【はじめに】
民間企業では、「ドンナニしてデジタル化を進めたのか?」二回に分けて投稿します。「国や地方公共団体は民間企業の努力した歴史を参考にすべきだ!」と思うからです。
【大企業のデジタル化】
(50年以上も前の)1971年に私はK社に入社したのですが、会社にはIBM製と富士通製の大型コンピューターが各1台導入されていて、デジタル化が始まっていました。本社・支店・工場などの殆どの部署に大型コンピューターに接続された端末機(表示機、キーボード、簡易プリンター等)が設置されていました。
【K社の製造管理プログラム】
K社はプログラマーを養成して社内用の種々のソフトを開発していました。その一つが『製造管理プログラム』です。このソフトは非常に良く出来ていて、私は良く利用しました。既に、アクセス権が設定されていました。
アクセス権の概要 :レベル1のアクセス権を認められると、その事業部の全ジョブ(仕事)の製造管理プログラムにアクセス出来ました。レベル2(ジョブの管理者)が認められると、彼が担当するジョブにだけアクセス出来、レベル3の社員はプログラムの限定した範囲にしかアクセス出来ない、・・・。
営業部署の『A』が機械装置『B』を受注したとします。営業Aが近くの端末から製作命令書をインプットすると→→大型コンピューターシステムの中に『B』用の経理データ・ファイルが出来ます→→設計担当者が部品『C』を手配すると→→資材担当者が金額を決めて→→『D社』に発注し/インプットします→→受け入れ検査部署に部品Cが入荷すると→→「検査に合格して受け入れた」とインプットします→→経理部が資材担当者が決めた部品Cの代金をD社に支払い→→「支払済み」とインプットします。
私が勤務していた会社(K社)では、部品点数が数千点にもなる大型の機械装置を製造していました。上記の様な作業を手書きでやっていたら、トンデモナイ人手と書類の山が出来てしまいます。どこかの部署が部品を1点でも手配するのを忘れたら、装置は完成出来ません。このシステムでは、発注したか?、予定通りに入荷するか?、予算内で発注されているか?・・・種々の情報を得られる様になっていました。
入社した頃は、アルファベット、英数字、カタカナしか使用出来ませんでしたが、暫くして漢字、平仮名も使用出来る様になりました。その後、受け入れた部品の保管場所も登録される様になりました。
その後、本格的な自動倉庫が導入されると、倉庫の何処に保管したか?何時/誰が倉庫から持ち出したか?・・・等の情報が製造管理プログラムで分かる様になりました。
(余談 :社内の抵抗/悲惨な結果) 万年黒字の工場が有りました。その工場で製造する装置は一式数千万円~数億円しました。社外から調達する部品は1点が数十万円~数百万円もしました。部品点数が少なく、手配と経理処理が簡単だったのです。 社外から物を調達する資材課の役割を兼ねた経理課が有りました。
1988年に私が所属していた課が、(手掛けていた装置を持って、)その工場に転属になりました。工場長に呼ばれて、「君達の装置は部品点数が多いいから、君を設計課と経理課の兼務にする」と言われました。経理課に挨拶に行くと、課員全員が大きな声で私を罵倒し始めました。
当時、定年は60歳に延長されていましたが、55歳になる前に殆どの社員は子会社か協力会社に出向するか、早期退職していました。経理課の担当者達は全員55歳以上でした。彼らの言い分は、「パソコン(PC)を使ったら、二人で十分仕事がこなせる→→そしたら、残りの人間は出向させられる→→もう直ぐ定年だから→→PCは断固拒否する」、「君達の装置の資材と経理の仕事はするから、手出しするな」でした。
会社は、(その数か月前に、)気の弱い社員(E氏)を課長に昇格させて、経理課長に異動させていました。 E氏は色々な部署から連日の様に、『製造管理プログラム』を使えと言われ、課員からは無視され続けていました。私達が転勤して直ぐに、胃潰瘍になって入院してしまいました。二、三カ月ほどして退院したのですが、課員達はPCを拒否し続けたので、E氏は数カ月後に亡くなってしまいました。
【社内メール・システム】
私は、1972年からノルウェーの兵器廠・コングスベルグ・ヴァペン・ファブリーク(現在:コングスベルグ・グルッペン)と技術提携してガスタービンを国産化するチームに参加しました。資料は全て英語で、連絡も英語でした。私は英語が苦ってだったので、課長が私を鍛える為に、コングスベルグ社への報告書/質問書の作成、コングスベルグ社から来たレターの翻訳等をほぼ100%やらされました。
ノルウェーは冬季オリンピックで活躍するので、日本人の多くは国名は知っているのでは?と想像します。人口は、兵庫県とほぼ同じ540万人程の小さな国です。(現状は知りませんが)当時は優秀な若者達はアメリカの大学に進学していました。コングスベルグ社の上層部は殆どハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業していました。
ビックリ!したのは、大型コンピューターを使用した社内メールシステムが既に有った事です。 報告書の上部に配布先欄が有り、数字が記載されていました。 『1』は社長、『2』は副社長、・・・『21』は”2”と言う部署のトップ・・・。配布先欄に数字を記入すると、自動的に発信した様でした。
作成した報告書は、キーワードを付けて大型コンピューター・システムに記録されていました。私がテレックスで技術的な質問をすると→→担当の女性が受け取って→→過去に似た質問をしていたら→→彼女から「〇月✕日の報告書を見て下さい」と言うテレックスが送られて来ました。
私が勤務していたK社で、アップルのパソコンとソフトを使用した社内メール・システムを導入し始めたのは1990年頃です。日本では早い方だったと思いますが、コングスベルグ社よりも20年以上遅れていたのです。 アット言う間に社員は社内メールを利用する様になりました。私のパソコンで作成した文章を、社内メール・システムで送って、遠くの営業所のプリンターで印刷出来る様にもなりました。
【中小企業のデジタル化】
25年程前の1996年に私は中小企業に出向しました。私が出した出向条件は「パソコン(PC)を用意してくれること」でした。 会社の都合などで数社の中小企業で働きました。 正に、中小企業でPCの採用(デジタル化)が始まっていました。
会社ではアップルのPCを使用していたのですが、出向する事が決まった時、若い社員達が「ウインドウズ(Windows)のPCが主流になって来る」とアドバイスしてくれたので、Windowsの入ったノートパソコンを買いました。出向した中小企業でアップルのPCを使用していた所は皆無でした。
大企業と中小企業の違いは、大企業ではプログラマーを育てて、社内で使うソフトを作成していましたが、中小企業では市販のソフトを使うのが精一杯だった点です。
旧帝大の機械工学科卒の社長の会社で、(母校の教授に依頼して作って貰った)ベーシックを使った技術計算プログラムを数点使用する会社が有りました。社長も含め誰もベーシックを勉強していなかったので、プログラムの内容を理解していませんでした。経験から、計算結果が少し可笑しい事は気付いていました。
エキセル(Excel)には簡単な図を描く機能が有ります。私は、ベーシックのプログラムを、ポンチ絵付きで、解説付きのExcelプログラムに直しました。大学教授が作成したプログラムには、結構沢山間違いが有りました。(トンデモナイ間違いの有るプログラムも有りました。)
(余談 :工学の計算) 多くの中小企業では、強度計算や力学の計算等が出来る社員がいません。私は個人的に、中小企業から「何回も作り替えたりしたが、直ぐに破損してしまうので、原因を究明して欲しい」と依頼された事が複数回有りました。その一例を書きます。
特殊な機械を設計/製造する中小企業(F社)が有りました。何方でもご存知の設備産業の大手(J社)から、F社が販売していた機械の能力の3倍程も超える大型機を受注していました。 私がチェックして見ると、強度不足で、手直しでは対応出来る状況では無く、再設計が必要でした。
強度計算書を持参して、社長と設計部長に説明したのですが、二人とも内容を全く理解出来ませんでした。社長が、「こんな難しい仕様を要求したF社が悪い」と恰も(あたかも)私をF社の社員の様に食って掛かりました。結局、強度計算書は突き返されました。
(余談 :残念な話し) 工業高校の機械科を卒業した後→→歯科技工士の専門学校に進んで資格を取得したのですが→→歯科技工士は供給過剰ですから、就職先が無く→→アルバイトしていた男性を機械設計担当者として採用した事が有りました。CADを少し教えただけで使える様になりました。その頃、私が手掛けていた機械について、少し教えただけで、ほぼ任せられる様になりました。私は、沢山の若者に機械設計を教えましたが、彼ほど才能の有る若者はいませんでした。
入社して数カ月後に、「友達が居酒屋を始めるので、辞めます」と言い出しました。「君ほど機械設計向きの人はいない、『天職だ』と思って頑張って欲しい」などと説得しました。「僕は、学校では何時も落ちこぼれだったので、そんな話しは信じられない」と言って、辞めてしまいました。今でも、残念に思っています。
【機械加工のデジタル化】
私が入社した1971年に、会社では大型コンピューターを用いたCADで作成したデーターで、工作機械を動かす『CAD/CAMシステム』を取り入れた部署が有りました。 ズット後に、大手企業企業ではパソコン(PC)CADデーターを少し細工して『CAD/CAMシステム』を動かす様になりました。
1990年代に電子メール(Eメール)が普及する様になると、注文企業がEメールにCADデーターを添付して発信し→→加工業者が図面をプリントアウトする様になりました。注文企業と受託企業間が数百キロメートル離れていても、超特急の場合は、Eメールした日から加工に着手出来る様になったのです。
量産機械加工をする多くの中小企業で、1990年には数値制御工作機械(NC加工機)を導入して、四直三交代で24時間、土日も操業する様になりました。
一番感心した工場は、広い工場の中にNC加工機を沢山配置して、中央にガラス張りの空調の効いた10畳ほどの部屋を設けて、女性のプログラマーを二、三人、四直三交代で勤務させて、プログラムに不備が有ると、夜中でもプログラムを修正出来る体制にしていました。NC加工機を操作する作業員の40%程は女性でした。
残念ながら、この工場は10年程して閉鎖されました。顧客の多くが中国に生産拠点を移したので、注文が段々減少したのが原因だった様です。
【N社のデジタル化】
1996年に私が最初に出向したN社は、社員30名程で、製紙機械を設計/製造していました。制御設計担当者2名だけがPCで作業していました。1年もしない内に、機械設計用の(余り売れていない国産)CADを導入しましたが、相変わらず手書きで図面を作成していました。 私は会社(K社)の都合で、4年後にN社から→→別の会社へ→→・・・→→また別の会社に出向させられ、60歳の定年を迎えました。
10年後の2006年に、(定年になる直前に、)N社の社長から「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂いたので、入社しました。 10名程の設計担当者は全員PCで仕事をして、CADを使っていました。 62歳になられていた社長もPCをマスターされていました。
作成したデーターを各自が、自分用のCD-RW(Compact Disc ReWritable)に保存していました。 私は、「火災などでデーターが消失する恐れが有るので、全員のデジタルデーターを部として集めたCD-RWを作成して→→→コピーを火災の恐れの無い場所に保管すべきだ!」と提案しました。 誰も耳を貸してくれませんでした。
社長の友人が経営する会社で火災が発生して→→事務所が全焼して→→PCが焼けてしまったそうです。 次の日に、社長は私の提案を採用してくれました。 各設計部員のデータを→→部のCD-RWに定期的に入れ→→定期的に2部コピーして→→1部は火の気の無い工場の倉庫→→1部は社長の自宅に保管する事になりました。
(余談 :若く見える女性の虐め) 2006年頃に、AutoCADとマイクロソフト社のオフィスに入っているソフトが使える女性を探す事になりました。私の知り合いの人材派遣社に、「見習期間が過ぎて、気に入ったら、2ヶ月分の給与相当額を渡すから、正社員にする」と言う条件を出しました。40歳過ぎの女性を紹介してくれました。
彼女は、直ぐにN社が採用していたCADも使える様になり、AutoCADに変換した時の『化け』を修正出来る様になりました。 英語の知識も少し持っていたので、私が英文の見積書や取扱説明書を作成する時、手伝って貰いました。 仕事は早いし、ミスが殆ど無かったので、彼女を正社員しました。多分妬みが原因だったと推察しましたが、男性社員の一人(M氏)が彼女を虐める様になって、彼女は一年程して退職してしまいました。 虐めは犯罪です。特に男性が女性を虐めるのは見ていられません!
私はM氏に、「彼女のどこが気に入らないのか?」と聞くと、「10歳以上若く見えるので、虫酸が走る!」と言いました。確かに彼女は小柄で可愛らしい顔をしていて、若く見えました。精神科の先生だったら、彼に良いアドバイス出来たかも知れませんが、私にはどうする事も出来ませんでした。
【CAD教室】
2005年頃の話しです。某社の設計担当者だった資産家の男性(T氏)が神戸市の洒落たビルの広いスペースを借りて、機械設計のCAD教室を始めました。三次元CADを教えるのだったら、生徒が集まったと思いますが、T氏は二次元CADしか使え無かったのです。
私の知る限りでは、工業高校の卒業生の場合は、PCの操作は出来ます。機械科卒だと、二次元CADは直ぐに使用出来る様になります。従って、CAD教室に入るのは、普通科卒が大半です。 普通科卒でも、三角法とAutoCADを教えて、企業に送り出せば十分です。然し、それでは、1~2カ月程でCAD教室は教える事が無くなってしまい、経営が成り立ちません。
私はT氏に、「二次元CADを教え→→次に三次元CAD→→CAD/CAMを教える様にしたら、1年間は有意義な学習になる」とアドバイスしました。T氏は「機械工学の基礎を教えたい」、「ドンナ内容にしたら良いか?考えて欲しい」と言いました。
1ヶ月ほど掛けて、報告書を作成し→→T氏に説明しようとしたのですが→→T氏は私が話し始める前に→→「生徒達の多くは、高校の勉強が好きで無かったと思われる。そんな子供を机に座らせて教えても身に付くはずがない!」と言い出しました。私も同感でした。 暫くして、T氏はCAD教室を止めた様でした。
民間企業では、「ドンナニしてデジタル化を進めたのか?」二回に分けて投稿します。「国や地方公共団体は民間企業の努力した歴史を参考にすべきだ!」と思うからです。
【大企業のデジタル化】
(50年以上も前の)1971年に私はK社に入社したのですが、会社にはIBM製と富士通製の大型コンピューターが各1台導入されていて、デジタル化が始まっていました。本社・支店・工場などの殆どの部署に大型コンピューターに接続された端末機(表示機、キーボード、簡易プリンター等)が設置されていました。
【K社の製造管理プログラム】
K社はプログラマーを養成して社内用の種々のソフトを開発していました。その一つが『製造管理プログラム』です。このソフトは非常に良く出来ていて、私は良く利用しました。既に、アクセス権が設定されていました。
アクセス権の概要 :レベル1のアクセス権を認められると、その事業部の全ジョブ(仕事)の製造管理プログラムにアクセス出来ました。レベル2(ジョブの管理者)が認められると、彼が担当するジョブにだけアクセス出来、レベル3の社員はプログラムの限定した範囲にしかアクセス出来ない、・・・。
営業部署の『A』が機械装置『B』を受注したとします。営業Aが近くの端末から製作命令書をインプットすると→→大型コンピューターシステムの中に『B』用の経理データ・ファイルが出来ます→→設計担当者が部品『C』を手配すると→→資材担当者が金額を決めて→→『D社』に発注し/インプットします→→受け入れ検査部署に部品Cが入荷すると→→「検査に合格して受け入れた」とインプットします→→経理部が資材担当者が決めた部品Cの代金をD社に支払い→→「支払済み」とインプットします。
私が勤務していた会社(K社)では、部品点数が数千点にもなる大型の機械装置を製造していました。上記の様な作業を手書きでやっていたら、トンデモナイ人手と書類の山が出来てしまいます。どこかの部署が部品を1点でも手配するのを忘れたら、装置は完成出来ません。このシステムでは、発注したか?、予定通りに入荷するか?、予算内で発注されているか?・・・種々の情報を得られる様になっていました。
入社した頃は、アルファベット、英数字、カタカナしか使用出来ませんでしたが、暫くして漢字、平仮名も使用出来る様になりました。その後、受け入れた部品の保管場所も登録される様になりました。
その後、本格的な自動倉庫が導入されると、倉庫の何処に保管したか?何時/誰が倉庫から持ち出したか?・・・等の情報が製造管理プログラムで分かる様になりました。
(余談 :社内の抵抗/悲惨な結果) 万年黒字の工場が有りました。その工場で製造する装置は一式数千万円~数億円しました。社外から調達する部品は1点が数十万円~数百万円もしました。部品点数が少なく、手配と経理処理が簡単だったのです。 社外から物を調達する資材課の役割を兼ねた経理課が有りました。
1988年に私が所属していた課が、(手掛けていた装置を持って、)その工場に転属になりました。工場長に呼ばれて、「君達の装置は部品点数が多いいから、君を設計課と経理課の兼務にする」と言われました。経理課に挨拶に行くと、課員全員が大きな声で私を罵倒し始めました。
当時、定年は60歳に延長されていましたが、55歳になる前に殆どの社員は子会社か協力会社に出向するか、早期退職していました。経理課の担当者達は全員55歳以上でした。彼らの言い分は、「パソコン(PC)を使ったら、二人で十分仕事がこなせる→→そしたら、残りの人間は出向させられる→→もう直ぐ定年だから→→PCは断固拒否する」、「君達の装置の資材と経理の仕事はするから、手出しするな」でした。
会社は、(その数か月前に、)気の弱い社員(E氏)を課長に昇格させて、経理課長に異動させていました。 E氏は色々な部署から連日の様に、『製造管理プログラム』を使えと言われ、課員からは無視され続けていました。私達が転勤して直ぐに、胃潰瘍になって入院してしまいました。二、三カ月ほどして退院したのですが、課員達はPCを拒否し続けたので、E氏は数カ月後に亡くなってしまいました。
【社内メール・システム】
私は、1972年からノルウェーの兵器廠・コングスベルグ・ヴァペン・ファブリーク(現在:コングスベルグ・グルッペン)と技術提携してガスタービンを国産化するチームに参加しました。資料は全て英語で、連絡も英語でした。私は英語が苦ってだったので、課長が私を鍛える為に、コングスベルグ社への報告書/質問書の作成、コングスベルグ社から来たレターの翻訳等をほぼ100%やらされました。
ノルウェーは冬季オリンピックで活躍するので、日本人の多くは国名は知っているのでは?と想像します。人口は、兵庫県とほぼ同じ540万人程の小さな国です。(現状は知りませんが)当時は優秀な若者達はアメリカの大学に進学していました。コングスベルグ社の上層部は殆どハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業していました。
ビックリ!したのは、大型コンピューターを使用した社内メールシステムが既に有った事です。 報告書の上部に配布先欄が有り、数字が記載されていました。 『1』は社長、『2』は副社長、・・・『21』は”2”と言う部署のトップ・・・。配布先欄に数字を記入すると、自動的に発信した様でした。
作成した報告書は、キーワードを付けて大型コンピューター・システムに記録されていました。私がテレックスで技術的な質問をすると→→担当の女性が受け取って→→過去に似た質問をしていたら→→彼女から「〇月✕日の報告書を見て下さい」と言うテレックスが送られて来ました。
私が勤務していたK社で、アップルのパソコンとソフトを使用した社内メール・システムを導入し始めたのは1990年頃です。日本では早い方だったと思いますが、コングスベルグ社よりも20年以上遅れていたのです。 アット言う間に社員は社内メールを利用する様になりました。私のパソコンで作成した文章を、社内メール・システムで送って、遠くの営業所のプリンターで印刷出来る様にもなりました。
【中小企業のデジタル化】
25年程前の1996年に私は中小企業に出向しました。私が出した出向条件は「パソコン(PC)を用意してくれること」でした。 会社の都合などで数社の中小企業で働きました。 正に、中小企業でPCの採用(デジタル化)が始まっていました。
会社ではアップルのPCを使用していたのですが、出向する事が決まった時、若い社員達が「ウインドウズ(Windows)のPCが主流になって来る」とアドバイスしてくれたので、Windowsの入ったノートパソコンを買いました。出向した中小企業でアップルのPCを使用していた所は皆無でした。
大企業と中小企業の違いは、大企業ではプログラマーを育てて、社内で使うソフトを作成していましたが、中小企業では市販のソフトを使うのが精一杯だった点です。
旧帝大の機械工学科卒の社長の会社で、(母校の教授に依頼して作って貰った)ベーシックを使った技術計算プログラムを数点使用する会社が有りました。社長も含め誰もベーシックを勉強していなかったので、プログラムの内容を理解していませんでした。経験から、計算結果が少し可笑しい事は気付いていました。
エキセル(Excel)には簡単な図を描く機能が有ります。私は、ベーシックのプログラムを、ポンチ絵付きで、解説付きのExcelプログラムに直しました。大学教授が作成したプログラムには、結構沢山間違いが有りました。(トンデモナイ間違いの有るプログラムも有りました。)
(余談 :工学の計算) 多くの中小企業では、強度計算や力学の計算等が出来る社員がいません。私は個人的に、中小企業から「何回も作り替えたりしたが、直ぐに破損してしまうので、原因を究明して欲しい」と依頼された事が複数回有りました。その一例を書きます。
特殊な機械を設計/製造する中小企業(F社)が有りました。何方でもご存知の設備産業の大手(J社)から、F社が販売していた機械の能力の3倍程も超える大型機を受注していました。 私がチェックして見ると、強度不足で、手直しでは対応出来る状況では無く、再設計が必要でした。
強度計算書を持参して、社長と設計部長に説明したのですが、二人とも内容を全く理解出来ませんでした。社長が、「こんな難しい仕様を要求したF社が悪い」と恰も(あたかも)私をF社の社員の様に食って掛かりました。結局、強度計算書は突き返されました。
(余談 :残念な話し) 工業高校の機械科を卒業した後→→歯科技工士の専門学校に進んで資格を取得したのですが→→歯科技工士は供給過剰ですから、就職先が無く→→アルバイトしていた男性を機械設計担当者として採用した事が有りました。CADを少し教えただけで使える様になりました。その頃、私が手掛けていた機械について、少し教えただけで、ほぼ任せられる様になりました。私は、沢山の若者に機械設計を教えましたが、彼ほど才能の有る若者はいませんでした。
入社して数カ月後に、「友達が居酒屋を始めるので、辞めます」と言い出しました。「君ほど機械設計向きの人はいない、『天職だ』と思って頑張って欲しい」などと説得しました。「僕は、学校では何時も落ちこぼれだったので、そんな話しは信じられない」と言って、辞めてしまいました。今でも、残念に思っています。
【機械加工のデジタル化】
私が入社した1971年に、会社では大型コンピューターを用いたCADで作成したデーターで、工作機械を動かす『CAD/CAMシステム』を取り入れた部署が有りました。 ズット後に、大手企業企業ではパソコン(PC)CADデーターを少し細工して『CAD/CAMシステム』を動かす様になりました。
1990年代に電子メール(Eメール)が普及する様になると、注文企業がEメールにCADデーターを添付して発信し→→加工業者が図面をプリントアウトする様になりました。注文企業と受託企業間が数百キロメートル離れていても、超特急の場合は、Eメールした日から加工に着手出来る様になったのです。
量産機械加工をする多くの中小企業で、1990年には数値制御工作機械(NC加工機)を導入して、四直三交代で24時間、土日も操業する様になりました。
一番感心した工場は、広い工場の中にNC加工機を沢山配置して、中央にガラス張りの空調の効いた10畳ほどの部屋を設けて、女性のプログラマーを二、三人、四直三交代で勤務させて、プログラムに不備が有ると、夜中でもプログラムを修正出来る体制にしていました。NC加工機を操作する作業員の40%程は女性でした。
残念ながら、この工場は10年程して閉鎖されました。顧客の多くが中国に生産拠点を移したので、注文が段々減少したのが原因だった様です。
【N社のデジタル化】
1996年に私が最初に出向したN社は、社員30名程で、製紙機械を設計/製造していました。制御設計担当者2名だけがPCで作業していました。1年もしない内に、機械設計用の(余り売れていない国産)CADを導入しましたが、相変わらず手書きで図面を作成していました。 私は会社(K社)の都合で、4年後にN社から→→別の会社へ→→・・・→→また別の会社に出向させられ、60歳の定年を迎えました。
10年後の2006年に、(定年になる直前に、)N社の社長から「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂いたので、入社しました。 10名程の設計担当者は全員PCで仕事をして、CADを使っていました。 62歳になられていた社長もPCをマスターされていました。
作成したデーターを各自が、自分用のCD-RW(Compact Disc ReWritable)に保存していました。 私は、「火災などでデーターが消失する恐れが有るので、全員のデジタルデーターを部として集めたCD-RWを作成して→→→コピーを火災の恐れの無い場所に保管すべきだ!」と提案しました。 誰も耳を貸してくれませんでした。
社長の友人が経営する会社で火災が発生して→→事務所が全焼して→→PCが焼けてしまったそうです。 次の日に、社長は私の提案を採用してくれました。 各設計部員のデータを→→部のCD-RWに定期的に入れ→→定期的に2部コピーして→→1部は火の気の無い工場の倉庫→→1部は社長の自宅に保管する事になりました。
(余談 :若く見える女性の虐め) 2006年頃に、AutoCADとマイクロソフト社のオフィスに入っているソフトが使える女性を探す事になりました。私の知り合いの人材派遣社に、「見習期間が過ぎて、気に入ったら、2ヶ月分の給与相当額を渡すから、正社員にする」と言う条件を出しました。40歳過ぎの女性を紹介してくれました。
彼女は、直ぐにN社が採用していたCADも使える様になり、AutoCADに変換した時の『化け』を修正出来る様になりました。 英語の知識も少し持っていたので、私が英文の見積書や取扱説明書を作成する時、手伝って貰いました。 仕事は早いし、ミスが殆ど無かったので、彼女を正社員しました。多分妬みが原因だったと推察しましたが、男性社員の一人(M氏)が彼女を虐める様になって、彼女は一年程して退職してしまいました。 虐めは犯罪です。特に男性が女性を虐めるのは見ていられません!
私はM氏に、「彼女のどこが気に入らないのか?」と聞くと、「10歳以上若く見えるので、虫酸が走る!」と言いました。確かに彼女は小柄で可愛らしい顔をしていて、若く見えました。精神科の先生だったら、彼に良いアドバイス出来たかも知れませんが、私にはどうする事も出来ませんでした。
【CAD教室】
2005年頃の話しです。某社の設計担当者だった資産家の男性(T氏)が神戸市の洒落たビルの広いスペースを借りて、機械設計のCAD教室を始めました。三次元CADを教えるのだったら、生徒が集まったと思いますが、T氏は二次元CADしか使え無かったのです。
私の知る限りでは、工業高校の卒業生の場合は、PCの操作は出来ます。機械科卒だと、二次元CADは直ぐに使用出来る様になります。従って、CAD教室に入るのは、普通科卒が大半です。 普通科卒でも、三角法とAutoCADを教えて、企業に送り出せば十分です。然し、それでは、1~2カ月程でCAD教室は教える事が無くなってしまい、経営が成り立ちません。
私はT氏に、「二次元CADを教え→→次に三次元CAD→→CAD/CAMを教える様にしたら、1年間は有意義な学習になる」とアドバイスしました。T氏は「機械工学の基礎を教えたい」、「ドンナ内容にしたら良いか?考えて欲しい」と言いました。
1ヶ月ほど掛けて、報告書を作成し→→T氏に説明しようとしたのですが→→T氏は私が話し始める前に→→「生徒達の多くは、高校の勉強が好きで無かったと思われる。そんな子供を机に座らせて教えても身に付くはずがない!」と言い出しました。私も同感でした。 暫くして、T氏はCAD教室を止めた様でした。