これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

電気料金の問題 (その1)

2022-10-22 09:09:53 | 政治
【はじめに】
 日本の電力政策には重大な問題が有ります。❶電気料金が高い、❷夏季と冬季に電気が不足する恐れが有る、❸電気自動車(EV)が普及する様になると電気が不足する、❹古い火力発電所は廃棄されるが、新設は少ない、❺台風や地震の災害が発生した場合の対策など。

 これらの問題について、2回に分けて投稿します。 今回は、主要国の電気料金と発電量について書きます。

【電気料金の国際比較】
 先進6カ国の2019年の電気料金を以下に示します。出典は資源エネルギー庁のホームページ『日本のエネルギー 2021年度版 「エネルギーの今を知る10の質問」』です。

 各国とも、家庭用よりも産業用の方が安く設定されています。アメリカの電気料金は非常に安いです。 (アメリカの電気料金に税金が掛かるのか?は不明です。)

 日本の電力会社が「発電/供給に必要だと主張するコスト(本体価格)」は、6カ国中で最も高いです。

 ウクライナ戦争が勃発して、原油や天然ガスの価格が大幅に上昇しているので、今年(2022年)から各国の電気料金は大幅にアップすると予想します。 2020年、フランスは原子力発電で67.4%の電力を得ていたので、ウクライナ戦争の影響は少ない様に思えますが、原子力発電所のメンテナンス費用がアップしてきたので、ウクライナ戦争以前からフランスでは電気料金が上昇しています。

・・・ 家庭用電気料金 ・・・2019年
★ 日本  :25.4米セント/kWh(内税金=8.7%)・・・本体価格=23.1米セント/kWh
★ アメリカ :13.0米セント/kWh(内税金=0%?)
★ イギリス :23.4米セント/kWh(内税金=4.7%)
★ フランス :19.9米セント/kWh(内税金=35.2%)
★ ドイツ  :33.4米セント/kWh(内税金=53.3%)・・・本体価格=15.6米セント/kWh
★ イタリア  :25.6米セント/kWh(内税金=27.3%)

・・・ 産業用電気料金 ・・・2019年
★ 日本  :16.4米セント/kWh(内税金=1.8%)・・・本体価格=16.1米セント/kWh
★ アメリカ :6.8米セント/kWh(内税金=0%?)
★ イギリス :14.7米セント/kWh(内税金=5.4%)
★ フランス :11.8米セント/kWh(内税金=20.3%)
★ ドイツ  :14.6米セント/kWh(内税金=50.7%)・・・本体価格=7.2米セント/kWh
★ イタリア  :18.5米セント/kWh(内税金=37.8%)

【韓国との比較】
 韓国の電力会社は、半官半民の『韓国電力公社』一社しか有りません。(国が株式の51%を握っています。) 韓国の歴代政府は、昔から採算を度外視して、政策的に電気料金を安く設定してきました。その為に、韓国電力公社は巨額の累積赤字を抱えています。

 兎にも角にも、韓国の電気料金は日本よりも大幅に安いのです。 詳細は、次で検索してみて下さい。

 HANKYOREH(ハンギョレ):『韓国の電気料金、原発大国フランスの半額と安い理由は』・・・2021年12月15日

 最近、円安とウオン安が続いているので、両国の電気料金は上昇すると思われます。文政権では「脱原発」政策でしたが、尹大統領は原発を再稼働させる様です。

 日経新聞の2022年10月12日付け『韓国「安い電気」に転機 資源高・通貨安で17.9%上昇』のデーターで日本と韓国の電気料金を比較してみました。

★ 日本の家庭用 :25.5米セント/kWh
★ 韓国の家庭用 :10.5米セント/kWh

★ 日本の産業用 :16.3米セント/kWh
★ 韓国の産業用 : 9.4米セント/kWh

【発電量と用途別の国際比較】
 各国の発電量と用途の割合を比較すると、色々な事が分かると思います。

❶ 中国の発電量は、2015年の時点で既にアメリカの『1.29倍』になっています。 電力の用途で見ると、中国は異常に工業用が多く、逆にアメリカは少ないです。 従って、中国が多量の工業製品を製造している事が分かります。正に、『世界の工場』になっているのです。

・・・ アメリカと中国の工業で使用される電気 ・・・2015年
  アメリカ :(37,808億kWh)✕0.21≒ 9,940億kWh
  中国   :(48,768億kWh)✕0.66≒32,190億kWh

❷ 内需依存型の国(アメリカ、日本、フランス、イギリス)は電力消費の工業用の割合が低く、逆に外需依存型の国(中国、韓国、ドイツ)は工業用の割合が高くなっています。

・・・ 発電量と用途 ・・・2015年
★ 日本  :発電量≒ 9,492億kWh、家庭≒28%、工業≒32%、オフィス等≒40%
★ 韓国  ;発電量≒ 4,953億kWh、家庭≒13%、工業≒53%、オフィス等≒34%
★ アメリカ :発電量≒37,808億kWh、家庭≒37%、工業≒21%、オフィス等≒42%
★ カナダ  :発電量≒ 5,031億kWh、家庭≒34%、工業≒33%、オフィス等≒33%
★ イギリス  :発電量≒ 3,029億kWh、家庭≒36%、工業≒30%、オフィス等≒34%
★ フランス :発電量≒ 4,249億kWh、家庭≒36%、工業≒25%、オフィス等≒39%
★ ドイツ  :発電量≒ 5,147億kWh、家庭≒25%、工業≒44%、オフィス等≒31%
★ イタリア  :発電量≒ 2,875億kWh、家庭≒23%、工業≒39%、オフィス等≒38%
★ 中国  :発電量≒48,768億kWh、家庭≒15%、工業≒66%、オフィス等≒19%
★ インド   :発電量≒10,269億kWh、家庭≒24%、工業≒44%、オフィス等≒32%
★ ロシア  :発電量≒ 7,263億kWh、家庭≒20%、工業≒45%、オフィス等≒35%
出典 :一般社団法人・海外電力調査会;主要国の消費電力量の部門別構成(2015年)

(余談 :ロシアの工業力) ウクライナ戦争で、最近、「ロシアは新しい兵器を製造出来ないために、トンデモナク古い兵器を持ち出してきている」と言う報道が有りました。半導体や工作機械を国産しておらず、経済制裁で輸入が難しくなった事が主な原因の様です。 ロシアの発電量は、アメリカの『19%』日本の『77%』しか有りません。この点からも、ロシアは通常兵器で欧米諸国と戦争する国力が無いのは明らかです。

(余談 :原子力発電) 原子力発電は、『悪』だと言う考え方が多くの国に広がり、日本を含む欧米諸国では新設抑制、廃止の政策を進めてきました。 然し、ウクライナ戦争の勃発で各国は考え方を修正しています。 一方、中国は原子力発電の割合が非常に少なく、今後、原子力発電所を沢山新設すると予想します。日本政府も、より安全な原子力発電所の新設を真面目に検討すべきだと考えます。

官僚について (その2)

2022-01-15 09:12:15 | 政治
【はじめに】
 今回は幕末から明治初期までの改革について書きます。

 先週、幕府の軍事改革について書きましたが、島津斉彬が薩摩藩で西洋技術を研究して富国強兵政策を進めました。明治になって、紀州藩では、たった3年間で藩政と兵制の大改革を断行しました。 やろうと思えば日本人も短時間に大改革が出来るのです! 「現在は選挙の有る民主主義国家だから、島津斉彬や紀州藩の津田出の様な事は出来ない!」と政治家や官僚は言ってはいけません。

【薩摩藩の改革】
 長州藩は尊王攘夷の急進派が主流になっていましたが、1863年に伊藤博文ら5人がイギリスに留学しました。イギリスの国力を見て「攘夷などはトンデモナイ」と気付き、伊藤博文と井上馨は急遽・64年に帰国しました。伊藤博文の奔走も空しく、連合艦隊を砲撃しました。・・・下関戦争→その後、長州は攘夷思想から脱却出来たのだと思います。

 1851年に島津斉彬(なりあきら)が薩摩藩主になり、西洋文明/技術を取り入れた富国強兵政策を始めました。斉彬は尊王攘夷とは真逆の考え方を持っていました。 幕府と協力して富国強兵を図ろうとしたのです。 そして、小禄の西郷隆盛を重用しました。

 58年に斉彬が急逝した為、斉彬の異母弟の久光(忠教)の長男・忠義(18歳ほど)が藩主になりました。父・久光が薩摩藩の実権を握りました。久光は斉彬が始めた改革を進めました。小禄の大久保利通等々を抜擢して、薩摩藩が幕末を主導する元を作ったのです。 1862年には、寺田屋に集結していた尊王攘夷派の薩摩武士を殺害しました。これが、第1回目の寺田屋事件です。

 当初の久光の考え方は「雄藩連合・公武合体」でしたが、幕府に見切りを付けて「鳥羽伏見の戦い」→「戊辰戦争」を断行しました。

 そして、明治新政府では薩摩藩出身者が沢山活躍する事になったのです。①西郷隆盛、②大久保利通、③小松帯刀(1870年歿)、④寺島宗則、⑤川路利良、⑥大山巌、⑦東郷平八郎、⑧黒田清隆、⑨松方正義、⑩五代友厚・・・

★ 藩主=斉彬 :1851年~58年
★ 国父=久光 :1858年~
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)

(注記 :寺田屋事件) 寺田屋事件は2回有りました。2回目が、1866年に幕府の伏見奉行が坂本龍馬を襲撃した事件です。67年に坂本龍馬が暗殺されたのは近江屋事件です。

(注記 :小松帯刀) 小松帯刀は、幕末から明治初期に活躍しましたが、高禄の武士でした。5,500石の肝付家の四男で、後に2,600石の小松家の養子になりました。

【戊辰戦争と銃】
 歴史が大転換する時には、戦争のやり方や武器の進歩が関係します。それで、私は若い頃から武器の進歩に興味が有りました。幕末から戊辰戦争までは、欧米で銃の目覚ましい進歩が有りました。日本にも種々の銃が入ってきました。戊辰戦争では新旧・様々な銃が使用されました。

 一方、新島八重にも興味があり、NHKの大河ドラマは殆ど見ないのですが、2013年の『八重の桜』は見ました。会津若松城籠城戦のシーンで八重が使用していた銃が、アメリカで1860年~69年に製造されたスペンサー騎兵銃です。射程距離は180m程しか有りませんが、7連発式で一分間に20発以上撃てる最新の銃だったのです。この銃は幕府軍の一部が採用しましたが、高価だったのと、銃弾の国産化が出来なかった等の理由で主流にはなりませんでした。

 戊辰戦争では、東北の藩では火縄銃も使用した様です。先込め銃/元込め銃、ライフル有り/無し、ほとんど単発銃でしたが連発銃も使用され、射程距離も様々な銃が使用されました。銃の見本市の様な戦いでした。

【明治新政府の問題点】
 新政府には2つの重大な問題が有りました。❶金が無かった、❷手前の(自分の)軍隊を持っていなかった。金は徳川家の領地の大半を没収して、豪商から支援を受けるなどの工夫をしましたが、十分とは言えませんでした。→→廃藩置県が必要だったのです。

 自前の軍隊を持つ事については、長州は『徴兵制の軍隊案』でしたが、薩摩は『武士を主体にした、各藩の藩兵を新政府に差し出す案』でした。両藩の話し合いは決着しませんでした。

 明治2年(1869年)から下に述べる紀州藩の改革が始まりました。西郷隆盛は、弟(後の西郷従道)に紀州藩の近代的な軍隊を視察させました。その後、薩摩藩は『徴兵制の軍隊案』に同意して、1873年に徴兵令を布告しました。

★ 1869年(明治2年) :版籍奉還
★ 1870年(明治3年) :各藩が持つべき軍隊の規模(常備定員)を指示した。
★ 1871年(明治4年) :薩摩・長州・土佐の兵(≒6,000名)を新政府の支配下に置いた。・・・新政府が軍隊を持ったのです。
★ 1871年(明治4年) :廃藩置県
★ 1872年(明治5年) :紀州藩の軍隊は新政府の命令で解散し、歩兵一大隊と砲兵一大隊が政府軍に入りました。
★ 1873年(明治6年) :徴兵令

【徴兵制は武士身分の廃止を意味しました】
 徴兵制の軍隊にする事は、世襲/家柄による武士の制度を根本的に破壊する事を意味します。(徴兵制で集められた兵隊は、世襲では無くて、任期が終わると”お役御免”になります。)

 江戸時代には戦争になると、(武士の)当主が石高によって決められた陪臣を伴って参戦する事になっていました。然し、幕末には、刀、槍、火縄銃を持って参戦する時代では無くなっていました。

 戊辰戦争で西洋式の軍隊の威力を実地で学んだのだと思われます。西洋式軍隊とは、同じ銃を持った兵隊達が沢山いて、その上に指揮官がいる軍隊です。幕府も各藩でも、武士の禄高と家格(かかく)が細かく分かれていて、身分差が有りました。 西洋式軍隊では、兵隊は同等でなければなりません。 兵隊達の間で、「俺は直参だが、お前は陪臣だ!」、「俺の禄高の方が10石多いい!」などと威張る事は許されません。

【紀州藩の改革】
 明治政府が統一国家を想像以上にスンナリと樹立出来たのは、❶廃藩置県を断行した、❷政府の政策を全国で実施する行政組織を作った、➌近代兵器を装備した軍隊を創設した・・・などを短期間に実行した事が要因だったと思います。

 最初に近代国家の有り方を考えて実行したのは、薩長土肥の武士達では有りません。紀州藩だったのです。 紀州藩は御三家の一つでしたから、徳川幕府が崩壊して難しい立場になってしまいました。新政府から三回多額の金(合計16万両ほど)を要求され、存亡の危機に有りました。 新政府に恭順を示すと同時に、1968年(明治元年)に津田出(いずる)に命じて藩政の改革案を検討させました。

 津田出は、紀州藩出身の勤王の志士だった陸奥宗光に❶郡県制度、❷徴兵制度などの改革案を伝えました。陸奥は1869年に新政府に「廃藩置県の意見書」を提出しましたが、受け入れられませんでした。 それで、陸奥は官職を辞して紀州に帰り、津田と藩政改革に着手したのです。

 武士の家禄を90%カットして金を捻出し、身分によらない徴兵制を採用し、プロイセン王国式の軍隊を創設しました。武士の特権の一つで有った『武力』を、徴兵制による近代的な軍隊に変えたのです。

 1869年(明治2年)から改革を始めました。初年度の徴兵は、職を失う武士の子弟を救済する為に実質的に応募兵制にし、翌年から身分を問わない(四民平等の)徴兵制が実施されました。

 1870年3月時点には、常備兵7,311人、馬260頭も有りました。(1873年の日本陸軍の常備兵は46,350人でした。) たった2年で、歩兵6連隊、騎兵大隊、工兵隊、輜重(しちょう)隊(輸送が任務)、兵学寮(兵隊の学校)、病院、火薬兵器司を設けた、本格的な軍隊を整備したのです。

 1871年(明治4年)に新政府の命令で軍隊を解散しました。翌年、歩兵一大隊(600名)と砲兵一大隊(300名ほど)が政府軍に入りました。

 津田出は、藩士に藩財政が逼迫している事実を明確に示しました。 家禄を1/10にカットされた藩士達には、登城する必要が無い、内職/アルバイトの自由、移転の自由、農民/商人/職人になる自由を与えました。(「家禄の10%の金を毎年支給するから、自分達で何とか仕事を見つけて、生きてくれ」と言ったのです。)

 江戸時代の各藩では、藩の支出は「藩主の生活費」と「武士達の給料、行政費」が区別されていませんでした。 紀州藩は、藩主に渡す分を明確に区別し、藩から月給を貰う様な形態にしたのです。そして、今で言う『役人』が藩の行政を行う様に変更しました。従来の世襲では無く、役人の人材登用にも力を入れました。

(教訓) 紀州藩の改革は、有能で信頼のおける官僚に全権を委任したら、大きな事が出来る事を証明しています。

(余談) 私の故郷は紀州です。平地は少ないですが、魚介類が豊富な海が有り、雨が沢山降るので開墾すれば畑が出来、植林に適した山林が多いいなど、食べるだけだと何とかなります。紀州藩の武士達は家禄を90%もカットされましたが、飢える事無く何とか耐えられたのではと想像します。

 国が大混乱に陥って、就職口が殆ど無くなったとします。 会社が貴方に、「会社が大変な状況になったので、明日から出社しなくて良いが、給料は90%カットする。その代わり、自由にアルバイトし良い。」と言ったとします。紀州藩の武士達は、反乱を起こすことなく、藩命に従ったのです。 私の父は職業軍人でした、終戦の翌年に家族7人で紀州の故郷に帰って、山林と木材の商売をし/山を開墾して何とか生き延びました。

(余談 :紀州藩) 御存じの様に紀州藩は御三家の一つです。石高は55万5千石で、紀伊一国37万石と伊勢の一部17万9千石を支配しました。その一部を付家老の安藤家(紀伊田辺藩)(3万8千石)と水野家(紀伊新宮藩)(3万5千石)が治めました。

【明治維新の富国強兵政策】
 明治維新では、何故?スンナリと封建体制から統一国家に移行出来たのでしょうか?! 幕府と各藩の武士達が『文官僚』と『武官僚』を兼ねていたからだと私は思います。

 幕末の志士達は「尊王攘夷」と言う思想で立ち上がった分けですが、戊辰戦争中に主だった志士達が、「攘夷」なんてトンデモナイ事だと気付いたのだと想像します。 武士には間違いを改める柔軟性が有った様に思います。

 戊辰戦争に勝利した薩長土肥の上級武士達は、(攘夷思想とは真逆に)金を工面して外国人の顧問、教育者、技術者を沢山雇入れて、種々の分野で強力に近代化を推進しました。

 維新後に活躍した為政者(大臣等)と官僚達は高等教育を受けていませんが、以下に示す様に、矢継ぎ早に改革/近代化を進めました。現在の為政者と官僚達はほぼ全員が高等教育を受けていますが❕❕

★ 戊辰戦争 :1868年(明治元年)
★ 廃藩置県 :1871年(明治4年)
★ 東京砲兵工廠 :1871年(明治4年)・・・小銃の製造
★ 貨幣を発行 :1871年(明治4年)
★ 紙幣を発行 :1872年(明治5年)・・・明治通宝(政府が発行した紙幣)
★ 富岡製糸場 :1872年(明治5年)
★ 新橋―横浜間の鉄道 :1872年(明治5年)
★ 横浜にガス会社 :1872年(明治5年)・・・日本初のガス灯が灯りました。
★ 国立銀行 :1873年(明治6年)・・・紙幣発行・・・民営の銀行
★ 大阪―神戸間の鉄道 :1874年(明治7年)
★ 有恒社 :1874年(明治7年)・・・日本で初めて洋紙の生産を行った。
★ 東京帝国大学 :1877年(明治10年)
★ 日本銀行 :1882年(明治15年)・・・紙幣発行
★ 釜石鉱山田中製鉄所 :1887年(明治20年)・・・民営企業
★ 琵琶湖疏水 :1890年(明治23年)・・・琵琶湖の水を京都へ
★ 蹴上(けあげ)発電所 :1891年(明治24年)・・・日本最初の水力発電所

(余談 :石炭) 石炭の採掘は江戸時代から行われて来ました。18世紀の初頭に瀬戸内地方の製塩業者が安価な石炭を使う様になって、石炭の採掘が盛んになったと言われています。長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーと佐賀藩が、1968年に高島炭坑の開発に着手しました。明治時代になって石炭産業は国家として重要になり→→花形産業になりました。

 三井、三菱、住友などの財閥系石炭会社には、東大、九大、北大などから優秀な技術者が集まりました。然し、戦後は斜陽産業になってしまいました。1980年頃・私は、東京の旧丸ビルに本社の有った三菱石炭鉱業(株)を数回訪問して高価な設備を買って頂きました。打ち合わせに数人出られましたが、皆さん旧帝大卒の定年間近の紳士でした。この時は「将来、私も紳士になろう!」と考えたのですが、粗雑な私には無理でした。

【旧態依然とした清朝】
 幕末から明治時代の清朝は、『反面教師』として参考になります。明治になって、日本は国を挙げて近代化/富国強兵政策を進めましたが、清国は旧態依然でした。

 先週・書いた様に、1840年~42年に発生したアヘン戦争では、イギリス軍は10倍以上の清国軍を相手に戦いました。旧式な武器しか持っていなかった清国軍は”こてんぱん”にやられました。 それでも清国は、日本ほどには近代化を行いませんでした。

 アヘン戦争から53年後の1895年(明治28年)に日本と清国が戦いました(日清戦争)。 兵員数では清国の方が約3倍も多かったのですが、海軍力が日本の方が優勢で、日本の陸軍は良く訓練されていた事と近代的な銃と重火器を整備していたので、日本が勝てたのだと私は思います。

・・・ アヘン戦争(1840年~42年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ イギリス軍≒1.9万人(イギリス陸軍≒0.5万人、インド陸軍≒0.7万人、イギリス海軍≒0.7万人)
★ 清国軍≒20万人
● イギリス軍の死傷者=520人(内戦死=69人)
● 清国軍の死傷者≒1.8万人~2万人

・・・ 日清戦争(1895年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ 日本軍≒24万人
★ 清国軍≒63万人
● 日本軍の戦傷病≒0.38万人(内戦死≒1,132人)・・・病死者≒1.2万人
● 清国軍の死傷者≒3.5万人

【アフガニスタンの教訓】
 昨年(2021年)アメリカ軍が撤退したあと、タリバンがアフガニスタンを統治する事になりました。然し、タリバンはゲリラ部隊で、高等教育を受けたメンバーが少なく、文官の経験者は非常に少ないと思われます。更に、タリバン兵には文字の読めない人もいる様です。 「こんな状態で、タリバンは何年掛けて国を運営出来る様になるのか?」私は注目しています。

 国を運営する為には『文官僚』と『武官僚』の両方が必要不可欠です。そして、軍隊は文民統制も不可欠です。旧民主党政権では、『文官僚』と『武官僚』の協力が十分得られ無かったと私は思いました。立憲民主党が国民の支持を拡大する為には、党員達が勉強して官僚と一緒にヤッテイケル事を国民に示す必要が有ります。

 立憲民主党の党首が泉健太氏に代わりましたが、現在の立憲民主党達ではハトポッポの様に詳細な検討もせず/根回もしないで、無責任に「せめて県外」などと発言しそうに私には見えます。

【ミャンマーの教訓】
 官僚を使った国家の統治について考える場合、現在のミャンマーは『反面教師』として貴重です。 国家に金がないから、軍隊に「食糧や金は自分達で何とか工面しろ」と命じたとします。町工場を作ったり、商店を経営して成功すると、大きな工場や大きな店を運営し、外国企業がミャンマーに進出したいと言って来たら「軍と合弁にしろ!」、「賄賂を出せ!」・・・と要求する様になります。

 国家から軍が金を貰わなくてもヤッテイケル様になると、軍が有利な様に憲法を改悪しました。 昨年になって、軍が国家権力を掌握すると、ミャンマーの市民は大変な事になっている事に気付き、反政府運動を始めました。 既に、軍の後ろには中国が付いています。

 いくら国に金が無くても、軍隊に金を稼がせては駄目です。 軍が憲法を改悪しようとした時に、反軍運動を起こすべきでした!  今になっては反軍運動をするのは、「別れる、切れるは芸者の時に言う言葉」の様なものです。 国民の多くが政治に無関心だったら、日本もミャンマーの様になってしまいます。

官僚について (その1)

2022-01-08 09:06:03 | 政治
【はじめに】
 為政者(大臣等)と官僚の役割分担を理解出来ていない政治家がいます。私の独断と偏見ですが、麻生太郎氏が典型的な例だと思います。 麻生氏が財務大臣だった時、主客転倒もはなはだしい『官僚の代弁者』の様に見えました。

 「日本を○○にしたい」、「その為には、××法を△△に変えたい」と言う様な考えを持った政治家が大臣になるべきです。 大臣になったら官僚に考え方を示して、官僚に問題点を抽出して貰い/細部を検討して貰って、法律の制定や改正に着手すべきです。

 大臣に就任したら、それまで考えていなかった問題点について決断が要求されるケースが多々有ると思われます。そんな場合は、その分野に詳しい方や、官僚の意見を聞いて自分なりの判断をしなければなりません。

 野党合同ヒヤリングを見ていると、野党議員が官僚を吊るし上げるシーンが多々有りました。政治家と官僚の関係を全く理解していない議員が多いいのですね! 国を運営する為には、官僚は重要です。現在の日本の官僚制度がどの様にして出来たのか?どんな問題が有るのか?等について、何回かに分けて投稿する事にしました。

【豆知識 :官僚】
 昔は『役人』と呼んでいました。 『官僚』と『官吏(かんり)』は同じ意味です。『官』は上級の役人のことで、『僚』と『吏』は下級役人です。

 小さな組織を運営するケースでは、ボス(A氏)がメンバー(社員)を直接指示して働かせる事が出来ます。 組織(国)が大きくなると、A氏は直属の部下(B1氏、B2氏、B3氏・・・)に基本的方針を伝えます。 B1氏は部下(B11氏、B12氏、B13氏・・・)に具体的な命令を出して、彼らを動かします。

 初期の国家は、ボスも直属の部下も世襲の貴族で、貴族が役人の上層部を独占しました。 国家が更に大きくなり、近隣の国と争う様になると、ボンクラの貴族の役人は役に立たなくなってきます。

 昔の中国では、役人を筆記試験『科挙(かきょ)』で選抜しました。日本では平安時代に科挙制度が導入されましたが、上級の役人は世襲の貴族が独占しました。 換言すると、日本の科挙制度は『僚』や『吏』に相当する役人(下級役人)を登用する制度だったのです。

 中国や朝鮮半島では、科挙を行政を担当する『文官』と軍事を担当する『武官』に分けて行う様になりました。 日本では、武官の採用試験は行われず、世襲の武士集団が誕生し、人数が増加し、力が増大してきましたした。→→鎌倉幕府が誕生し、→→封建制度の国になって行ったのです。

(補足 :封建制度) 王(将軍)の下に諸侯(藩主)がいて、国土を分割して諸侯に与え、与えられたそれぞれの土地を治めさせる制度を『封建制度』と呼びます。鎌倉時代から江戸時代まで、日本は封建制度の国でした。 昔の中国やヨーロッパにも有った制度です。 日本独自な点は、政治の実権を持たない『天皇』が、形式的に将軍の上にいた事です。

(私の造語 :文官僚と武官僚) 官僚のイメージは「省庁に勤める人」で、地方公共団体に務める人は「役人」だと思います。そんな役人の事を『文官僚』、自衛官を『武官僚』と呼んで区別する事にします。

【江戸時代の統治体制と武士】
 『将軍』は、天皇から軍(武士集団)の司令官に与えられた称号です。平安時代から(8世紀から)武士集団が徐々に力を付けて、朝廷の力は衰退してきました。 江戸時代には、朝廷は飾り物の様な存在になり、徳川家は「天皇から唯一認められた武士の統領であるから、諸侯は徳川家に従え」と言う形にして国を治めました。

 徳川幕府の老中は、各藩の家老に相当します。時々、老中の上に大老職を設けました。大老では井伊直弼が有名ですが、井伊家(6人)、酒井家(4人)、土井家(1人)、堀田家(1人)から12人が就任しています。

 将軍と大老や老中の取次役が『側用人』です。江戸時代初期には御近習出頭役と呼ばれ、1680年から側用人制度が始まった様です。複数いた事も有りますが、側用人を置かなかった時代も有ります。大きな権限を有する、重要な職でしたから、高禄の旗本の中から優秀な人材を登用した様です。田沼意次(1719年~88年)は旗本でしたが、側用人になり、大出世して老中・大名になりました。

 徳川幕府には(下に列記する様に)種々の役職が有りました。初期の頃は、役職に就いても給料は上がりませんでしたが、有能な人材を登用する為に、役職手当(役料、足高、役金)を支給する様になりました。 役職によって役高を決めました。勘定奉行の役高は3,000石でしたが、3,000石以上の旗本が就任した時は給料は上がりませんが、2,000石の旗本だと1,000石アップする制度でした。

 皆さん良くご存じの大岡忠相(1677年~1752年)は1,920石の旗本でした。1702年に書院番→→1708年に目付→→1712年に遠国奉行の一つ山田奉行→→1716年に普請奉行→→1717年に江戸町奉行(南町奉行)→→1725年に加増され3,920石→→1736年に寺社奉行(加増され5,920石)に就任しました。

 寺社奉行は譜代大名が就任する事になっていたので、足高分として4,080石加増されて一万石になりました。そして、1748年に一万石の大名(三河国西大平藩)になりました。そして、西大平藩は明治維新まで存続しました。

 徳川幕府には、旗本が5,200名、御家人が17,400名いて、さらに陪臣(旗本や御家人の家来)がいました。幕末の大名の数は、281藩でした。幕末の人口は3,200万人ほどで、武士は220万人ほどだった様です。

① 天皇と貴族
② 将軍
③ (大老)、老中・・・大藩の譜代大名が就任しました。
④ 若年寄 :旗本と御家人の支配・・・小藩の譜代大名が就任しました。
⑤ 側用人 :将軍と老中などの取次役・・・高禄の旗本から登用されました。
⑥ 郡方奉行の下に郡代(支配地 10万石以上)と代官(5~10万石)・・・直轄地の支配
⑦ 大目付 :大名や朝廷などの監視・・・高禄の旗本が就任した。
⑧ 目付+徒目付+小人目付 :旗本と御家人の監視、役人の監視/監督
⑨ 奉行
 ★ 寺社奉行 :寺と神社を支配するのが役目で、譜代大名が就任しました。
 ★ 勘定奉行 :幕府の財政と直轄地の支配が担当でしたが、幕末には外交にも関与しました。
 ★ 道中奉行 :五街道の整備/管理、宿場の取り締まりなどなど。
 ★ 町奉行 :単に町奉行と言うのは、江戸に有った北町奉行と南北町奉行を指します。 大阪と京都にも町奉行所がそれぞれ二カ所設けられていました。土地の名前を付けて大阪町奉行(東の御番所、西の御番所)、京都町奉行(東御役所、西御役所)と呼ばれていました。
 ★ 遠国奉行 :重要な直轄地に置かれた。 幕末の遠国奉行には京都町奉行、大阪町奉行、駿府町奉行、長崎奉行、伏見奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、新潟奉行、箱館奉行・神奈川奉行、兵庫奉行が有りました。
 ★ 作事奉行 :建築や修理が仕事。
 ★ 普請奉行 :上水の管理や土木工事が仕事。
 ★ 小普請奉行 :江戸城、寛永寺、増上寺などの建築/管理が仕事。
 ★ 吹上添奉行 :吹上御苑の管理
 ★ 寄場奉行 :石川島の人足寄場を支配するのが仕事。
 ★ 書物奉行 :江戸城内に有った御文庫(紅葉山文庫)の管理と図書の収集などが仕事。
 ★ 腰物奉行 :将軍家の刀などを管理するのが仕事で、罪人を切って試し切りもした。

【江戸時代の役人】
 勿論・武士は世襲で、何も問題を起こさなければ石高も相続出来ました。こんな体制で江戸幕府は約270年間程も存続出来ました。幕府も各藩も、❶ボンクラの武士を重職に任命しなかった、❷外敵の侵入が無かった、➌経済が発展した事で幕藩体制を長く続けられたのだと思います。

 江戸時代に例外的な採用試験が有りました。勘定奉行が支配した勘定所は財政と民政を担当し、重要な職務になって来て、定員を増やしました。勘定所ではボンクラは勤まりません。それで、『筆算吟味』と呼ばれる採用試験をするようになりました。

 「素読吟味」と「学問吟味」と言う試験も有りましたが、役職への登用試験では有りませんでした。江戸時代の官僚は家格(かかく)によって採用されましたが、例外は側用人と勘定方でした。

 幕末には新しい考え方を持った人材が必要になってきました。その典型が勝海舟です。勝家は旗本でしたが、禄高は41石しか有りませんでした。勝海舟の活躍と立身出世の話は、皆さん良くご存じだと思うので省略します。

(豆知識 :旗本と御家人) 一般に旗本の方が御家人よりも高禄ですが、勝家の様に僅か41石しか貰っていない貧乏な旗本もいました。旗本は将軍に拝謁する(会う)事が出来ましたが、旗本は出来ませんでした。

【幕末の幕府の軍事改革】
 イギリス軍(1.9万人)と清国軍(20万人)が戦って、イギリス軍が勝利したと言う情報が日本に伝わって来ました。・・・アヘン戦争

 幕府は海外の情報を入手していたので、欧米諸国の脅威に対処する為に、諸藩に先立って軍事改革に着手しました。1845年に海軍を創設して、49年に和洋折衷の小型の『蒼隼丸(そうしゅんまる)』を作りました。54年には洋式の大型軍艦『鳳凰丸(ほうおうまる)』が建造されました。そして、オランダから蒸気船の咸臨丸(かんりんまる)を購入しました。その後も多数の軍艦と輸送船を建造/購入しました。

 ライフル銃と鉄製の大砲を装備した陸軍を創設しました。大政奉還した年(1867年)の幕府陸軍の兵員数は27,000人ほども有ったので、薩長が連合軍を組織していても、幕府陸軍には勝てなかったと私は思います。

★ アヘン戦争 :1840年~42年・・・イギリスと清国の戦争
★ 幕府海軍 :1845年~69年
★ 黒船来航 :1854年
★ 長崎海軍伝習所 :1855年~59年・・・海軍士官養成機関
★ 咸臨丸(かんりんまる) :1857年・・・オランダ製
★ 関口製造所 :1862年・・・銃の製造(ライフル銃)、後に鉄製の大砲も製造した。
★ 幕府陸軍 :1862年~69年
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)
★ 下関戦争 :1863年、64年・・・長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカと戦った。
★ 滝野川反射炉 :1864年・・・大砲用の鉄を製造
★ 神戸海軍伝習所 :1864年~65年・・・海軍士官養成機関
★ 第一次長州征討 :1864年
★ 第二次長州征討 :1866年

【李氏朝鮮と江戸幕府の比較】
 李氏朝鮮は、文官も武官も筆記試験(科挙)で選びました。江戸時代の日本には科挙制度は無く、役人は世襲の武士でした。単純に考えると統一国家だった李氏朝鮮の方が国家が繁栄しそうに思われますが、現実は真逆でした。 頭脳明晰な人間を上級役人にするだけでは、国家は発展しません。官僚の上に立つ政治家の政策が、国家の繁栄に大きく寄与するのです。

 現在の日本にとって、李氏朝鮮は『反面教師』として重要だと考えます。優秀で志の有る人が大臣になって、不正を行わない官僚の協力を得て国を統治する事が肝要だと思います。

 李氏朝鮮は、1392年の建国以来500年以上に亘って朝鮮半島を支配しましたが、経済は発展せず、停滞してしまいました。徳川幕府は高額の貨幣を発行したりして、全国的に商売が出来る体制を構築したので、経済が発展しました。 巨額の蓄財をした商人が誕生して、明治維新を行う『金』が捻出出来たのです。 李氏朝鮮は銭貨さえ発行せず、物納/物々交換を続けたので経済は停滞してしまったのです。(李氏朝鮮の都市部では中国や日本の銭貨が流通していた様です。)

 李氏朝鮮は統一国家でしたが、江戸時代の日本は封建制度の国でした。江戸幕府が直接統治していたのは全国の僅かな地域でした。それでも、全国で流通する高額貨幣を発行した効果は非常に大きかったのです。 例えば、全国に宿場町が有りましたが、高額貨幣が無かったら旅行が出来ませんから、宿場町は発展出来なかったのです。銭貨だけだったら、ドンナ事になるか?想像して見て下さい。1両(≒13万円)は4,000文(=4貫文≒15kg)だったのです。 10両(≒130万円)持って旅に出る為には、銭貨だと150kgになりますから、二、三頭の馬を連れて行く必要が有ります。

(注記 :1両の質量) 江戸時代に小判は10種類発行されました。1両の質量は4.76匁(=17.85g)~0.88匁(3.3g)です。 10両でも懐(ふところ)に入れられたのです。

 加賀藩が1808年の参勤交代で必要だった費用は片道で5,500両だったと言う記録が有ります。当時流通していたのは『元文小判』で、5,500両は72kgほどですから、馬1~2頭で運べます。5,500両は銭貨だと83トンほどになるので、馬で運ぶ為には1,500頭ほど必要です。

(余談 :恐怖政治の威力) 李氏朝鮮時代、国民は貧しい生活を送り続けましたが、(現在の北朝鮮の様な)連座制による恐怖政治で、500年間も何とか国を統治したのです。 現在の北朝鮮は77年間も連座制による恐怖政治を続けています。北朝鮮の民衆は貧しい生活を余儀なくされていますが、李氏朝鮮時代と同じほど貧しいのだと私には思えます。

 髙英起(コウ・ヨンギ)氏は連日の様に北朝鮮の惨状を報じています。話半分だとしても、志の有る将軍がクーデターを起こすか、民衆が蜂起しそうに思いますが、中国共産党が崩壊して→→韓国が手を差し伸ばさない限り、金王朝は存続すると私は見ています。連座制による恐怖政治の威力を甘く見てはいけません!

(余談 :韓国の時代劇) 妻の友人に韓国の時代劇に填まってしまった方がいます。李氏朝鮮の時代は、庶民は非常に貧しい生活をしており、両班(支配階級)が庶民に略奪を繰り返し、連座制による恐怖政治をしていました。韓国の人達は、宮廷の外での悲惨な庶民の生活を受け入れる事が出来ない様です。その為に、庶民の生活を映像化する時は、現実とは掛離れた物語にする必要が有ります。 (国民の多くが『小中華思想』を持っている韓国では、李氏朝鮮時代の庶民の悲惨な状態を学校で学ぶ事が出来ません。)

★ 統治体制 :日本は封建制度でしたが、李氏朝鮮は統一国家でした。

★ 鎖国政策 :両国とも鎖国政策を取りましたが、日本はオランダ。中国とは限定的な貿易をしました。李氏朝鮮は中国と日本以外には厳格な鎖国政策を守りました。 江戸時代後半になると、薩摩藩などは密貿易をして、ある程度西洋文明(科学/技術)を知る事が出来ました。

★ 独立国家? :日本は独立国家でした。李氏朝鮮は明朝の支援を受けて建国し、清朝になっても属国の状態が続きました。

★ 貨幣経済 :徳川幕府は、重さを一々測らなくてよい高額の硬貨(小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金、一分銀、一朱銀)を発行しました。(銭貨も発行しました。) 高麗の時代には一時期・銭貨を発行しましたが、旨く流通しませんでした。李氏朝鮮の時代には銭貨も発行せず、物納/物々交換の経済を続けたのです。

★ 役人 :李氏朝鮮では科挙で文官と武官を採用しました。 実際の行政を行うには役に立たない儒学の知識を問う難問の試験だった様です。 江戸時代は幕府と各藩には(原則として)文官僚の登用試験は無く、世襲制の武士が行政を担当しました。

★ 治安の維持 :李氏朝鮮では『連座制による恐怖政治』で国民の不満を抑え付けました。両班が庶民を略奪する事件が度々発生した様です。両班の犯罪は『義禁府』が担当する事になっていましたが、両班が庶民から金や物を奪い取る行為は取り締まらなかった様です。貨幣経済が未発達のうえに、両班が略奪したので、豪商が育たなかったのです!

★ 身分制度 :大別すると、厳格な4つの身分があり、1894年まで維持されました。人口の大半は農民でした。 ❶両班(官僚になれる身分)、❷中人(下級役人になれる身分)、➌常人(農・工・商)、➍賎人(農・工・商=公賎と私賎) 賎人は一種の奴隷で、販売される事も有りました。 賎人の最下層を『白丁』と言って、人間として認められていませんでした。僧侶、巫俗(ふぞく=シャーマン)、芸人、娼婦も賎人に含まれていました。

10万円給付とクーポン券 (その2)

2021-12-15 23:24:05 | 政治
【はじめに】
 今週になって、岸田首相はあっさりと10万円全てを現金で給付しても良いと、方針転換しました。松野官房長官のメンツは丸潰れで、可哀そうでしたが、「恥をかくのも給料のうちだ!」と我慢しましょう!

 皆で大きな声を上げたら、政治家を動かす事も出来るのですね! 頑固だった安倍晋三氏は、『安倍のマスク』の配布を撤回しませんでした。安倍のマスクは沢山余ってしまって、現在でも(税金を使って)民間の倉庫会社で大切に保管しているそうです。

【朝令暮改は美徳か?!】
 「朝令暮改をしてはいけない」と言うのが日本人が大事にしてきた教えの一つです。 然し、岸田文雄氏の様に、思い付きで喋ってしまうタイプの人間は、誤りに気が付いたら(直ぐに)訂正発言をする方が良いと思います。

 岸田首相の周りには優秀なスタッフがおられると想像します。そして、岸田首相はスタッフの話しに耳を傾けられる方の様です。今回のクーポン券騒動では、スタッフの意見を取り入れて方針を大幅に変更したのだと類推します。岸田首相にとっては『朝令暮改は美徳』と言えると思います。

(余談) 昔、ある機械を設計・製造・販売していた、社員200名程の組織で働いていました。製造部隊は播州のトンデモナク広い敷地の一角に専用の建物が有り、K工場と呼んでいました。その組織の長が工場長(T氏)でした。

 T氏は誰の意見も聞く人では有りませんでした。T氏が工場長に就任した時、「朝令暮改は美徳である!」と言われ、朝令暮改を連発されました。

 60名ほどの設計担当者を集めて、思い付きのバカげた指示を何回も!何回も!出しました。 金正恩の周りでは、老人達が必ずノートと筆記具を持って、メモを取っています。 同期のO氏と私以外は、必ずノートと筆記具を持って、頷きながら熱心にメモを取っていました。現在の北朝鮮の様な雰囲気でした。

 東京勤務だった私に、夕方・T氏から「明日朝一に皆に訓話するから、お前も来い」と電話が有りました。着替えを持たずに新幹線に乗りました。朝一から待ちましたが訓話は始まりません。女性社員達も夜の9時頃まで待っていましたが、管理職の一人が「今日は無い」と言って回りました。

 結局二晩、ビジネスホテルに泊まって帰ったのですが、新幹線の中で「無駄な出張だったから、何かしよう」と考えて禁煙することに決めました。365日間禁煙しました。 そんな分けで、今でも良く覚えているのです。

【私の間違い】
 私は、「国がどこでも使えるクーポン券を印刷して市町村に配布するのだ」と勘違いしていました。 明確に書いた記事は見つかりませんが、市町村が(多分)その域内でのみ通用するクーポン券を印刷する事になっている様です。 お詫びします。

 特殊なインクを用いたりして、偽物を防止出来る印刷技術を有する企業は全国に沢山は無い様ですから、クーポン券案に固守していたら大混乱になっていたと想像します。

10万円給付とクーポン券

2021-12-11 09:50:16 | 政治
【はじめに】
 与党の国会議員と市町村長は地元の商店街に足を運んで、「現金給付が良いか? クーポン券の方が良いか?」聞いて見るべきだと思います。私は昨日・大型の酒の廉売店に行ったので、店員に聞いて見ました。

 「ここは東大阪で、前の道の向こうは大阪市です。大阪市は現金給付らしいけど、東大阪は多分クーポン券になる!」と諦め顔で言いました。「大阪市が現金給付すると、まだ決まって無い様です」と慰めました。

(注記) 既に、多くの店ではスマホ決済かクレジットカードで取引しています。 クーポン券は時代遅れの発想です。

【公明党の選挙公約】
 先の衆議院選挙の時に公明党が、「18歳までの子供に、1人当たり一律10万円相当の支援を行う」と言う公約を掲げました。

 公明党と自民党が話し合って、「年収が960万円以上の所帯を除いて、0歳から高校3年生までの子供に一人当たり10万円相当の給付を行う」と11月19日に閣議決定しました。

 公明党の要求を丸呑みすると、自民党のメンツが潰れると岸田首相は(愚かにも)考えたのだと想像します。 所得制限を設ける事と半分をクーポン券で支給する『迷案』を採用しました。 安倍のマスクを思い出しました。 私は怒っているので、『岸のクーポン』と呼ぶことにします。

 日本のコロナ新規感染者数は激減した状態が2カ月ほど続いています。現金5万円は今年中に給付される様ですが、クーポン券が配布される時まで感染者数が増加し無かったら『気が抜けた景気対策』と揶揄されるでしょう! 来年の今頃には、『岸のクーポン』は流行語大賞に選べれる恐れが有ります。 岸田首相としては、初詣で「早々に感染者数が増加する様に」祈る必要が有ります!

【種々の意見が飛び交い始めました!】
 現在の動きを見ると、「クーポン券の配布では無く、現金5万円給付を行う市町村が大半を占める様になるだろう」と私は予想します。大阪市の松井市長が現金給付を決定したら、近畿地方の市町村の多くは『右へ倣(なら)え」になりそうです。不思議なことに小池知事はダンマリを決め込んでいます。東京都が現金給付すると言い出したら、岸田首相は面目丸つぶれになります。政府は小池知事と裏取引して、クーポン券を配布させようと躍起になると想像します。

★ 12月1日・立憲民主党の泉健太代表が、「10万円一括支給案」を提案した。

★ 12月6日・群馬県太田市の清水聖義市長が、「全額を現金で給付する方向で調整する」と発言しました。 (太田市の人口≒22.2万人)

★ 12月8日・大阪市の松井市長が、「12月27日に一括10万現金給付案」を発表した。 (大阪市の人口≒275万人)

★ 12月8日・秋田県横手市議会が、所得制限の対象外となる世帯にも配るための経費を盛り込んだ補正予算案を賛成多数で可決した。

★ 12月9日・大阪市の松井市長が、一括給付は断念すると発言した。

★ 12月10日・立憲民主党が、「自治体が希望する場合、全額を現金で給付することを選べるようにする法案」を提出した。

【岸田政権の迷走】
 岸田政権の発言をまとめて見ました。 既に、可笑しな事を言っていますが、小池知事が「全額現金給付案」を採用したら、支離滅裂な説明をせざるを得なくなりそうです。

★ 半分クーポン券にする理由は、「現金給付だと使わないで貯蓄してしまうので、景気対策にならない」と言うことでした。

★ 現金給付は年末までに出来るが、クーポン券の配布には券の印刷や事務手続に時間が掛かるので、春先の配布になる。

★ 最初の5万給付に掛かる経費は300億円ほどで、クーポン券の配布には967億円ほど掛かる。この程度の経費は妥当で有る。 (揚げ足を取ると、一括10万円給付にすると経費は300億円ですみ、967億円節約出来る事になります。)

★ 12月7日・松野官房長官は、「(5万円相当のクーポン分は)クーポン給付を基本に検討いただきたいが、地方自治体の実情に応じて現金給付も可能とする」と言いました。

★ 12月8日・松野官房長官は、松井大阪市長の一括現金給付案に対して、「それぞれ別の給付措置で同時支給は想定していない。先ずはクーポン給付を基本として検討いただきたい」と発言しました。 要するに、「一括給付は駄目だけど、2回に分けて現金給付するのはOK」と言い意味の様です。

★ 12月10日・内閣官房の担当者が3日に、「令和4年6月末までにクーポン給付を開始することができない見込みである場合に限り、現金給付を可とする」と言う通達を市町村に出したと公表しました。 (いつ頃、クーポン券を市町村に届ける予定か?明確にしていません。)

【地方自治体の対応の予想】
 現金で買い物する時代では無いので、実情を知っている多くの地方自治体は現金給付を選択すると私は予想します。

 私が管理している大阪市内の賃貸マンションから、半径1km以内にスーパーマーケットが7軒、ドラッグストア6軒、コンビニが8軒ほど有ります。関西はクレジットカードが使える店が少なかったで、(コンビニでは使えましたが、)スーパーマーケットは1軒だけ使え、どのドラッグストアでも使えませんでした。

 コロナの感染が始まって、クレジットカードが使える店がドンドン増えて来て、今ではスーパーマーケット1軒を除いて、全ての店で使える様になっています。 この頑固なスーパーは、機械に現金を投入して支払う様になっています。 このスーパーの機械でクーポン券が使用出来る様にするのは、かなり難しいと思われます。

 現金で買い物するのは、殆どが老人です。今回の国からの給付は、若い子育て世代が対象ですが、彼/彼女の多くは現金では買い物していません。 安倍のマスクの時と同様に、岸田首相は世の中の実情を全く把握出来ていません。給付を受ける側の都合を考慮していません。

 私が現金を頂いたと仮定したら、クレジットカードと連結している銀行口座に一旦全額入れます。欲しい物を、欲しい時に、安い店を探して買います。

【偽クーポン券対策】
 日本にも悪賢い人間が沢山います。偽物を作って儲けてやろうと、手ぐすねを引いている輩がきっといます。 『安倍のマスク』の場合とは違って、多量のクーポン券の発行には偽物が出回る恐れが有ります。 岸田首相の周りに、偽クーポン券対策を考えている様な人間がいるとは思えません。

★ クーポン券には偽物を簡単に作れ無い工夫が必要です。市販のコピー機の性能は向上していますから、国立印刷局で高度な印刷技術を駆使したクーポン券を作る必要が有ると考えます。

 今年・北朝鮮では紙幣用の紙とインクを中国から入手出来なくなったので、国産の紙とインクを使って『臨時金券』を発行しました。直ぐに『偽臨時金券』が出回って、臨時金券の発行を停止しました。 日本で偽クーポン券が出回ったら、世界に恥を晒す事になってしまいます。

(提案) 偽クーポン券が防止出来て、安く済ませるには、現行紙幣に『コロナ・クーポン券』と印刷する案が良いと思います。 戦争中に発行した『軍票』は、日本銀行券に『軍用手票』などと印刷しして発行しました。

★ 偽札を掴(つか)まされた商売人は、警察に届ける義務が有りますが、補償は受けられません。偽クーポン券も同じ様にするのでしょうか?! 今の所、何の報道も有りません。 偽クーポン券を掴まされても政府が補償する事にしたら、商売人は売り上げを上げる為に、積極的に偽クーポンを受け入れる様になりそうです。

 チケットショップでも取り扱える事にしたら、「政府が補償してくれるのだから偽クーポン券も大歓迎」と言う事になりそうです。

【クーポン券案では煩雑な作業が必要です!】
 クーポン券を配布すると、下に列記する様に煩雑な作業が必要になります。(政府は、『クーポン券の見本』と『偽クーポン券判別機』が必要な事を承知しているのか?甚だ疑問です。) クーポン券発行の事務経費(967億円)には、市町村の事務費、金融機関や商店の手間賃は含まれているのでしょうか?!

 「10万円給付に総額1兆9473億円必要で、現金とクーポン券を発行する為には1兆2162億円掛かる」と言う報道が有りました。差額の7,311億円は何の金でしょうか?

(クーポン券の有効期限) クーポン券に有効期限をもうけ無いと、事務手続きが何時までも続いてしまいます。

★ 市町村がクーポン券と『クーポン券の見本』の必要数を国に報告する。
★ 国がクーポン券の印刷を発注する。
★ 印刷会社がクーポン券を国に納入する。
★ 国がクーポン券に『見本』のハンコを押す。→→事前に『クーポン券の見本』を市町村と金融機関に発送する。
★ 金融機関で担当者に『クーポン券の見本』を見せて、覚えてもらう。
★ 市町村が『クーポン券の見本』を各商店に配布する。
★ 各商店でレジ担当者に『クーポン券の見本』を見せて、覚えてもらう。
★ 国が市町村にクーポン券を発送する。
★ 市町村がクーポン券を郵送する。
★ クーポン券を受け取る。
★ クーポン券で買い物する。
★ 商店がクーポン券を金融機関に持ち込む→→現金を受け取る。
★ 金融機関がクーポン券を国に郵送する→→国が偽クーポン券が混じっていないか?チェックする。 (偽クーポン券を判別する機械を導入し無かったら、気の遠くなるような作業量になり、広い会場を確保して、沢山アルバイトのチェック員を雇う必要が有ります。)
★ 国が金融機関に金を振り込む。