・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
おはようございます。
本日は6時15分ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんの見た夢の話で笑う。
誰かのお笑い芸人の顔がアップに映った瞬間に、プチッとテレビを消す悠聖w
それから、とりあえず洗面をします。
千鶴さんはイヤホンを探していて、見つかったら「いまから、瞑想タイムやで静かにしてな!」
何をしているのかと思って、見たら、ブログの更新をしていた。
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うーむ、中々、がんばっておられます。
その姿を通り越して、座禅15分に入りますね。
眠らないように意識するようになってから、考えの世界に入らないことが、多くなってきました。
が、今度はリラックスするのが、難しくなっている。
リラックスすると妄念世界だし、意識的になると、ある程度、堅くなってくるとは、どうしたらいいのだろうか(苦笑)
座禅を終えてコーヒーを淹れて読書です。
煙草も吸いながら、庭を眺めて、至福の時間ですね。
で、戻ってブログの更新をしています。
よく菩薩行とか、人の立場に立つとか、互いに愛し合いなさいとあります。
宗教の基本は社会に『平和』を齎すことだと思うので、当たり前ですが、これは究極に難しいことのようです。
他人様の為に行いを正すというのは、もう、完成された人間だけが、できる。
簡単なことから始めなさいとグルジェフさんは言います。
まずは、植物や動物を愛して、面倒を見てみる。
とか、そういう、反抗の無い対象を選ばないと、難しい。
人間の場合は、思いっきり、煩悩(迷い、怒り、欲)がありますから、ここで、愛を実践するには、本気で自分が捨てられた人でなければ無理です。
僕は、そこへ行ける自信は、ありません(爆笑)
ダライラマも書いてますが「思いやり」こそ仏教でも、まあ神道でも、キリスト教でも、究極の完成した人間の資質でしょう。
相手を思いやるには、自分が、ある程度、大人になることが必要なのではないだろうか。
『迷い』に支配されている人には、今の瞬間に目を向けさせる。
『怒り』に支配されている人には、出来事の愚痴を聞いてあげる。
『欲望』に支配されている人には、刺激が苦しみを生むことを理解させる。
のが、いいと思うのだが、自分が、この煩悩に支配されているので、同じ煩悩を見せる他者に対して、大いに、怒ってしまうのだ、笑
これは、自分も相手も、ある程度、離れてしまって、心の感性の側で、生きる訓練をしないと不可能だろうと思われる。
それをグルジェフさんは、自己同一化の解除としたのだろう。
自己同一化の解除をするには、自己ではないところで、生きなくては成らない。
それは、心の質の側である。
この、心の質が、目の前の現実と乖離しない。
というか、どちらもが、夢幻の如くに、本来の面目の活動に、溢れている。
ここに行くこと、如来でいること、そのままで在ること、そして、その神の働きを信頼して、自己を手放すこと。
この手放している態度が、日常に持ち込まれたとき、深い、静粛が心に生まれ、その無心、虚心が、事実の目の前に慈悲を垂れるのである。
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おはようございます。
本日は6時15分ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんの見た夢の話で笑う。
誰かのお笑い芸人の顔がアップに映った瞬間に、プチッとテレビを消す悠聖w
それから、とりあえず洗面をします。
千鶴さんはイヤホンを探していて、見つかったら「いまから、瞑想タイムやで静かにしてな!」
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その姿を通り越して、座禅15分に入りますね。
眠らないように意識するようになってから、考えの世界に入らないことが、多くなってきました。
が、今度はリラックスするのが、難しくなっている。
リラックスすると妄念世界だし、意識的になると、ある程度、堅くなってくるとは、どうしたらいいのだろうか(苦笑)
座禅を終えてコーヒーを淹れて読書です。
煙草も吸いながら、庭を眺めて、至福の時間ですね。
で、戻ってブログの更新をしています。
よく菩薩行とか、人の立場に立つとか、互いに愛し合いなさいとあります。
宗教の基本は社会に『平和』を齎すことだと思うので、当たり前ですが、これは究極に難しいことのようです。
他人様の為に行いを正すというのは、もう、完成された人間だけが、できる。
簡単なことから始めなさいとグルジェフさんは言います。
まずは、植物や動物を愛して、面倒を見てみる。
とか、そういう、反抗の無い対象を選ばないと、難しい。
人間の場合は、思いっきり、煩悩(迷い、怒り、欲)がありますから、ここで、愛を実践するには、本気で自分が捨てられた人でなければ無理です。
僕は、そこへ行ける自信は、ありません(爆笑)
ダライラマも書いてますが「思いやり」こそ仏教でも、まあ神道でも、キリスト教でも、究極の完成した人間の資質でしょう。
相手を思いやるには、自分が、ある程度、大人になることが必要なのではないだろうか。
『迷い』に支配されている人には、今の瞬間に目を向けさせる。
『怒り』に支配されている人には、出来事の愚痴を聞いてあげる。
『欲望』に支配されている人には、刺激が苦しみを生むことを理解させる。
のが、いいと思うのだが、自分が、この煩悩に支配されているので、同じ煩悩を見せる他者に対して、大いに、怒ってしまうのだ、笑
これは、自分も相手も、ある程度、離れてしまって、心の感性の側で、生きる訓練をしないと不可能だろうと思われる。
それをグルジェフさんは、自己同一化の解除としたのだろう。
自己同一化の解除をするには、自己ではないところで、生きなくては成らない。
それは、心の質の側である。
この、心の質が、目の前の現実と乖離しない。
というか、どちらもが、夢幻の如くに、本来の面目の活動に、溢れている。
ここに行くこと、如来でいること、そのままで在ること、そして、その神の働きを信頼して、自己を手放すこと。
この手放している態度が、日常に持ち込まれたとき、深い、静粛が心に生まれ、その無心、虚心が、事実の目の前に慈悲を垂れるのである。