・妻の『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
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おはようございます。
今日は6時10分に起きました豊田です。
千鶴さん「おはよう」
僕「ありがとう」
洗面をしながら「ありがとう」を唱える。
そのあとで座禅15分ですね。
妄念世界であります。
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妄念世界と言うのは、現実の実際を忘れて、過去の記憶や、未来の心配事のイメージ、というのか湧いてくる思念の世界に、完全に没頭している事です。
それと違って考えている、思考を働かせているというのは、今、この場で、何ができるかと考察したり、問題の解決法を意識的に考えたりしている事ですね。
夢が勝手に、展開していくのと、意識的に自己が能動的に、積極的に考えているのは、状態としてぜんぜん違います。
どうも、ここのところ、集中力が足りない。
しかし、そのことを見ている、エネルギーとしての「私」は座禅によって喚起され、そこが普通の無意識での眠りと、僅かに違うのである。
座禅を終えて、コーヒーを淹れて、読書ですね。
悠聖がトイレの前で待機していたので、プレイヤードへ運ぶ。
すると大泣きwww
やっぱり、いやだよねー。
快晴で風も心地よく、いつもより、たくさんの鳥が鳴き、獣の声までしてくる庭で、ごろんとベンチに横になる。
父が作った荷台兼椅子。
ああ、これは、樹のぬくもりがあるのはいい。
鉄の椅子と樹の椅子ではぬくもり感が全然違うなあ。
畳でもそうですが、ぬくもりと言っても、あまったるーい西方のぬくもりとは違って、こう、清々しさも伴う、ほんのりとしている、淡いぬくもり感がある。
こういった感覚が捉えるものと、その感覚の向こうにある虚心は、よく似ている。
どちらも伝えづらいが、お互いに、知っているのだ。
意識的であれば、感じている事が、似てくるという事が文化によってある。
読書を終えると、家へ戻ってブログの更新ですね。
昨日「タオ」の訳された本を見ていたら「虚の中心」という言葉があった。
虚心のことだろう。
この虚心と現実が合成されて、生命があるわけだが、その生命の働きを、記憶が、分断させていくのだ。
記憶というか、自己意識である。
機能としての自己の働きに、たくさんの穢れが着いている。
まあ単純に、心の、悩みがある。
この悩み、煩悩、迷う心が、無くなったら、悟りみたいなものでしょう。
その悩みが無くなるには、自分自身が納得してスッキリすればいいのだ。
誰に確認しても、練習しても、結局は、自分自身が、どうあるかが、肝心であって、この自分が救われたら、他者も大きな影響を受ける。
悩みを無くすには「最初から、こうである」という、本来の、自然の働きを、見て、そこで、小さな己の、計算思考を剥ぐ事である。
計算思考と恐怖心が最大の敵であるが、これも、まあ、あってもいいのだが、そこに認識が、自然の流れとしての、分断されない自己としての、自然の一部としての、認識がなければいけない。
ただ自己を見ている。
見ている自己が開放される。
この2段階だけである。
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千鶴さん「おはよう」
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洗面をしながら「ありがとう」を唱える。
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それと違って考えている、思考を働かせているというのは、今、この場で、何ができるかと考察したり、問題の解決法を意識的に考えたりしている事ですね。
夢が勝手に、展開していくのと、意識的に自己が能動的に、積極的に考えているのは、状態としてぜんぜん違います。
どうも、ここのところ、集中力が足りない。
しかし、そのことを見ている、エネルギーとしての「私」は座禅によって喚起され、そこが普通の無意識での眠りと、僅かに違うのである。
座禅を終えて、コーヒーを淹れて、読書ですね。
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すると大泣きwww
やっぱり、いやだよねー。
快晴で風も心地よく、いつもより、たくさんの鳥が鳴き、獣の声までしてくる庭で、ごろんとベンチに横になる。
父が作った荷台兼椅子。
ああ、これは、樹のぬくもりがあるのはいい。
鉄の椅子と樹の椅子ではぬくもり感が全然違うなあ。
畳でもそうですが、ぬくもりと言っても、あまったるーい西方のぬくもりとは違って、こう、清々しさも伴う、ほんのりとしている、淡いぬくもり感がある。
こういった感覚が捉えるものと、その感覚の向こうにある虚心は、よく似ている。
どちらも伝えづらいが、お互いに、知っているのだ。
意識的であれば、感じている事が、似てくるという事が文化によってある。
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昨日「タオ」の訳された本を見ていたら「虚の中心」という言葉があった。
虚心のことだろう。
この虚心と現実が合成されて、生命があるわけだが、その生命の働きを、記憶が、分断させていくのだ。
記憶というか、自己意識である。
機能としての自己の働きに、たくさんの穢れが着いている。
まあ単純に、心の、悩みがある。
この悩み、煩悩、迷う心が、無くなったら、悟りみたいなものでしょう。
その悩みが無くなるには、自分自身が納得してスッキリすればいいのだ。
誰に確認しても、練習しても、結局は、自分自身が、どうあるかが、肝心であって、この自分が救われたら、他者も大きな影響を受ける。
悩みを無くすには「最初から、こうである」という、本来の、自然の働きを、見て、そこで、小さな己の、計算思考を剥ぐ事である。
計算思考と恐怖心が最大の敵であるが、これも、まあ、あってもいいのだが、そこに認識が、自然の流れとしての、分断されない自己としての、自然の一部としての、認識がなければいけない。
ただ自己を見ている。
見ている自己が開放される。
この2段階だけである。