哀歌1章
哀歌は、旧約原典では諸文書でルツ記の次ぎにあるが、エレミヤの後にくるのは70人訳による。現行聖書はエレミヤ哀歌とは言わない。1~4章は技巧的な「いろは歌」となっている。
2節「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」。夜もすがら泣き悲しむのは、バビロンの捕囚の民となっているからである。
エルサレムが擬人化されている。諸国の民から「女王」、「姫君」と目されたが(1節)、周囲の友はみな欺き、敵となった。
「慰める者」のないことが繰り返される(9、16、17、21節)。
5節「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し…、彼女の子らはとりことなり、…引かれて行った」。捕囚の原因は神に対する背反である。「エルサレムは罪に罪を重ねた」という(8節)。
9節「…ご覧ください。わたしの惨めさを~」。慰める者のないわたしを「ご覧ください」「聞いてください」と執拗に主に訴える(11、20、21節)。
14節「背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ力尽きてわたしは倒れ、刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった」。捕囚は、主から負わされた軛であると嘆き苦しむ。
軛を負う者らに呼びかける方がおられる。人となられたイエスである。
マタイ福音書11章28~30節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
ここで、軛は決して一頭で負う農具でないことに留意しなければならない。「わたしと共に軛を負う」ということである。
哀歌は、旧約原典では諸文書でルツ記の次ぎにあるが、エレミヤの後にくるのは70人訳による。現行聖書はエレミヤ哀歌とは言わない。1~4章は技巧的な「いろは歌」となっている。
2節「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」。夜もすがら泣き悲しむのは、バビロンの捕囚の民となっているからである。
エルサレムが擬人化されている。諸国の民から「女王」、「姫君」と目されたが(1節)、周囲の友はみな欺き、敵となった。
「慰める者」のないことが繰り返される(9、16、17、21節)。
5節「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し…、彼女の子らはとりことなり、…引かれて行った」。捕囚の原因は神に対する背反である。「エルサレムは罪に罪を重ねた」という(8節)。
9節「…ご覧ください。わたしの惨めさを~」。慰める者のないわたしを「ご覧ください」「聞いてください」と執拗に主に訴える(11、20、21節)。
14節「背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ力尽きてわたしは倒れ、刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった」。捕囚は、主から負わされた軛であると嘆き苦しむ。
軛を負う者らに呼びかける方がおられる。人となられたイエスである。
マタイ福音書11章28~30節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
ここで、軛は決して一頭で負う農具でないことに留意しなければならない。「わたしと共に軛を負う」ということである。