これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

痴ほう症 (その1)

2018-12-15 10:57:01 | 社会問題
 私のまわりでも、痴ほう症の人が少しずつ増えて来ている様に思います。 他の病気とは違って、患者は苦しむ事も無く、悩む事も有りませんから、幸福かも知れません。 家族の悲惨さは、その家の事情によって”まちまち”ですね!
 私が考えさせられた痴ほう症の例を、二回に分けて書きます。 世の中には、痴ほう症の家族を抱えて苦労している方が沢山おられる事を知って頂きたいのです。

【痴ほう症の人と仕事をしました】
 私は暗礁に乗り上げてしまった重要な開発を引き継いだ事が数回あります。 全て(他部署への)応援でした、つまり、人事異動は無く、幽霊社員が仕事をするわけです。 開発に成功しても、幽霊社員の成果にはなりませんでした。 開発に成功したら、別の中断した重要な開発の応援の話しが待っていました。 ボーナスは出世コースに乗った同期よりも多かったので文句は言えません。 この話も、そんな仕事の一つをした時の経験談です。

 年間数万個売れそうな製品でした。 「1年間で開発目標仕様を満足し、1台二万円で売れる製造方法を確立したら、派遣元の部署に帰ってよい」との口約束をしてもらいました。開発の前任者は(何時ものことでしたが)既に退職されていました。

 私の開発チームは、たいてい人事的には無茶苦茶でした。 この時は特に酷く、十数人のチームでしたが、チームリーダーの私は平社員でしたが、部長1人、次長1人、課長1人も私の指示で動く事になりました。

 一番困ったのは、派遣社員の製図工が”若年性認知症”だった事です。 この方は、国立大学の機械工学科を卒業され、大手企業に勤務されていましたが、40才になる前に大病で長期入院され、退社されていました。 退院された後から、認知症が進みはじめ、奥さんが娘さんを残して家を出られたそうです。 私と仕事を始めた時は、まだ45才ほどだったと思います。娘さんは国立大学の学生でした。

 最初の頃は、毎朝、その日にしてもらう仕事の内容を書いたメモを渡し、説明しました。 2か月ほど経つと、昼食後に仕事をしないでジッと瞑想している様になりました。 仕方がないので、朝と昼食後の2回、打合せをする事にしました。

 さらに2か月ほどすると、打合せの後でも仕事をしなくなりました。 期限の厳しい開発だったので、ぼーっとしている彼に近づくと、「今日は打合せが無かった」と言いました。 彼の製図版の上には、さっき渡したメモを置いていました。 そのメモを見た彼は、「君は人が悪い、私が席を外した間にこのメモを置いておいて、私を責める」と言い出しました。

 次の日から、打合せ時に彼にメモを作成してもらう事にしました。私は乱筆ですが、彼は綺麗な字を書きましたので、自分が書いたメモだと分かると思ったのです。 打合せの後、仕事をしない日が有りましたが、彼の机の上のメモで再度説明しました、「何時書いたのかなあ?」と言って、不思議そうにしていました。

 ”ハサミ”は指を萎めると先端も閉じますが、逆の動きをする組み立て用の道具(冶具)が必要になり、計画図を作って渡しました。 私の説明をじっと聞いていましたが、「そんな動きは絶対にしない。僕は国立大学の機械工学科を出ている。そんな図面は絶対に書かない」と言い張りました。 その日、何回も説明しましたが、「僕は国立大学の機械工学科卒だ!」の一点張りでした。 次の日に、「チームリーダー命令だ!」と言って強引に図面を作成してもらいました。

 認知症がドンドン進んできたので、派遣元の会社に代わりを出してもらう様に話に行きました。 「彼は他に行く所が無い、首にしたら娘さんは大学を辞めなければならない」と言われ、開発の目途がほぼ立っていましたので、我慢する事にしました。

 目標製造コストを半額にされて、量産製造方法を大幅に再検討しましたので、結局、1年と2か月ほど彼と一緒に仕事をしました。 「娘さんが大学を卒業出来たとしても、認知症の父親を抱えて就職は難しい」と言う人もいました。 私もそう考えましたが、娘さんはこれから大変な人生を歩むことになると思うので、せめて大学は出してあげたかったのです。

 あれから、もうすぐ30年になります。 その間、我が国の社会福祉は良くなっていますから、娘さんは、お父さんから解放されて幸せな生活をされていると信じています。

【健忘症の人と仕事をしました】
 2005年頃の話しですが、当時、私は中規模の会社に出向していました。 三階の小さな居室に四人が机を並べて、別々の仕事をしていました。 その会社に40年以上勤められている、65歳くらいの男性社員(A氏)がいました。

 A氏は、日に2~3回は下の階に用事で降りて行くのですが、毎回、すぐ上がって来て、「○○君、僕は何しに降りたのか?」と私に尋ねるのです。「分かりません」と答えると、しばらく机に向かって考えて、降りて行きました。

 A氏は、社内会議ではノートにメモを取っていましたので、「下に降りる時、用件をメモされては」と何回もアドバイスしましたが、実行されませんでした。

 この会社には、若手の設計者以外には、殆どパソコンが導入されていなかったのですが、老人の私がパソコンで仕事をするのを見て、会社のトップが全員にパソコンを支給し、社内メールシステムの導入を決定しました。 「3か月後からは、報告書、行動予定などなどの書類は全てパソコンで作成せよ、出来ない社員は辞めてもらう」と言う社長命令が出ました。 社長も含め、皆さん必死でパソコンに取り組みました。

 A氏には、隣の部屋の若手社員(B君)が教える事になりました。 毎日数回、B君を呼んでパソコンの操作を教えてもらっていましたが、なかなか使える様になりません。 二か月もすると、B君が”切れ”てきて、大きな声で「さっき教えたでしょう!」と嫌な顔をして言う様になりました。 私は、「教えてもらった事をメモしたらどうですか」とアドバイスししてみましたが、A氏は「うん、うん」言うだけでした。

 A氏は、古い顧客・数社の設備の修理や改良工事の見積と設計を担当されていました。 一件が数百万円の仕事で、毎回10%以上の赤字を出していました。 「何故、毎回赤字になるのか調べて欲しい」と依頼されました。 原因は直ぐに分かりました。A氏が設計図と呼んでいるのは、A4のコピー用紙に、フリーハンドで書いたメモの様な物でした。 見積積算資料に、沢山購入部品が漏れていて、工事中に緊急手配していたのです。

 「物忘れが酷くなった人に、設計や見積の仕事をさせる会社の方が問題だ」と私は思いました。 その後、2年ほどして私は別の会社に出向しましたが、A氏はまだパソコンを十分使いこなしておらず、赤字を出し続けていました。

【奥さんが痴ほう症で施設に入られた】 
 近所に子供さんのいない老夫婦が住んでいました。2005年頃から奥さんの様子がおかしくなりました。数年して御夫婦で家から東へ十数キロの所に遊びに出掛けられたのですが、数分目を離した隙に奥さんが見当たらなくなってしまったそうです。

 旦那さんが警察に届けた様ですが、警察は多忙ですから期待は出来ません。次の日から近所の人達数人で探しました。一週間ほど探しましたが見つかりませんでした。

 行方不明になって10日ほどたって、近所の方が車を走らせていたら、国道の路肩にボンヤリ座った奥さんを見付け、連れて帰ってくれました。 家から西の方向へ十数キロの所だったそうです。痴ほう症の奥さんが30キロ以上歩いた事になります。

 奥さんは元気で、お腹が空いた様子でも無かったそうです。10日間、誰かに食べさせて貰っていたのでしょう。 私は、「食べ物を与えるくらい親切な方なら、どうして警察に通報してくれなかたのだろう?」と不思議に思いました。

 家から徒歩数分の所にある、特別養護老人ホームに空きができ、1年程で奥さんを入れました。 旦那さんは、私の家の横の道を通て、毎日のように奥さんを見舞いにいっていました。その後、旦那さんも年老いて外に出なくなりました。 最近、その家の前にホームステイの迎えの車が止まる様になり、「旦那さんが先に逝ったらどうなるんだろう?」と町内では心配しています。