高島平三郎は筆まめだったとみえ、よく井上哲次郎に絵葉書を送っている。ここで紹介するのは『高島先生教育報国60年』に収録された平三郎46歳時の息子に宛てた旅先(名古屋の志那忠旅館→信忠閣)からの一通の手紙だ。
東京帝大医学部教授永井にとって高島は恩人だった。高島は10歳違いのこの人物を幼少期(神童ぶりは長谷川櫻南経営の浚明館@松永では有名だった)から自分の身内のように思って親身に接してきたらしい。
高島の長男文雄(1895-)は東京高等師範付属中学時代、永井の自宅に下宿し、そこから学校に通っていたようだ。手紙はその永井宅宛てに出されたものだ。当時永井の家には東京帝大の法科の学生だった弟河相達夫(1889-1966)が同居していた。高島にしてみれば長男文雄が永井・河相らの感化を受けながら育つことを期待していたのだろか。超多忙な高島ではあったが、高島が思春期にある文雄にいかに神経を使っていたかが透かし見えてくる、実に情愛に満ちた感動的な内容。しかし、息子に「第二の高島平三郎」を目指せというわけだから息子としてはやはり心の負担になったかも(『高島先生教育報国60年』で文雄は自分たちはのびのびと育てられたと述懐)。
当時高い学閥の壁に幻滅させられることが頻発していたのか、高島自身の言葉では学歴のない自分は容赦なくアカデミズム圏外の人間として疎外されていると(だから文雄は最高学府を目指せという話になる)。牧野富太郎と高島の差は片や専門分野一筋、片や自分のイメージしている十分の一も専門領域の事が出来なかったとこぼさざるを得なかった辺りだろか(「自分の思っていることの10分の1」発言は『高島先生教育報国60年』において晩年に至っても高島自身が繰り返している。高島の謙虚さの発露だと思われるが、若いころ文雄に宛てた手紙の中でのその言葉は、おそらく将来自分の思っていることを思い通りに実践するためにも今はしっかりと勉強を!といった親心の込められたものだろか)。その点で多兎を追い日蓮研究に嵌ってしまっていた高島だったが、心理学関係者からの陰口を気にかけつつも、文面からは日蓮の生き方に学者としての高島のそれを重ね合わせた時に共感するところが大きいと書いている。当時一部の知識人の間では国柱会等への入会が流行するなど日蓮思想の再検討が進められている。
写真は長男文雄(当時13歳、長じて1964年東京五輪・聖火空輸派遣団の団長を務めた東京帝大卒の弁護士、文雄の子弟:岩崎家・豊田家といった我が国財界を代表する名家との姻戚関係を構築)と平三郎(明治41年3月頃)
東京帝大医学部教授永井にとって高島は恩人だった。高島は10歳違いのこの人物を幼少期(神童ぶりは長谷川櫻南経営の浚明館@松永では有名だった)から自分の身内のように思って親身に接してきたらしい。
高島の長男文雄(1895-)は東京高等師範付属中学時代、永井の自宅に下宿し、そこから学校に通っていたようだ。手紙はその永井宅宛てに出されたものだ。当時永井の家には東京帝大の法科の学生だった弟河相達夫(1889-1966)が同居していた。高島にしてみれば長男文雄が永井・河相らの感化を受けながら育つことを期待していたのだろか。超多忙な高島ではあったが、高島が思春期にある文雄にいかに神経を使っていたかが透かし見えてくる、実に情愛に満ちた感動的な内容。しかし、息子に「第二の高島平三郎」を目指せというわけだから息子としてはやはり心の負担になったかも(『高島先生教育報国60年』で文雄は自分たちはのびのびと育てられたと述懐)。
当時高い学閥の壁に幻滅させられることが頻発していたのか、高島自身の言葉では学歴のない自分は容赦なくアカデミズム圏外の人間として疎外されていると(だから文雄は最高学府を目指せという話になる)。牧野富太郎と高島の差は片や専門分野一筋、片や自分のイメージしている十分の一も専門領域の事が出来なかったとこぼさざるを得なかった辺りだろか(「自分の思っていることの10分の1」発言は『高島先生教育報国60年』において晩年に至っても高島自身が繰り返している。高島の謙虚さの発露だと思われるが、若いころ文雄に宛てた手紙の中でのその言葉は、おそらく将来自分の思っていることを思い通りに実践するためにも今はしっかりと勉強を!といった親心の込められたものだろか)。その点で多兎を追い日蓮研究に嵌ってしまっていた高島だったが、心理学関係者からの陰口を気にかけつつも、文面からは日蓮の生き方に学者としての高島のそれを重ね合わせた時に共感するところが大きいと書いている。当時一部の知識人の間では国柱会等への入会が流行するなど日蓮思想の再検討が進められている。
写真は長男文雄(当時13歳、長じて1964年東京五輪・聖火空輸派遣団の団長を務めた東京帝大卒の弁護士、文雄の子弟:岩崎家・豊田家といった我が国財界を代表する名家との姻戚関係を構築)と平三郎(明治41年3月頃)