなたも死なない、などと書くと、そんなアホな!
あの人も、この人も、苦しんで亡くなってしまったではないかと、何を現実逃避しとるんじゃお主は~と思われる。
そうではなくて、死というものは、生があって初めてあるものである。
死があったら、もう、既に、あなたは生きていないのだから、私やあなたは死を見ることなどできようはずもない。
生きているからこそ、死があるのであって、それを見るのだ。
当たり前の話である。
昔、楠木正成が最後の戦いに赴くとき、必ず死ぬことが分かっていたので迷った。
禅僧に生死の決意とは如何に?
禅僧「喝!!!」
で、そのまま戦地に駆けて、見事に散ったそうである。
生きることに目を背ける話しではなくて、ここに、生きることの話なのです。
迷いが取れれば、それで、そこにいるしかない。
「いまここ」に存在している以外に、どこにも生き様がないんですね。
そういう大きな流れの中での話を学んでいるのであって、自分が、現実を消去したり、自分を消去したりという、そんなことではないんです。
「あるがままに」というのは、もう、みんな既に「あるがまま」でしかない。
このように事が運んで、それを認識したときには、もう過ぎ去っているんだから、どう転んだって神の流れの中にしかいないわけです。
だから苦行は無駄、修行は無駄であるとなる。
しかし、今度は、そこのところが、また考えから評価して、それならば、何もしないというのは、ずーっと寝転んでいることかと思う人がいるわけです(爆笑)
何もしないというのは、何もできようがないということですよ!?
著作者:Igor Menezes - Photographer
どうしようもない。
どうしようもない現実に対して「迷い」があるわけでしょう。
その「迷い」は「迷っている」から迷いがあるwww
だから「喝!!!」で終わる。
目の前の眼前の風景に自己を生きるしか、ないのは、修行したからではなく、最初から、そこにしか生きてないんですよ。
最初から最期まで、絶対に、そこは踏み外されないからこそ真理なんですね。
真理というのは、あの人は真理を所有しているけど、この人には真理がないなんていう、差別が全くないことのことなんです。
だから、考え方を弄っても、気がつくわけがない。
ただリラックスして頭の世界を抜ける。
抜けるというのは、ここに帰ってくることであります。
だから空想世界に飛ぶということは、全く、反対のことのはずなのです。
天が心であると書くと、それが、もう、空想を呼んでしまうわけですが、その天は心であるということは思念の世界にはないんです。
実際に目を空に向けた『天』、つまり宇宙の果てが、実際にある自分の心である。
頭の中で生成するわけじゃないですよ?
そのようにあるのは修行したからでもないですよ。
誰でも、全員、みんな、最初から、そのものでしかないことなのです。
例えば、前にも書きましたが理解させよう、できるようにさせようというのは、これは、どんなことになるでしょう?
もう既に、そうである、他者に、そうではないと思わせる。
自分が、もう、すでに自然の働きの中にあるのにも拘わらず「努力」が理解を生むと思わせるのだが、この「努力」が自己を基点に、働き出すのだ。
これは自我の強化に繋がります。
努力というのは「解放」に向けての努力であるべきなのです。
著作者:霖霖七
この「解放」というのは、力を抜くことです。
ただ、安心して、目の前にある生を受容することで、自分のコントロールが手放された時に、最初から、そうでしかない『リアル』な『生』に自我が消える。
だから認識が働かなくなっているんですね、その瞬間だけは。
全てがひとつである。
空性であるとかいう、話は、この現実と乖離しないのです。
現実のリアルの側が自分を生きているのだから、全体が自分であり、その全体が自分を生きているのは、己というものが実際には、なく、その空の己、実体のない我が、全体とひとつであると表されるわけですね。
たから、これを認識できたら嘘なんです。
たとえば「空」はこれだと認識している人がいます。
想像でもいいです。
それとか「ひとつ」である私を認識しているという人がいます。
そんなことは有りえません!
無というのは、無いんですよ?
無いから無ということです。
無いから無である私を、無我を認識したとは、コレ、如何に?
想像、空想が膨らんで、ある状態を思考の中で構築して、それを体感している気になっているというのは非常に危ういと感じられます。
そういう人が、結構いるように見受けられるのですが、彼ら、彼女らは、空を実体があるもののように思っているのであります。
空の実体は、この目の前の現実です。
絶対に乖離しません。
また、すべてはひとつというのは、無我と同じ意味です。
私の認識が介入できる余地が、ここに、ないのであります。
認識の向こう側が、別次元の心であり、ひとつなる活動体なのです。
だから実際には表現しようがないことなのであります。
表現したら全部「嘘」「仮」の例え話でしか、ありえません。
その例え話で、宇宙と自己は同じであると言ったり、書いたりした人がいるわけです。
これを空想を逞しくして、自我を肥大化させて、想像の中の宇宙の果てが『私』であると認識し、その認識を持ち運んでいると、自我が、そこに投影される。
私が、今まで、肉体だったのが、対象が「宇宙」に変わっただけである。
相変わらずの私の所有物の対象が、宇宙に変わったり、あなたに代わったり、しても、それは諸行無常の内にあるので、必ず、失われます。
数日前に書きましたが「光」があるとき「闇」は存在できないのです。
著作者:LoXsToCkK
だから「闇」が「光」を持ち運んだり、規定したり、想像したり、生きたり、同一化したり、所有したり、理解したり、できない。
光があるとき、闇は必ず消えている。
実際には闇は、なかったからである。
なかったものを表現しようが無いではないか。
○が私であり、その○は心であり、それは思考であり、世界であり、体であり、感情であり、思いである。
この○が私であると認識しているのが、その丸の中に映っている出来事の中に飲み込まれた時に、この○内部の神の風景が、○ごとフットバスのだ。
○がなくなったとき、誰が、そこにいるというのだろうか。
現実という水晶玉に、頭だけ突っ込んでいるのが、あなたなのである。
その水晶玉が、己であると思っているのだが、実体は8割がた、それ以外の次元にいる。
その8割が感情であり、感覚である。
水晶玉の中に、全身が投入された時に、○が認識される。
そして、このリアルなる反映が、あなたに溶け込んだときに、○である水晶玉の外側に、ある神の働きが、ここに最初からあると気がつくのである。
その外側の次元と、目の前の風景が合体したとき、つまり神の意志に己の闇が打ち破られた時に○が消える。
するとワンネスだが、それは、認識されないのである。
実体無き「空」なのだ。
からっぽ、なんですwww
そして、このような空想的な表現が、実際には、頭から生まれているので、実際に、そこの真実を現しているわけではない。
このように、ある、リアルの側が、あなたを存在させ、それを抜けるということは、あなた自体が溶けること、融合することであって、その融合の先を認識すること表現することは、実際に不可能なので、例えであるなら、まだしも、まるで体験を所有しているように感じられる表現を見ると違和感を覚えるのです。
これらは、実際の現実、この、ここである、私から離れてない。
そうでなければ『絶対安心』の境地に立てるわけがないではないか。
って、また考えの世界にいってしまっている「だめま」でした(爆笑)
著作者:PhoTones_TAKUMA
要するに言いたかったのは、心の質を言葉にはできないってことです。
感情で感じるしかないんですね。
今日、試しに載せてみた写真の風景、その印象を感情的に受け取っている、感受しているのが、真の「あなた」ですよ^^
「解放」は感情で感じることで、それは、「緊張」を解くことです。
方法も何も、ないし、持ち運ぶこともできない光。
言い表しようも無い、その『質』は、愛という言葉では規定できないのです。
まあ、僕のブログより写真の方が100万倍リラックスできますね(爆笑)
とりあえず、肩の力が抜けていたら、もう、そのまま悟りです^^ ?