・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
こんにちは。
本日は13時ごろに起床しました豊田です。
どうにも体調が悪く、千鶴さんに、愚痴を散々言ってしまいました。
ごめんなさい!
そのあとで座禅を50分ですが、途中でトイレに行きたくなって断念。
また再開して、まあ、30分と20分の2回をしました。
体が動く、心が動く、集中力が続かないの3段構えが今日もしっかり見れました、笑
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これは、他の部分が、問題を抱えているんですかね。
本能的な部分が改善されていかないと、どうにも、難しい気がする。
座禅を終えてコーヒーを淹れて読書です。
悠聖が母親の家へ行っていたらしく、戻ってきたので、少しだけ抱っこする。
今日は曇り空だった。
読書を終えてブログ更新のはずが、昨日買って貰った『ポジティブの教科書』(武田双雲)を朗読しているwww
めっちゃいい!
これは久しぶりにヒットしましたね。
こういう優れた人が日本にも、まだまだいるということだなあ。
なんか嬉しくなります。
で、疲れてきたので、止めて、ブログ更新です。
悠聖が「ウャアアアーーー」と甲高い声を出し、千鶴さんが「もう、なんなん?」とイライラした調子で声を出すwww
賑やかで楽しいことです。
いろんなことが起きてきますが、良心というのは、深いこころにある、誠実さ、嘘のない赤裸々な、純粋な、天真爛漫な、自然なこころですね。
この自然な心が宇宙であり、天の意識なのです。
ここのところを解説すると、自分を観察している意識は、体と宇宙の縁、相依性によって、生じているという事です。
そして、その観察主体は、他者の観察主体と分離している。
これが、個性、自我と言われるものですね。
その自我は、実は、その体と宇宙の相違性、他者と自己の関係性が、映し出された、純粋意識の反映だという事です。
この純粋意識に気がつくには、この観照している自我(宇宙と自己の相依性)が、私ではないと気がつくことなのです。
私ではないというのは、なんというか表現が難しいのですが、つまり「思いとしての私」がそこから消えるという事です。
すると、この自己=宇宙が、単なる意識、純粋意識となるのです。
この意識は眠っているときも、起きているときもある、活動ですね。
それで、この意識に気がついても、なぜか、苦しみは取れません。
なぜなら、この意識自体が不安定だからです。
どうして不安定になるかというと、その、意識の中に反映されている事象、主に他者との関係性が、内包されていないからなのです。
そして、ここが、心から生まれていると気がつくことなのですね。
こころの奥に在る真我は、この観照意識(宇宙=自己)と不ニである。
そこの意識が目を覚ますと、ああ、俺か、となるのです(爆笑)
ああ、俺(純粋意識)が、この世界で宇宙で意識で、他者で、自然なのだとなるのですが、それが反転しなくていけない。
この時点で、ほとんどの人が悟ったと自称されます。
この自然の側が、目の前の事実が、これらの意識の変性等々を、超えて、自己を生かしていると気がつく時に、ただ、単純な日常が、心だと、気がつく。
特別な自己が生きていたのではなく、自然の側が、このようになっているのだ。
最初から、皆、自由なのである。
そこに社会(他者)の都合による、洗脳があり、集団的な錯乱が起こっているのだ。
それの顕著な例が、戦争である。
そこを滅するためには、事象や他者が自己であると知る事なのであります。
相手が自分であり、自分が相手なのです。
通常の概念と反対であるのが、事実であって、自己は、それらの自然の働きの総体が現じせしめているものなのです。
自己の背中に他者が生きており、自己の意識に宇宙があり、自己は、その純粋さを意識したなら、この世界は、すべてこころの中、心の反映で、その心は、自然の働きが形成しているのである。
つまり、目の前の印象こそ、自己の本体なのだ。
その印象は、空であり、実体が無く、その実体のない空は、実体的なエネルギーとしての、こころなのである。
これらを全て、考えに入れると、心を純粋にしていることこそが、平和への最大の貢献であるとなります。
純粋な、天真爛漫な、子供のような感性こそが、宝なのです。
それで、敵は『計算思考』と『恐怖心』です。
計算思考と恐怖心のことを、緩衝器とグルジェフさんは言ったのであります。
ですから、これを破壊するには、とても信頼できるものが必要です。
祈りが発動しないと無理なのですね。
だって、そうでなければ、生きているのは、怖いですもんwww
この祈りというのが座禅なのです!
自分を手放している。
つまり、自分で、どうにかしようというのを諦めている。
どうしようもない。
ただ、そこに事象があり、夕陽が落ちている。
そこに感動して、自らが、手放されているときに、認識外の自己が顔を出す。
最初から在る、そこにしか、我々は生きていないのである。
ですから、スピリチュアルで言われているような、在り方の研鑽等々は必要ないのです。
あるがままでOKというのは、あるがままでしか有り得ないということなのです。
努力も修行もいらないのです。
ここにあって、ただ力を抜く事になります。
ただ体の力を抜いて、リラックスする事なのです。
そして、気だけは抜かない。
『力を抜いて、気だけは抜かない』と武田双雲さんが、書いていますが、必要なのは、この態度だけなのであります。
それ以外に、重要な事は、ほとんどないです。
ああ、この、気づきに関してはのお話ですよ。
力を抜くといいますが、もっと細かく言えば、緊張を解くということです。
体が緊張しているのを緩めるという事です。
そして、心と体がゆったりしているなかにピーンと背後から、気が張り巡らされて、集中しているということが、智慧の活動なのです。
こういったことは、とても身近な事で、ああいった大仰な『真我実現』とか『覚醒』とか『自己想起』と言ったことは、誰もが経験があるのです。
それを一部の人が、勘違いして、特別なものにしているだけなのです。
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こんにちは。
本日は13時ごろに起床しました豊田です。
どうにも体調が悪く、千鶴さんに、愚痴を散々言ってしまいました。
ごめんなさい!
そのあとで座禅を50分ですが、途中でトイレに行きたくなって断念。
また再開して、まあ、30分と20分の2回をしました。
体が動く、心が動く、集中力が続かないの3段構えが今日もしっかり見れました、笑
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これは、他の部分が、問題を抱えているんですかね。
本能的な部分が改善されていかないと、どうにも、難しい気がする。
座禅を終えてコーヒーを淹れて読書です。
悠聖が母親の家へ行っていたらしく、戻ってきたので、少しだけ抱っこする。
今日は曇り空だった。
読書を終えてブログ更新のはずが、昨日買って貰った『ポジティブの教科書』(武田双雲)を朗読しているwww
めっちゃいい!
これは久しぶりにヒットしましたね。
こういう優れた人が日本にも、まだまだいるということだなあ。
なんか嬉しくなります。
で、疲れてきたので、止めて、ブログ更新です。
悠聖が「ウャアアアーーー」と甲高い声を出し、千鶴さんが「もう、なんなん?」とイライラした調子で声を出すwww
賑やかで楽しいことです。
いろんなことが起きてきますが、良心というのは、深いこころにある、誠実さ、嘘のない赤裸々な、純粋な、天真爛漫な、自然なこころですね。
この自然な心が宇宙であり、天の意識なのです。
ここのところを解説すると、自分を観察している意識は、体と宇宙の縁、相依性によって、生じているという事です。
そして、その観察主体は、他者の観察主体と分離している。
これが、個性、自我と言われるものですね。
その自我は、実は、その体と宇宙の相違性、他者と自己の関係性が、映し出された、純粋意識の反映だという事です。
この純粋意識に気がつくには、この観照している自我(宇宙と自己の相依性)が、私ではないと気がつくことなのです。
私ではないというのは、なんというか表現が難しいのですが、つまり「思いとしての私」がそこから消えるという事です。
すると、この自己=宇宙が、単なる意識、純粋意識となるのです。
この意識は眠っているときも、起きているときもある、活動ですね。
それで、この意識に気がついても、なぜか、苦しみは取れません。
なぜなら、この意識自体が不安定だからです。
どうして不安定になるかというと、その、意識の中に反映されている事象、主に他者との関係性が、内包されていないからなのです。
そして、ここが、心から生まれていると気がつくことなのですね。
こころの奥に在る真我は、この観照意識(宇宙=自己)と不ニである。
そこの意識が目を覚ますと、ああ、俺か、となるのです(爆笑)
ああ、俺(純粋意識)が、この世界で宇宙で意識で、他者で、自然なのだとなるのですが、それが反転しなくていけない。
この時点で、ほとんどの人が悟ったと自称されます。
この自然の側が、目の前の事実が、これらの意識の変性等々を、超えて、自己を生かしていると気がつく時に、ただ、単純な日常が、心だと、気がつく。
特別な自己が生きていたのではなく、自然の側が、このようになっているのだ。
最初から、皆、自由なのである。
そこに社会(他者)の都合による、洗脳があり、集団的な錯乱が起こっているのだ。
それの顕著な例が、戦争である。
そこを滅するためには、事象や他者が自己であると知る事なのであります。
相手が自分であり、自分が相手なのです。
通常の概念と反対であるのが、事実であって、自己は、それらの自然の働きの総体が現じせしめているものなのです。
自己の背中に他者が生きており、自己の意識に宇宙があり、自己は、その純粋さを意識したなら、この世界は、すべてこころの中、心の反映で、その心は、自然の働きが形成しているのである。
つまり、目の前の印象こそ、自己の本体なのだ。
その印象は、空であり、実体が無く、その実体のない空は、実体的なエネルギーとしての、こころなのである。
これらを全て、考えに入れると、心を純粋にしていることこそが、平和への最大の貢献であるとなります。
純粋な、天真爛漫な、子供のような感性こそが、宝なのです。
それで、敵は『計算思考』と『恐怖心』です。
計算思考と恐怖心のことを、緩衝器とグルジェフさんは言ったのであります。
ですから、これを破壊するには、とても信頼できるものが必要です。
祈りが発動しないと無理なのですね。
だって、そうでなければ、生きているのは、怖いですもんwww
この祈りというのが座禅なのです!
自分を手放している。
つまり、自分で、どうにかしようというのを諦めている。
どうしようもない。
ただ、そこに事象があり、夕陽が落ちている。
そこに感動して、自らが、手放されているときに、認識外の自己が顔を出す。
最初から在る、そこにしか、我々は生きていないのである。
ですから、スピリチュアルで言われているような、在り方の研鑽等々は必要ないのです。
あるがままでOKというのは、あるがままでしか有り得ないということなのです。
努力も修行もいらないのです。
ここにあって、ただ力を抜く事になります。
ただ体の力を抜いて、リラックスする事なのです。
そして、気だけは抜かない。
『力を抜いて、気だけは抜かない』と武田双雲さんが、書いていますが、必要なのは、この態度だけなのであります。
それ以外に、重要な事は、ほとんどないです。
ああ、この、気づきに関してはのお話ですよ。
力を抜くといいますが、もっと細かく言えば、緊張を解くということです。
体が緊張しているのを緩めるという事です。
そして、心と体がゆったりしているなかにピーンと背後から、気が張り巡らされて、集中しているということが、智慧の活動なのです。
こういったことは、とても身近な事で、ああいった大仰な『真我実現』とか『覚醒』とか『自己想起』と言ったことは、誰もが経験があるのです。
それを一部の人が、勘違いして、特別なものにしているだけなのです。