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朝鮮半島の歴史 (その3)

2018-09-08 11:12:43 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、韓国併合時代について私の考えを纏めました。
 韓国の反日家達は、「李氏朝鮮時代は豊だったのに、日本が収奪・破壊してしまい、韓国になってから復興・発展させた」と主張しています。 朝鮮半島の発展に尽くした先人達のためにも、私達の子孫のためにも、併合時代に進めた産業改革、教育改革などなどの記録・資料を一か所に集めて大切に保管する必要があると考えます。

【併合前の清国の状況】
 日清戦争(1894~95年)に敗れて弱体である事を露呈してしまったので、清国はドイツ、ロシア、イギリス及びフランスの要求を呑まざるを得なくなり、1898~99年に、4列強に租借地を認めました。
 大韓帝国は清国より遥かに弱体でしたから、日本の保護無しでは、瞬く間に列強の餌食になったでしょう。この事実は、現在の朝鮮半島の人達は受け入れられないのです。

【韓国併合とその後】 1910年~45年
 1910年、日本は”無血”で大韓帝国を併合し、そのご35年間、朝鮮半島は”日本の一地方”扱いでした。 収奪的植民地では無かったのです。
 日本は官民をあげて貴重な資金を朝鮮半島に投資して、短期間に産業を興し、種々の改革を行い、発展させました。 やっと朝鮮半島は、”失われた500年”を脱して近代化の道を歩み始めたのです。

**余談** 最初に日本から派遣された役人は、”両班”の傍若無人な振る舞いと、無茶苦茶な国家体制に仰天したと想像します。「何から手を付けてよいのか?」相当迷ったことでしょう! 言葉が十分には通じ無かったと思われるのに、短時間に種々の改革が出来たと感心します。

 李氏朝鮮では、庶民は重税に苦しめられていましたが、併合後の10年間は無税にしました。 そして、矢継ぎ早にに多くの改革を行いました。 身分制度(両班、中人、常人、)の廃止、行政組織の改革、官僚制度の確立、法律の整備、裁判所、警察署などなど。

 港湾施設、鉄道、道路、上・下水道、電気、病院、学校、工場を次々と建設し、多くの銀行を設立し、近代化を進めたのです。 これらの事業によって、多くの朝鮮人が働く場所を得る事が出来ました。

 日本窒素肥料(現:チッソ)は、現在の北朝鮮に12箇所もの水力発電所(合計87万kW)を建設し、硫安などを製造する大化学工場を複数建設しました。従業員は4万5千人もいました。 ちなみに、黒四ダムの発電所(黒部川第四発電所)の能力は約33万kWです。
 三菱製鉄、日本製鐵による製鉄所も現在の北朝鮮に建設されました。

教育改革 :大韓帝国の時代には小学校は100校ほどでしたが、日本は4,000校以上も設けました。ハングルは1446年に李氏朝鮮が公布した表音文字ですが、李氏朝鮮の特権階級では漢字を使用し、庶民はほとんどハングルも読めなかったようです。日本が設立した小学校では、日本語とハングルを教えたのです。(ハングルを広めたのは日本だったのです。識字率が6%→22%に向上)

植林事業 :李朝朝鮮では、個人所有の山は無かったので、住民は勝手に山に入り木を伐採して建築資材や薪にしていました。そのため、(特に朝鮮半島の南側では)禿山が多かった様です。茂った森は貯水ダムの働きをします。 禿山だと、貴重な雨はそのまま流れてしまい、農業に利用出来ないだけでなく、河川を氾濫させます。総督府は、禿山の植林事業に努力して、累計10億本も植林しました。 (面積では、約3,600㎢)

土地調査事業 : 1910~18年にかけて、田畑の面積を測量し、所有者(納税者)を確定する事業を行いました。大韓帝国の台帳の耕作面積は240万町歩でしたが、総督府の実測では約80%も多い434万町歩も有りました。国有地、宮室地と所有者不明地(合計14.7万町歩)を総督府は接収し、民間に払い下げました。 現在の韓国では、この”接収”を反日運動で問題にしています。

農業改革  :頻繁に発生していた氾濫対策(水防工事)や農業用水のダムや用水路を建設し、農民用の融資を行う金融組合などの設立にも努力しました。併合の35年間で、水田の面積は二倍以上に増加し、米の収穫量は三倍以上に増加しました。
★★反日運動家は、「米の収穫量は増加したが、日本が収奪した」と主張しています。 実際は、三星商事(現:サムソングループ)などが、米を高く売れる日本に輸出したのであって、略奪したわけではありません。朝鮮半島の人達は、安い雑穀を多量に輸入して食べました。併合時代に、栄養状態が悪化したと言うのは”嘘”です。併合の35年間に、飢餓は無くなり、人口は80%以上増加し、平均寿命は24才から56才まで伸びました。

【併合時代の虐殺】
 1919年、日本が進めていた朝鮮半島の近代化政策の意義が理解出来ていなかったために、朝鮮独立運動”三・一事件”が起こりました。日本は武力で暴動を抑えたために、沢山犠牲者が出ました。 (死者の数は、日本共産党によると7,600人です。) 韓国では、事件が発生した3月1日を”三一節”として祝日にしています。

 1923年の関東大震災が発生した時、デマが流れたために、自警団、軍、警察によって(朝鮮人と誤解された中国人や日本人を含め)沢山の朝鮮人が虐殺されました。 (これは、日本国内で起こった悲劇です。)

【旧日本軍には朝鮮半島出身も沢山いました】
 靖国神社には朝鮮半島出身の軍属が21,000柱も合葬されています。第二次世界大戦中の朝鮮出身の軍属は22万人もいたのです。

 1938年から朝鮮で志願兵の募集を始めました。志願者の数は毎年、増加して1943年には30万人(合格者は6,300名)を超えました。1944年9月には徴兵制を導入しましたが、徴兵制で入隊した兵隊さん達は戦争には参加せずに終戦を迎えました。

【併合時代の資料館を提案します】 
  韓国も北朝鮮も”有る事、無い事言い触らす"国です。韓国は、どんどんエスカレートしてきて、英文で西欧諸国にまで吹聴しています。日本は、”無い事”はハッキリと”それは正しくない”と海外に示す必要があります。”金持ち喧嘩せず”のポーズは止めましょう!

 個人、団体及び企業に寄付を募って、政治的に中立な”併合時代の資料館”を設ける事を提案します。石原知事が尖閣諸島を都が購入する資金として”14億円”も集めました。もっと沢山の寄付が得られると思います。

 資料を発掘し、日本語、英語、韓国語/朝鮮語に翻訳して、展示するだけでなくインターネット上に公開しましょう! 朝鮮半島の人達にも開放しましょう!日本にとって都合の悪い事も展示すべきです。

 その資料館は斬新で明るい建物にして、韓国の物産展やグルメ展を在日韓国人にやってもらうのはどうでしょうか! 韓国の陶芸作家や画家の展示即売会なら私は行ってみたい。日朝で国交が樹立されたたら、”朝鮮産松茸の即売会”をやりましょう。

 真摯な活動を続けたら、(時間は掛かると思いますが、)いずれ慰安婦像が撤去されると思います。

★★予告★★
 次回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!


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