- 松永史談会 -

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明治31年当時の高島平三郎家における言葉使い

2014年06月02日 | 教養(Culture)
児童研究1-2(明治31年12月)を見ていたら幼児の妖怪イメージに関する記事(無記名だが高島平三郎執筆)が載っていた。これは連載されていた「児童と猿族と」(ヒトとサルの個体発生上の特徴の比較を行い、サルの嬰児はヒトの児童に近いが成長するにしたがって両者の差はとてつもなく大きくなると指摘)に関連した記事として掲載されたものだ。


ある母とは高島の妻・寿子のことで、長男文雄(明治27年7月1日生まれ)の育児日記を平三郎の指示でつけていた。高島はわが子の事例を抽象化して、満三歳の幼児が想像する妖怪とはどんなものなのかを例示している。
31年7月20日とは日記の日付。満三歳のお誕生日が終わった時期である。
坊・・・・文雄のことを”坊”と呼んでいる。文雄も自分自身のことを”坊”と表現。母上とは平三郎の母親:加壽子(カズ)
平三郎は江戸っ子風の人物だったらしいが、育児日記の文面はこんな感じだ。
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坊がおばけがいると言いしに、母上がおばけというものがいるかね~と、お尋ねなされしゆえ、坊は「いるよ、坊、長野にいるときに見たの」と答えぬ。母上、またどんなものでしたと仰せられたれば「顔がお猿のようで、首が赤くて、手がなくって、あんよばっかりで、しっぽに毛があるの」と申し上げたり。


満三歳の文雄が答えた妖怪は、おそらく平三郎の解釈も加えられ前掲のような前肢のないサルでイメージ化されている。3歳の幼児が異類(動物)のイメージを持ちだし、身体の一部が一つ目小僧のように欠落したフリークスを妖怪と答えたわけだが、「顔がお猿のようで、首が赤くて、手がなくって、あんよばっかりで、しっぽに毛があるの」という答えはちょっと三歳児のものとして構文が整いすぎ、相当に大人染みているので母親寿子の脚色が加わっているか、母親or父親あるいはその他の家族から刷り込まれた童話中のイメージを文雄が単に模倣/変形(加工や添削)し答えただけの可能性もある。
それはともかく、当時高島家では広島弁ではなく、こんにち我々が使っている標準語(東京方言、山の手言葉)が流通していたことがわかる。
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