豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

虚の中心

2015-04-25 07:24:34 | 読者に人気の記事
・妻の『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。

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おはようございます。

今日は6時10分に起きました豊田です。

千鶴さん「おはよう」

僕「ありがとう」

洗面をしながら「ありがとう」を唱える。

そのあとで座禅15分ですね。

妄念世界であります。



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妄念世界と言うのは、現実の実際を忘れて、過去の記憶や、未来の心配事のイメージ、というのか湧いてくる思念の世界に、完全に没頭している事です。

それと違って考えている、思考を働かせているというのは、今、この場で、何ができるかと考察したり、問題の解決法を意識的に考えたりしている事ですね。

夢が勝手に、展開していくのと、意識的に自己が能動的に、積極的に考えているのは、状態としてぜんぜん違います。

どうも、ここのところ、集中力が足りない。

しかし、そのことを見ている、エネルギーとしての「私」は座禅によって喚起され、そこが普通の無意識での眠りと、僅かに違うのである。


座禅を終えて、コーヒーを淹れて、読書ですね。

悠聖がトイレの前で待機していたので、プレイヤードへ運ぶ。

すると大泣きwww

やっぱり、いやだよねー。


快晴で風も心地よく、いつもより、たくさんの鳥が鳴き、獣の声までしてくる庭で、ごろんとベンチに横になる。

父が作った荷台兼椅子。

ああ、これは、樹のぬくもりがあるのはいい。

鉄の椅子と樹の椅子ではぬくもり感が全然違うなあ。

畳でもそうですが、ぬくもりと言っても、あまったるーい西方のぬくもりとは違って、こう、清々しさも伴う、ほんのりとしている、淡いぬくもり感がある。


こういった感覚が捉えるものと、その感覚の向こうにある虚心は、よく似ている。

どちらも伝えづらいが、お互いに、知っているのだ。

意識的であれば、感じている事が、似てくるという事が文化によってある。


読書を終えると、家へ戻ってブログの更新ですね。


昨日「タオ」の訳された本を見ていたら「虚の中心」という言葉があった。

虚心のことだろう。

この虚心と現実が合成されて、生命があるわけだが、その生命の働きを、記憶が、分断させていくのだ。

記憶というか、自己意識である。

機能としての自己の働きに、たくさんの穢れが着いている。

まあ単純に、心の、悩みがある。

この悩み、煩悩、迷う心が、無くなったら、悟りみたいなものでしょう。


その悩みが無くなるには、自分自身が納得してスッキリすればいいのだ。

誰に確認しても、練習しても、結局は、自分自身が、どうあるかが、肝心であって、この自分が救われたら、他者も大きな影響を受ける。


悩みを無くすには「最初から、こうである」という、本来の、自然の働きを、見て、そこで、小さな己の、計算思考を剥ぐ事である。

計算思考と恐怖心が最大の敵であるが、これも、まあ、あってもいいのだが、そこに認識が、自然の流れとしての、分断されない自己としての、自然の一部としての、認識がなければいけない。

ただ自己を見ている。

見ている自己が開放される。

この2段階だけである。