今回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。
【日本の撤退→→38度線】 1945年
日本が敗戦したあと、朝鮮半島には北からソビエトが、南からアメリカを主体とした国連軍が入ってきて、北緯 38度線でそれぞれが分割統治する事になりました。1948年にアメリカとソビエトが撤退して、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。
ソビエトは北朝鮮に多量の兵器を残しました。(戦車240輌、砲552門、迫撃砲1,728門、航空機211機) 北朝鮮の兵力は約20万で、さらにソビエトと中国から実践経験のある3万人が帰国しました。(出典:ウィキペディア)
アメリカが韓国に残した兵器はわずかでした。(砲91門、迫撃砲960門、練習機22機) 韓国の兵力は約10万しか有りませんでした。(出典:ウィキペディア)
1948年に韓国と北朝鮮が建国した時点では、軍事力と経済力は北朝鮮の方が圧倒的に優位だったのです。
【北朝鮮にはバラ色の選択肢も有りました!】
北朝鮮は、日本が建設した工場群、インフラ整備などを無傷の状態で受け継ぎました。ソビエトは近代兵器を多量に残してくれた上に、経済援助も続けてくれました。北朝鮮は、何よりも、鉄鉱石、石炭、銅、金などの地下資源が豊富です。
世界情勢 :一方、日本、東西ドイツ、フランス、イタリアなどの産業は第二次世界大戦で甚大な被害を受けており、韓国には殆ど工場は無かったのです。中国の産業はまだ発展していませんでした。(中国が改革開放政策を打ち出したのは1978年12月です。)
私の見立て :朝鮮戦争を始めないで、日本が進めていた『産業を発展させる政策』を続けていたら、数年後にはソビエトの援助を受ける必要が無くなったと思われます。 北朝鮮は、文字通りの”地上の楽園”になっていたかも知れません。少なくとも、共産圏の有力な工業国にはなっていたはずです。 そして、ソビエトが崩壊した時に、東西ドイツの様に韓国と統合出来た可能性も有ったと思われます。
【北朝鮮・金日成の時代】 1948年~1994年
スターリンのバックアップを得て、共産党内部では少数派だった金日成が北朝鮮を統治する事になりました。基盤が極めて零弱だったため、敵対する派閥や幹部を次々と粛清しました。 (戦争中、金日成は抗日パルチザン部隊の一指揮官でした。)
金日成は建国して2年後(1950年)に朝鮮戦争を始めましたが、結局、朝鮮半島を統一すると言う野望は果たせませんでした。日本が残した虎の子の資産とソビエトから得た近代兵器の大半を失いました。(北朝鮮では、戦争を始めたのは韓国の方だと国民に説明しているそうです。)
朝鮮戦争のあと、ソビエトと東欧諸国から支援を得て、北朝鮮の工業は復興しました。復興が進まない韓国と比較して北朝鮮は”地上の楽園”の様に思えたのでしょう。1959年から、日本から北朝鮮への帰還が始まり、1984年までに9万人以上が渡っていきました。
北朝鮮による日本人の”拉致事件”は1970年代の後半から発生しました。”帰還事業”をしながら、何食わぬ顔で”拉致”と言う犯罪を続けていたのです。
1991年にソビエトが崩壊し、ソビエトと東欧諸国から支援が受けられなくなり、中国からの援助だけに頼る様になってしまいました。それからは、工業の発展がストップしてしまう事になります。
一方、農業政策の失敗によって、食糧が不足する様になって来ていました。 (近年は、外国からの食糧支援が不可欠な状態になっています。)
【朝鮮戦争で失ったもの】 1950年~1952年
1950年6月25日、北朝鮮は10万の兵力で韓国に侵入て、想定を遥かに超えたスピードで北朝鮮軍は進軍し、韓国軍は連戦連敗で釜山近辺まで追い詰められました。
崩壊寸前の韓国を救うために、国連軍が韓国に上陸して戦況は急変し、どんどん北朝鮮軍を北に押し戻しました。38度線を超え、中国との国境線に近づいたとき、中国の大軍が参戦しました。国連軍は38度線より南側まで押し戻され、押し返し、最後は膠着状態になりました。結局、1953年に中国+北朝鮮と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。(李承晩は休戦に反対して、協定には参加していません。)
開戦から膠着状態になるまでの期間は約1年です。
米軍は、第二次世界大戦で日本に投下した16万トンの3.7倍にもなる60万トンの爆弾を使用して、日本が併合時代に建設した工場、ビルなどの貴重な資産を徹底的に破壊してしまいました。
【朝鮮戦争の死者】
朝鮮戦争の戦死者数は正確には把握されていないようです。 私の推計では、両軍合わせた軍人の死者は約100万人ほどです。 (ウィキペディアによると)南北合わせた民間人の死者は380万人以上もありました。 (第二次世界大戦で亡くなった日本の民間人は80万人です。)
韓国軍と北朝鮮軍は、敵地で民間人を多量に虐殺しました。 戦闘が行われた期間は約1年ですから、毎日1万人の民間人が虐殺された事になります!
私の推計では、この戦争で、朝鮮半島の人口の15%程の方が亡くなったと思います。 特に北朝鮮では四人に一人の方が亡くなりました。
韓国軍は、民間人を虐殺する時、女性を凌辱したあとで殺すか、拉致して慰安婦にしました。 (朝鮮戦争中から、韓国軍は慰安所を運営していました。)
【日本と朝鮮戦争】
日本は、この戦争期間中の3年間の特需で10億ドルを得たと言われています。その後も特需は続き、日本が得た総額は”46億ドル”にもなりました。1960代の後半からベトナム特需がはじまり、日本経済は完全に復興し、さらに戦前よりも発展し豊かになりました。
アメリカ軍からの強い要請で、当時の総理・吉田茂は海上保安庁に、朝鮮半島周辺での機雷の掃海を行わせました。 (実質的な参戦です。) この時、1名戦死されていますが、靖国神社には合葬されていません。 PKOで派遣された自衛官が万一、戦死されても靖国神社に祀られないのでしょうか? 皆さんはどう思われますか? 私の叔父が一人、靖国神社に合葬されていますが、靖国神社の問題について、私はまだ考えが纏まっていません。
★★予告★★
次回は、その後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!
【日本の撤退→→38度線】 1945年
日本が敗戦したあと、朝鮮半島には北からソビエトが、南からアメリカを主体とした国連軍が入ってきて、北緯 38度線でそれぞれが分割統治する事になりました。1948年にアメリカとソビエトが撤退して、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。
ソビエトは北朝鮮に多量の兵器を残しました。(戦車240輌、砲552門、迫撃砲1,728門、航空機211機) 北朝鮮の兵力は約20万で、さらにソビエトと中国から実践経験のある3万人が帰国しました。(出典:ウィキペディア)
アメリカが韓国に残した兵器はわずかでした。(砲91門、迫撃砲960門、練習機22機) 韓国の兵力は約10万しか有りませんでした。(出典:ウィキペディア)
1948年に韓国と北朝鮮が建国した時点では、軍事力と経済力は北朝鮮の方が圧倒的に優位だったのです。
【北朝鮮にはバラ色の選択肢も有りました!】
北朝鮮は、日本が建設した工場群、インフラ整備などを無傷の状態で受け継ぎました。ソビエトは近代兵器を多量に残してくれた上に、経済援助も続けてくれました。北朝鮮は、何よりも、鉄鉱石、石炭、銅、金などの地下資源が豊富です。
世界情勢 :一方、日本、東西ドイツ、フランス、イタリアなどの産業は第二次世界大戦で甚大な被害を受けており、韓国には殆ど工場は無かったのです。中国の産業はまだ発展していませんでした。(中国が改革開放政策を打ち出したのは1978年12月です。)
私の見立て :朝鮮戦争を始めないで、日本が進めていた『産業を発展させる政策』を続けていたら、数年後にはソビエトの援助を受ける必要が無くなったと思われます。 北朝鮮は、文字通りの”地上の楽園”になっていたかも知れません。少なくとも、共産圏の有力な工業国にはなっていたはずです。 そして、ソビエトが崩壊した時に、東西ドイツの様に韓国と統合出来た可能性も有ったと思われます。
【北朝鮮・金日成の時代】 1948年~1994年
スターリンのバックアップを得て、共産党内部では少数派だった金日成が北朝鮮を統治する事になりました。基盤が極めて零弱だったため、敵対する派閥や幹部を次々と粛清しました。 (戦争中、金日成は抗日パルチザン部隊の一指揮官でした。)
金日成は建国して2年後(1950年)に朝鮮戦争を始めましたが、結局、朝鮮半島を統一すると言う野望は果たせませんでした。日本が残した虎の子の資産とソビエトから得た近代兵器の大半を失いました。(北朝鮮では、戦争を始めたのは韓国の方だと国民に説明しているそうです。)
朝鮮戦争のあと、ソビエトと東欧諸国から支援を得て、北朝鮮の工業は復興しました。復興が進まない韓国と比較して北朝鮮は”地上の楽園”の様に思えたのでしょう。1959年から、日本から北朝鮮への帰還が始まり、1984年までに9万人以上が渡っていきました。
北朝鮮による日本人の”拉致事件”は1970年代の後半から発生しました。”帰還事業”をしながら、何食わぬ顔で”拉致”と言う犯罪を続けていたのです。
1991年にソビエトが崩壊し、ソビエトと東欧諸国から支援が受けられなくなり、中国からの援助だけに頼る様になってしまいました。それからは、工業の発展がストップしてしまう事になります。
一方、農業政策の失敗によって、食糧が不足する様になって来ていました。 (近年は、外国からの食糧支援が不可欠な状態になっています。)
【朝鮮戦争で失ったもの】 1950年~1952年
1950年6月25日、北朝鮮は10万の兵力で韓国に侵入て、想定を遥かに超えたスピードで北朝鮮軍は進軍し、韓国軍は連戦連敗で釜山近辺まで追い詰められました。
崩壊寸前の韓国を救うために、国連軍が韓国に上陸して戦況は急変し、どんどん北朝鮮軍を北に押し戻しました。38度線を超え、中国との国境線に近づいたとき、中国の大軍が参戦しました。国連軍は38度線より南側まで押し戻され、押し返し、最後は膠着状態になりました。結局、1953年に中国+北朝鮮と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。(李承晩は休戦に反対して、協定には参加していません。)
開戦から膠着状態になるまでの期間は約1年です。
米軍は、第二次世界大戦で日本に投下した16万トンの3.7倍にもなる60万トンの爆弾を使用して、日本が併合時代に建設した工場、ビルなどの貴重な資産を徹底的に破壊してしまいました。
【朝鮮戦争の死者】
朝鮮戦争の戦死者数は正確には把握されていないようです。 私の推計では、両軍合わせた軍人の死者は約100万人ほどです。 (ウィキペディアによると)南北合わせた民間人の死者は380万人以上もありました。 (第二次世界大戦で亡くなった日本の民間人は80万人です。)
韓国軍と北朝鮮軍は、敵地で民間人を多量に虐殺しました。 戦闘が行われた期間は約1年ですから、毎日1万人の民間人が虐殺された事になります!
私の推計では、この戦争で、朝鮮半島の人口の15%程の方が亡くなったと思います。 特に北朝鮮では四人に一人の方が亡くなりました。
韓国軍は、民間人を虐殺する時、女性を凌辱したあとで殺すか、拉致して慰安婦にしました。 (朝鮮戦争中から、韓国軍は慰安所を運営していました。)
【日本と朝鮮戦争】
日本は、この戦争期間中の3年間の特需で10億ドルを得たと言われています。その後も特需は続き、日本が得た総額は”46億ドル”にもなりました。1960代の後半からベトナム特需がはじまり、日本経済は完全に復興し、さらに戦前よりも発展し豊かになりました。
アメリカ軍からの強い要請で、当時の総理・吉田茂は海上保安庁に、朝鮮半島周辺での機雷の掃海を行わせました。 (実質的な参戦です。) この時、1名戦死されていますが、靖国神社には合葬されていません。 PKOで派遣された自衛官が万一、戦死されても靖国神社に祀られないのでしょうか? 皆さんはどう思われますか? 私の叔父が一人、靖国神社に合葬されていますが、靖国神社の問題について、私はまだ考えが纏まっていません。
★★予告★★
次回は、その後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!