これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

イヌ(犬)の話し (その1)

2020-05-23 11:15:41 | 動物
 今回と次回はイヌの話を書きます。今回は子供の頃の猟犬の思い出話しです。

【イヌ好きの方に読んで頂きたい本】
 イヌ好きの動物行動学者が書いた次の二冊の本を推奨します。 イヌ好きの方は、イヌの動作を擬人化して勝手に判断していますが、これらの本を読まれたらイヌと正しく接する事が出来る様になると思います。是非とも読んで下さい! 貴方のイヌ好きの友人にも推奨して下さい!

① ドッグ・ウォッチング :デズモンド・モリス :竹内和世訳 :平凡社 (現在は絶版ですが、amazon等から古本が入手出来ます。)・・・私は、この本の方が面白かったです。

② 人イヌにあう :コンラート・ローレンツ ;小原秀雄訳 至誠堂 (現在はハヤカワ・ノンフィクション文庫で入手出来ます。)

★ イヌの祖先はオオカミです。コンラート・ローレンツは②の本ではジャッカルが祖先だと書いていますが、その後ローレンツも「オオカミ説」になりました。
★ デズモンド・モリスは1923年生まれのイギリス人です。私は、一時期・日本で出版されたモリスの翻訳本を買い集めて夢中になって読みました。
★ コンラート・ローレンツは1903年生まれのオーストラリア人です。1973年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。ローレンツも沢山・素晴らしい本を残してくれました。その多くは翻訳されています。

【私の子供の頃】
 私は、1946年に紀州の山奥の村で生まれ、1962年に中学を卒業するまで住んでいました。動物園に行ったのは中学3年生の修学旅行の時が初めてです。それまでは、像、キリンやライオンは写真でしか見た事が有りませんでした。

 私は子供の頃から動物が好きでした。種類は少なかったですが、身近に結構沢山・自然の動物がいました。動物園では観察するのが難しい、彼等の生活を観察しました。

 イヌは特に好きだったのですが、私の身近にいたイヌは、次回に書きますS叔父のイヌを除いて全て猟犬でした。猟犬は全て柴犬でした。 村に獣医がいましたが、猟犬を見て貰う習慣は無かったと思います。猟で負傷して役に立たなくなった猟犬は処分されたのでしょう。

 ”猟”は猟犬にとっては”命がけの戦争”です。長生きする猟犬は非常に少なかったです。 ハンターが猟犬を連れないで帰ってくる事が時々有りました。多分、怪我をしたので処分(銃殺)したのだと、子供心に思いました。非常に稀なことでしたが、年老いて猟には連れて行けない(死期が近い)猟犬がいました。彼等は、ある日突然・どこかへ行ってしまい、二度と帰って来ませんでした。猟犬が、飼い主の家で死ぬ事は有りませんでした。

【近所の猟師】
 近所に、寡黙で優しい30歳代の男性(H氏)が住んでいました。H氏の本業は農業と山林/木材の売買でしたが、夏は鮎釣り、冬は猪と鹿のハンティングに殆どの時間を割いていました。鮎釣りは村で一二を争う名人で、釣った鮎は旅館に売っていた様でした。猟の成果は年に二、三度しか有りませんでしたが、肉を持って帰って格安の値段で近所の家に売っていました。我が家も、毎回買いました。

 H氏は猟犬を一、二匹、放し飼いしていました。猟犬はペットでは無いので、普通は子供と遊ぶのは許してくれませんでしたが、H氏は私が愛犬と遊ぶのは許してくれました。どのイヌにも黒いマダニが噛みついていましたが、「マダニは取ってはいけない」とだけ言いました。 (マダニを素人が取ると、イヌが感染症になる恐れが有ります。)

(余談) 現在は日本各地で、猪、鹿、熊、日本カモシカ、サルが増えて農家を困らせています。私の故郷では猟師は殆どいなくなりましたが、獲物の数は多くなっています。 昔は村人が薪を取ったり、炭焼きをしたり、山の手入れなどの為に山に入ったので歩ける道が結構有りました。現在・猟をする為には”道なき道”を歩く必要が有り、”体力”が必要になっています。

【猟銃の玉を作りました】
 H氏は、毎年・稲の収穫が終わると鉛を溶かして”銃弾(玉)”を作りまし。当時は雷管(点火薬)が装着された薬莢(やっきょう)、火薬、鉛を別々に買って来てきました。(薬莢の円筒部は紙製でした。) 玉は鉛を溶かして、猟師が自分で作りました。板を雨樋状に組立て、斜めに立てかけ、溶かした鉛を上の方にポタポタと垂らすと、下まで転がると球形になっていました。

 毎年・そろそろ玉造りをしそうな時期になると、私はH氏の家に行きました。猪や鹿用は単弾で薬莢には(筒一杯の大きさの)鉛玉を一個入れましたが、鳥やウサギ用は散弾で薬莢に小さな玉を沢山入れました。大きな玉を作るには技術が必要ですが、散弾用は適当に作って、薬莢に入れる時に適当に選んでいました。 H氏は私に、毎年・散弾用の玉を作らせてくれました。

 銃弾が出来ると、H氏は田圃に板を立てて30m程離れた所から試射しました。集落の男性の殆どは戦争の経験が有るので、銃の扱いには慣れていました。H氏は射撃が旨かったです。

【H氏に弟子が出来ました】
 H氏の隣家の主人(Y氏)が猟銃を買って、H氏の弟子になりました。H氏の指導でY氏が射撃練習をしたのですが、的には当たりませんでした。 それでも、二人で猟に出掛け、年に六、七頭は射止めました。H氏だけの時は肉だけ持ち帰りましたが、二人になると、棒に獲物を”ぶら下げて”帰って来ました。庭で解体したのです。

 H氏は寡黙な方でしたが、Y氏は解体しながら色々話してくれました。猪や鹿を仕留めると、その場で腹を割いて内臓を取り出し、イヌに食べさせ、”血”を手で掬って飲むのだそうです。「美味いし、栄養が有るんだ!」と言っていました。

 年に一度くらいは肉だけ持ち帰り、集落の全所帯にタダで配ってくれました。この肉は特に美味でした。何の肉か?分かりますか? 日本カモシカの肉です。日本カモシカは特別天然記念物に指定されているので、狩猟は出来ません。要するに美味しい!美味しい!”口止め料”だったのです。

【猟犬とニワトリ】
 殆どの家でニワトリを飼っていましたが、昼間は庭で放し飼いにしていました。猟犬も庭で放し飼いでしたので、非常に稀でしたが、猟犬がニワトリを襲う事が有りました。私が小学1年くらいの頃、H氏の猟犬がニワトリを食べてしまいました。

 柿木に猟犬を繋いで、ニワトリの首に紐を巻いて、その先を近くに立てた棒に結びました。 イヌがニワトリを襲う動作をすると、H氏が棒でイヌを叩くのです。何回も何回も、二、三時間叩き続けるとイヌはニワトリを襲わなくなりました。 皆さんは「残酷だ!」と思われるでしょうが、田舎では一度ニワトリを食べた猟犬は始末していました。H氏は何とかして、彼の猟犬を生かしてやりたかったのです。 その後、このイヌは二度とニワトリを襲いませんでした。

 何年かして、下校するとH氏が別のイヌを叩いていました。既に大分長い時間叩き続けていた様子でした。 顔を見ると涙を流していました。「大人の涙を見てはいけない」と思ったのか、この時は直ぐに家に帰りました。このイヌも怪我をする事無く、ニワトリを襲わなくなりました。

 ペットを買う前に、「死ぬまで面倒みてやれるか?」と考えると思います。猟師がイヌを飼う時は、「このイヌが猟で大怪我をしたら、楽にしてやる」と腹を括る必要が有るのです。猟師と猟犬の関係は、浅薄な『動物愛護』の考え方が通用しない、厳粛なものです。

【H氏の犬が迷子になりました】
 私が中学2年の頃に、H氏が愛犬を連れて和歌山市に出掛けました。車にイヌを残して用を足し、車に帰るとイヌがいなくなっていたそうです。普通は猟犬を連れて町には出掛けませんでしたが、H氏はそのイヌを特に大切にしていたので、何処かに出掛ける時は殆ど、そのイヌを連れて行っていました。

 私はガラス窓の有る三畳の勉強部屋を独占出来る様になっていました。迷子になって一年ほど経ったある日、窓から外を見ていると、あのイヌがH氏の家の方に上がって来ていました。H氏の家に飛んでいくと、イヌは私を覚えていました。

 私の実家から和歌山市までは、新しい道やトンネルが沢山出来たので、今では車で一時間ほどで行けますが、当時は車でも三、四時間ほど掛かったと思います。イヌは、自分の”巣”に帰る素晴らしい能力を持っているんですね! モリスとローレンツの本には、この能力の事は書かれていません。

【雉(きじ)とポインター】
 田舎の猟師は「玉代がもったいない」と言って、雉猟はしませんでした。私の集落にも数羽の雉が住み着いていたので、毎年・二、三人町から雉を射ちにやって来ました。 どのハンターも格好は一人前で、狩猟用のベスト、ブーツ、銃身が二つの散弾銃、そして必ずポインターを連れていました。

 ポインターを見掛けると、(私も含め)子供達が付いて行きました。雉は綺麗な鳥で、山に入ると時々驚かされますが、害鳥では有りません。子供達は「自分達の雉を殺すな、邪魔してやろう‼」と考えて付いて行ったのだと思います。

 雉の巣は大抵・シダの茂みに有ります。人間が近づくと巣から出て、人が通る道の近くまで”わざわざ”やって来て、人間の足元から飛び出す習性が有ります。巣が近くに有ると勘違いさせる為です。猪や鹿の猟では、目立たない服を着て風下から音を立てずに近づく必要がありますが、雉猟では目立つ色の服でもOKで、物音もOKです。悲しいかな、雉の方からハンターに近づくのです。

 雉は必ず飛び立つのですが、ハンターが「ズドン、ズドン」と撃っても、殆ど外れでした。私は10回以上見に行きましたが、2回だけ仕留められました。ポインターの役割は、地上に落ちて来た雉の所に走って、咥える事でした。ハンターの所に運んで来るのは見た事が有りません。雉猟には猟犬は必要無い様に思いました。

(余談) 『雉も鳴かずば撃たれまい』と言いますが、雉ハンターは鳴いてる雉を撃つのでは有りません。 『雉も鳴かずば撃たれまい』の由来は悲しい話しです! 調べて見て下さい。

【猟犬を持たない猟師】
 村に一軒だけ本屋が有りました。学校の教科書の販売で生きていて、本は殆ど置いていませんでした。欲しい本を注文すると取り寄せてくれるのです。私は、小遣で小学館の小学〇年生と講談社の漫画雑誌を毎月・買っていました。

 本屋の主人(N氏)は猟犬を飼っていませんでしたが、”日本サル”と”熊”専門の猟師でした。これらの猟では、猟犬は必要無いのです。 肉を食べたか?どうか?は分かりませんでしたが、熊の『胆のう』と思われる物を、軒下にぶら下げていました。日本サルは頭を取ってきて黒焼き『猿頭霜(えんとうそう)』にしたのだと思います。 村の人達は、「漢方薬として高く売れる}と言っていました。 (今でも”熊の胆のう”と”猿頭霜”は高値で取引されています。)

 N氏は弟子を取らない主義で、何時も一人で猟をしていたのですが、ある青年が 辛抱強く何回も何回もお願いして、「弟子にしてもらった」と言う噂を聞きました。彼が初めて猟に連れていって貰った日に、私は本を受け取りに行っていました。帰って来た弟子が、「サルが死ぬ顔を見てしまった。とても耐えられ無い。もう止める!」と言う様な事をいって、帰ってしまいました。

(余談) 現在、日本サルの猟は原則禁止ですが、農作物への被害が大きいので狩猟団体に狩猟依頼が出る様です。 父に連れられて人家から離れた山に時々行きましたが、雑木林の木の上で遊ぶサルを必ず見ました。当時もサルは沢山生息していましたが、現在はもっと多くなって、人家の近くにも出没する様です。

(余談) クヌギや樫木を伐採して丸太にし、穴を穿って椎茸の菌を植え付けた物を故郷では”ボタ”と呼んでいました。 我が家では、杉林に沢山椎茸ボタを並べて、貴重な現金を得ていました。有る年・椎茸の生える時期に様子を見に行くと、小さな椎茸が沢山・沢山もぎ取られて地面に落ちていました。 サルが椎茸を食べるのか?は分かりませんが、もぎ取るのが楽しかったのでしょうか? サルは賢い動物ですから、一度来ると必ず次の年にも来るのです。 ボタの一部を家まで運んで、裏庭に並べて、家で食べる分は確保しました。 (我が家は、急に現金収入が無くなって、さらに貧乏になってしまいました!)