東京帝国大学から西片町一帯は戦災に会わなかったようだ。それに対して後楽園一帯は広範に焼け野が原状態。
柴田徳衛によれば、
江戸の大名屋敷は維新以後になると自己の邸宅用に広大な地所を確保し、残余の土地は細かく再分化して多数の借地借家にあて、旧大名たちはそれを収入源とした家計の維持をはかるようになった。それに対して福山藩主阿部は藩士の長屋を区画整理し、有識者や学者を優先的に入居させ、銭湯、下宿、店舗の開業を禁止し、その代わりに公園、学校を設けたと。こういう阿部家の方針が「学者町」の誕生を促進させた訳だ。
本郷西片町の歴史
西片の年表(以下全文引用)
江戸時代
1610 慶長15 阿部家2代正次 将軍秀忠より「本郷丸山」10万余坪拝領。
1697 元禄10 5代正邦 丸山下屋敷の内、13,000坪を幕府に上地(現丸山新町)。
1725 享保10 6代正福 丸山下屋敷の内、6,850坪を幕府に上地(現丸山福山町)。
1818 文政01 9代正精 丸山邸内藩校(福山藩文武教習所)創立し、孔子像礼拝。
同 5月丸山邸内に天文測量場創立(石坂常賢が管理。常賢はこの年『分度星図』を完成、文政8年 に幕府「天文方」に採用される)。
1827 文政09 同 6月正精逝去し、8月天文測量場廃止。
8歳の阿部正弘 江戸城西丸下の老中役宅より丸山邸内に移る。
1833 天保04 10代正寧 15歳の阿部正弘 丸山邸内滝五郎御殿跡に住む(~天保7)。
1843 天保14 11代正弘 阿部正弘老中に(25歳)。
1845 天保16 同 阿部正弘老中首座に(27歳)。
1852 嘉永05 同 全焼の江戸城西丸普請の功績により1万石が加増、藩校誠之館設立費用に充てる(嘉 永6年、邸内の藩校を誠之館と改称)。
1854 安政01 同 日米和親条約。江戸丸山誠之館開講。翌年福山誠之館開講。
1855 安政02 同 江戸大地震で辰の口上屋敷倒壊のため、正弘と奥方は丸山中屋敷に仮住まいし、正弘 は馬で江戸城に通う。
1857 安政04 同 春に丸山中屋敷にて甲冑調練(大小砲空発。本陣は誠之館)。
6月正弘逝去(享年39歳)。
1867 慶応03 13代正方 大政奉還
明治時代
1868 明治01 江戸城開城 慶応から明治へ改元。
1869 明治02 版籍奉還で14代正桓氏、福山藩知事となって赴任。
1871 明治04 廃藩置県。正桓氏は丸山の地を本邸とする。邸内で養蚕事業開始。
1872 明治05 西片町誕生。貸地貸家経営始める。「(西)御殿前通り」(現阿部通り)開通。
1875 明治08 誠之小学校開校。「大通り」(現学校通り)開通。 町内に養蚕室を建築。
1878 明治11 本郷区誕生。
1880 明治13 清水橋(から橋)が架けられ、橋下を通る「清水通り」開通。
1883 明治16 阿部家の貸地に有斐学校建つ。(明治23年返地)。
1884 明治17 「桑の小路通り」開通(養蚕のための桑畑を住宅地にした)。正桓氏伯爵に。
1885 明治18 田口卯吉邸「へノ14」洋館建築(現在国登録文化財)。久徴館新築(加賀藩学生寮。館長桜井錠 二。28年廃止)。
1887 明治20 誠之小学校内に幼稚室設置(後に誠之小学校付属幼稚園)。旧「新坂」開通。
1888 明治21 西片町十番地内に「いろは番号」をつけて、各戸に木札配布(300戸)。十番地以外の1~22は 表組とする。
1889 明治22 上田敏(詩人、小説家、翻訳家、東大教授)が田口卯吉宅「へノ14」に寄宿(→明治32年に7番→ 10番にノ44→明治42年京都へ転居)。
1890 明治23 阿部家本邸新築工事着工。 旧養蚕室を改造して誠之舎竣工(福山藩学生寮)。
1891 明治24 阿部家本邸完成。門前の「大椎の木の広場」を整備し、大椎の木の周囲に柵。
樋口一葉は上野図書館からの帰途、から橋の下を通る(日記)。
鈴木大拙が久徴館に下宿。
1892 明治25 樋口一葉の師・半井桃水が河村重固宅「はノ1」に寄宿(河村の妻は桃水の従姉妹)。この家を樋 口一葉が数回訪ねる。
1894 明治27 中根重一(福山藩士で夏目漱石の妻鏡子の父)貴族院書記官長に(鏡子は明治29年に熊本で 漱石と結婚)。武田五一(後に清水橋や阿部邸洋館を設計)誠之舎に入舎。町内に街灯設置。
1895 明治28 滝廉太郎、西片町九番地に住む(31年に麹町へ転居)。
1897 明治30 誠之小学校付属幼稚園が現在の第一幼稚園の地に新築移転(「ほノ7」)。
1898 明治31 新「石坂」開通。田口武次郎宅「へノ4」に水道設置。電灯線設置。
木下杢太郎が西片町に住む(昭和12年「はノ8」へ転居)。
1899 明治32 町内に水道鉄管敷設。
1900 明治33 寺田寅彦、西片町「いノ16」へ(明治35または36まで居住)。
1903 明治36 二葉亭四迷、西片町「ろノ14」に住む(2年後に「にノ34」へ転居)。
町内にガス管敷設。
1906 明治39 夏目漱石が12月に千駄木より「ろノ7」に転居
夏目金之助 本郷西片町十ロノ七(地図参照) 、明治40年9月14日書簡
このころ清水橋(から橋)架け替え工事行われる(武田五一設計)。
1907 明治40 漱石『虞美人草』執筆。9月早稲田に転居。
1908 明治41 4月魯迅が漱石の西片町旧居に友人5人と住み、「伍舎」と称す。10か月後
「はノ19」に転居し、翌年8月帰国。
誠之小は「東京市誠之尋常小学校」と改称。
1912 明治45 佐々木信綱「いノ16」に住む(昭和19年熱海へ転居)。
大正時代
1913 大正02 「大椎の木」暴風により衰弱が始まる。
1914 大正03 阿部正桓氏逝去。正直氏15代当主となる。
1915 大正04 史蹟名勝記念物「大椎樹」の石碑を大椎の木のそばに建立(現在も存在)。
1917 大正06 阿部家16代当主正道氏誕生。阿部家は馬車をやめ自動車にかえる。
正道氏は元西片町会会長。平成23年に亡くなられるまで西片町会名誉会長。
1923 大正12 関東大震災発生。阿部家本邸の一部を被災者に提供。誠之小学校と椎の木広場にも被災者。 町の人々は救援活動をし、これを機に旧西片町会創設。初代町会長は阿部家の家令大森ケン之 介氏。婦人会会長は正道氏祖母。
昭和時代
1928 昭和03 阿部家は本邸を外庭に新築して移り、「い」の新開地「いノ21~62」設立。
白山神社に阿部家旧応接間および土蔵(現神輿庫)寄贈。
1929 昭和04 旧町会建物を現在の会館の地「いノ24」に移築、模様替え。
1930 昭和05 椎の木広場を児童遊園とし「阿部公園」が誕生(元旦に開園式)。町の人々は「阿部さま公園」と 呼ぶ。公園東端に公園詰所あり。
福山坂(新「新坂」)開通。
1931 昭和06 葛原しげる「ろ‐5」より「い‐43」の新居に転居。
1937 昭和12 誠之舎「はノ23」に新築(現在の日銀寮地)。木下杢太郎「はノ8」へ転居。
このころ、木造の清水橋(から橋)はコンクリート造橋に架け替えか?
1940 昭和15 阿部公園に「世継ぎの椎」植樹(皇紀2600年祝賀西片町記念事業)。
1941 昭和16 誠之小は「東京市誠之国民学校」と改称。
1942 昭和17 阿部公園の一部を本郷消防署に貸す。公園詰所は「警防団詰所」になる。
1943 昭和18 町内の家々で防空壕。隣組組織・防空防火体制が強化。町内の出征者多し。
1944 昭和19 東京空襲に備え阿部家は公園の南側を国に寄付。公園に本郷消防署の西片町出張所招致。8 月~11月西片町の出陣学徒を町会として見送る壮行会(誠之小講堂)。8月佐々木信綱作詞・ 朝永研一郎作曲『西片町に住める学徒諸氏の出陣を送る』歌が壮行会で発表される。誠之小の 学童疎開開始(~20)。
1945 昭和20 8月ポツダム宣言受諾、9月降伏文書調印
1947 昭和22 旧西片町会解散(5月新憲法施行。連合軍総司令部により全国町会解散)。
6月西片会館建設委員会が設立される。 新教育制度導入により東京市誠之国民学校は文京 区立「誠之小学校」と改称。 終戦直後から町内で青年たちを中心にサッカー部(西片町クラブ)・ 西片町合唱団・ジャズバンドなどの活動盛ん。
1949 昭和24 「ほノ30」にあった交番廃止(佐々木信綱が桜の木を詠んだ交番)。阿部家は公園をすべて文京 区に無償貸与し、公園は区の管理となる。
版籍奉還後、阿部家の江戸屋敷は阿部家による養蚕業から,不動産業への転換の中で大きく変貌を遂げる。
本郷区西片町10番地図
東京市及接続郡部地籍地図. 上卷,コマ番号618/647
明治43年日本児童学会の会員名簿を見ると東京帝大のお膝元西片町を中心として本郷区に学会員が目立って多かったことが判る。因みに本郷区(45名)、四谷区(6)、小石川区(35)、牛込区(11)、赤坂区(11)、麻布区(6)、芝区(6)、麹町区(18)、京橋区(19)、日本橋区(8)、神田区(33)、下谷区(12)、浅草区(5)、本所区(3)、深川区(3)、東京府(郡部・・26)、京都府(55)、大阪府(35)、広島県(24)など
高島平三郎は大正2年4月27日 本郷西片町の誠之舎舎長を委嘱され、府下荏原郡大崎町字谷183番地(のちに東京市品川区)○より舎内に転居。現在誠之舎跡には日本銀行本店・誠之寮が建つ。
参考文献:
柴 田 徳 衛「江戸から東京へ――土地所有の変遷――」