- 松永史談会 -

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東洋大学学術リポジトリ

2014年06月01日 | 断想および雑談
東洋大学学術リポジトリ

東洋大学の中での高島平三郎に対する記憶は・・・・

教員名簿を見ながら「高島平三郎は心理学の先生」(上原 恒治(東洋大卒、東洋大職員)「大正期の学園」東洋大学1,1883)

 郷さんとか、境野先生とよく話をしました。私は境野先生にかわいがられまして、着物をつくってくれたり、よく雑誌など買ってくれたりなんかして、とてもお世話になりました。アメリカへ行かれたときなんか、絵はがきを私が好きだということを知っておられたのかして、旅行中になんども絵はがきの便りを送ってくれたんですよ。
 (教員名簿をみながら)先生方だな。石川義昌、これは時事新報かなんかの記者をしていた人だな。田部重治先生、みんなとよく話される、静かな先生でした。和辻哲郎、哲学の先生か。尾上八郎、柴舟という先生。得能文、この先生も古いんだよな。高島平三郎は心理学の先生だよね。高桑駒吉というのは何の先生だったかな、「おれは学問やったから馬鹿になった」なんていう、面白い方だったね。



「偉い先生というのでわたしが覚えているのは・・・・中島徳蔵、高島平三郎、吉田熊次先生たち」(西義雄(東洋大教授)「昭和初期の学園」、東洋大学史紀要3、1985、P.124

 「そういったら、皆約束しますということだったので、こういう学校だ、学祖は護国愛理を説いたということを話したら、大倉さんは私の趣旨に全く同じだということで、内諾を得たんです。あとでまた四人やってきたので、私もそのときは出ない、君たちも出ないで偉い先生達に交渉に行ってもらってくれということにしたんですが、偉い先生というので、私が覚えているのは、中島徳蔵高島平三郎吉田熊次先生達です。この当時の偉い先生が三、四人で正式交渉をされて、十二年から大倉さんが事務員を連れてきて学長になられました。」

関寛之(高島平三郎の弟子)時代、東洋大学子供会が出来、キャンパスに3000人もの子供が集まったことがある(P.118)。

「 社会事業科とこども会
  ーさっきの文化学科と並んで、社会教育社会事業科というのがあったんです。
 西 朝原梅一さん(卒業生で、当時、教授で理事をやっていた)という人が熱心で、その人が社会事業科を始めたと思います。それは大正時分からあったんですよ。
   大正十三年三月から卒業生が出ていますね。
 西 やっぱり文化学科と同じぐらいじゃないんですか。夜学です。私の友人でいまでも生きている野村徹翁というのは、そこの第一回の卒業生で、伏見の地蔵院(油懸山地蔵院西岸寺)にいます。まだ元気でいるはずですが、寮に一緒にいました。
その時分の社会事業科の女性にもなかなかいいのがいましたよ。珍しい学科ですからね。朝原さんのときの東洋
大学の子供会は有名で、たいへんな子供が坂の下のほうからもやってきました。
    子供会というのは東洋大学子供会ですね。白山でやったんですか。
 西そうです。この上で。
    『観想」なんかにそのプログラムが載っています。
 西 そうですか。私も一、二回出たことがあるけれども、たいへんな子供でした。記憶に誤りがあるかもしれませんが、講堂が建ったときにやったのなんかは、小さい子供が三千人ぐらい来て、二階でもなんでも鈴なりになって、満員なんです。たいへんな子供がこの辺にいるもんだなと思いました。(笑)東洋大学の子供会はたいへんなものだと外部でもいっていましたよ。
  ー社会事業科と関係があるんですか。
 西 朝原さんに聞いてもらうとよくわかります。子供会の会長か何かでしょう。
  ー昭和九年ですと、もう大講堂は落成しているころですね。
 西 その前から子供会をやっていたんですが、ぼくの覚えているのはその頃のこと。
    昭和三年の子供会のプログラムがあります。
 西なかなか盛んでした。関寛之さんも知っています。始めたのは飯田尭一さんだと思いますよ。
    そうですね。大正十二、三年ごろから始まっているわけですから。ところで塚本哲さんも十五年に社会事業科を出ておられます。」



 「西 ええ。各県から出ている軍の協力者になったんです。そこで、陸海軍の中将以上を大倉山に呼んだりする
という会がありました。研究所はだんだんやめることになって、そのときいま日本大学の教授になって活動している古田紹欽、死んだけれども国学院大学の教授をしていた神道の西田長男といった連中が私の下にいたんですが、原田君が首を切ると言い出したんです。
 古田と西田は私の下だったものですから、こういうことで困ったと報告するから、私は「首を切ってはいかん。」
と申し出た。「首を切るなら私も辞める。」と言って、「首を切るということではなくて、研究ということにしたらどうか。私は大倉精神文化研究所の研究の看板を持っておりる」と大倉先生にいったら、「それはしょうがないだろう」というわけです。それで十八年の十 月ごろに私は大倉山を辞めたんですが、そのとき西田と古田も辞めました。ほかの研究員はもう辞めてしまっていたんです。
 そのころ、橘高君が東洋では大いに頑張っていたんですが、十九年の三月に米峰氏が辞めたんです。和歌山県かどこかに動員に行っていた学生が騒いで、卒業式のときに坂本幸男などが殴られたということがあったらしい。私は卒業式に出ていないんでよく分りませんが、二之宮が加わっていたとかなんとかいうことを、あとで聞きましたが、それは知りません。
 それで高嶋米峰が「おれは命にかかわるから学長は辞める」といってどうしても再選に応じない。そのあとで選考したのが高島平三郎なんです。高島平三郎学長の幹事長が橘高氏で、「ぼくは今度幹事長になったんだが、君は学生主事長になってくれ」と頼まれました。」

結論 東洋大学では大学として学祖:井上円了の研究には熱心。その他はなし。
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