・妻の『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は午後4時ごろに起きてきました。
ちょい曇り空。
「ありがとう」をボツボツと言いながら洗面をします。
この間、姪に「ありがとう」というと良いんだと言っていた。
すると妹が「魔法の言葉」だと言っていたが、そうなのか?w
洗面を終えて、座禅を15分します。
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携帯がなかったので探し回った、笑
妄念フルマックス!
しかし、この状態になるのに、だいぶ期間がかかっているので、よい状態なのだろうか。
スッキリはします。
座禅を終えてコーヒーを淹れて玄関先で読書ですね。
毎日、毎日、一章だけ、仏教の本を読んでいるのだが、なんとも、代わり映えが無いなあと、思います、苦笑
なにしろ、誰が、書いた本でも、一流の人は、みんな『あるがままに』と『沈黙』について書いているのであります。
ここで、この言葉が本来の意味で使われている。
あるがままに、というのは、あるがままでOKということです。
あなたは大丈夫、そのままで、大丈夫、いまの様子で完璧ということです。
あるがままに、あなた、今から、頑張って修行しないさい、そうなるためにということではありません。
そういう感じで使う人がいますが、そうではない。
あるがままは、あるがままでしかなく、それでOK、大丈夫ということですね。
究極を言えば、仏教で一番否定されている、分別。
つまり『他者との比較』をしていても、あなたは、そのままで大丈夫となります(爆笑)
そうある姿で、自然にあって、時期が来れば、自然に『比較』が落ちる。
年齢を重ねれば実が熟して、熟した果実は、落ちるというような自然な姿があるということであります。
沈黙は、手出しをしない、静かにしているということで、これは、あるがままを認めているから、そこからはみ出そうとしていないことですね。
例えば、落ち着きなくイライラしている自分を見て、そこから、それを単に見て、治そうとしないで、受け入れて、静かにしていると、時と共に、また別の落ち着いている自分もいて、また違う時間になれば、違う風景が現れて、延々と諸行無常に起こってくる、連想、感覚、感情、思い、考え、等々に対して、それを「あるがままに見守って」「沈黙」していると言う事です。
手出ししない。
改造しない。
あるがままの、そのものである法の姿が、そこで完璧に流れ出すということであります。
というか、最初から、完璧に、事が運んでいると言う事です。
自分が何かする前に、認識する前に、リアルの側があるのです。
リアルから自己が現じていて、その派生である自己は、自然の一部なのです。
って読書の話しが長くなったなあ。
で、戻って、ブログ更新しているわけです。
結局方法は、自分を見ている、見ている自分から、自分が消えて、見られているだけが残るということであります。
自分が消えて、見ているものは、なんと、目の前のリアルの方なのです。
リアルがあって、それが、生きている。
自分を生きているのは、全体であって、その目の前の、世界の側なのですね。
こんばんは。
本日は午後4時ごろに起きてきました。
ちょい曇り空。
「ありがとう」をボツボツと言いながら洗面をします。
この間、姪に「ありがとう」というと良いんだと言っていた。
すると妹が「魔法の言葉」だと言っていたが、そうなのか?w
洗面を終えて、座禅を15分します。
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しかし、この状態になるのに、だいぶ期間がかかっているので、よい状態なのだろうか。
スッキリはします。
座禅を終えてコーヒーを淹れて玄関先で読書ですね。
毎日、毎日、一章だけ、仏教の本を読んでいるのだが、なんとも、代わり映えが無いなあと、思います、苦笑
なにしろ、誰が、書いた本でも、一流の人は、みんな『あるがままに』と『沈黙』について書いているのであります。
ここで、この言葉が本来の意味で使われている。
あるがままに、というのは、あるがままでOKということです。
あなたは大丈夫、そのままで、大丈夫、いまの様子で完璧ということです。
あるがままに、あなた、今から、頑張って修行しないさい、そうなるためにということではありません。
そういう感じで使う人がいますが、そうではない。
あるがままは、あるがままでしかなく、それでOK、大丈夫ということですね。
究極を言えば、仏教で一番否定されている、分別。
つまり『他者との比較』をしていても、あなたは、そのままで大丈夫となります(爆笑)
そうある姿で、自然にあって、時期が来れば、自然に『比較』が落ちる。
年齢を重ねれば実が熟して、熟した果実は、落ちるというような自然な姿があるということであります。
沈黙は、手出しをしない、静かにしているということで、これは、あるがままを認めているから、そこからはみ出そうとしていないことですね。
例えば、落ち着きなくイライラしている自分を見て、そこから、それを単に見て、治そうとしないで、受け入れて、静かにしていると、時と共に、また別の落ち着いている自分もいて、また違う時間になれば、違う風景が現れて、延々と諸行無常に起こってくる、連想、感覚、感情、思い、考え、等々に対して、それを「あるがままに見守って」「沈黙」していると言う事です。
手出ししない。
改造しない。
あるがままの、そのものである法の姿が、そこで完璧に流れ出すということであります。
というか、最初から、完璧に、事が運んでいると言う事です。
自分が何かする前に、認識する前に、リアルの側があるのです。
リアルから自己が現じていて、その派生である自己は、自然の一部なのです。
って読書の話しが長くなったなあ。
で、戻って、ブログ更新しているわけです。
結局方法は、自分を見ている、見ている自分から、自分が消えて、見られているだけが残るということであります。
自分が消えて、見ているものは、なんと、目の前のリアルの方なのです。
リアルがあって、それが、生きている。
自分を生きているのは、全体であって、その目の前の、世界の側なのですね。