エゼキエル7章
1~4節 終末の宣言
2節「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る」。新改訳「『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た』」。これは緊急性を示す絶叫的な叫びである。これが、本章では10回も繰り返されている(2節=2回、3節、6節=4回、7節、10節、12節)。
3節「今こそ終わりがお前の上に来る…わたしは怒りを送り…裁き…忌まわしいすべてのことをお前に報いる」。終わりを告げるのは偶像礼拝の故である。
5~9節 災いが続く
5節「主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る」。災いは終わりの具体的な状態を表す。
6節「終わりが来る、終わりが来る、終わりの時がお前のために熟す」。終わりの叫びが連呼される。それは大混乱の日で山々には喜びの声が絶える(7節)。
9節「わたしは慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。…」。神の深い慈しみも、豊かな憐れみはもはや無い(5章11節)。
10~14節 審判の緊急性と不可避性
10節「見よ、その日を。今やその日が来る。順番が巡って来る。王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た」。岩波訳「不法が花咲き、うぬぼれが芽生えた。暴虐が起こり、邪悪の杖となった」。王杖(マッテハ)を不義(ムッテハ)と読み替え、ここではバビロンの王ネブカデネザルを指しているようだ。終りの時の表現である。
11節「…彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える」。破滅の激しさを示す。
13節「…群衆に対する審判の幻が、撤回されないからだ。罪のゆえに、誰一人命を保つことはできない」。審判の不可避性である。戦いの角笛を吹いても誰も出る者はいない(14節)。
15~19節 災禍を避けることはできない
16節「たとえ、逃れた者たちがのがれて山に行っても、皆、おのおのの自分の罪のゆえに谷間の鳩のように嘆く」。疫病と飢饉と外敵から逃れることはできない(17~19節)。
20~22節 美しい飾りも戦利品として敵の手に渡す
23~24節 民は鎖につながれて捕囚の民となり、国は荒廃する
25~27節 国に恐怖が襲う
25節「恐怖が臨む。彼らが平和を求めても、どこにもない」。この悪い知らせに、彼らが預言者に幻を求めても得られず、祭司から律法は失われ、長老には助言はない(26節)。王は嘆き、君候たちは恐怖にとらわれ、民の手は恐怖に震える(27節)。
これでもかこれでもかと徹底して終末を告げる。「末期症状」(元訳5節)である。
罪が赦されるのは神の奇蹟である。イザヤ1章18節、第1ヨハネ2章2節を読む。
1~4節 終末の宣言
2節「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る」。新改訳「『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た』」。これは緊急性を示す絶叫的な叫びである。これが、本章では10回も繰り返されている(2節=2回、3節、6節=4回、7節、10節、12節)。
3節「今こそ終わりがお前の上に来る…わたしは怒りを送り…裁き…忌まわしいすべてのことをお前に報いる」。終わりを告げるのは偶像礼拝の故である。
5~9節 災いが続く
5節「主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る」。災いは終わりの具体的な状態を表す。
6節「終わりが来る、終わりが来る、終わりの時がお前のために熟す」。終わりの叫びが連呼される。それは大混乱の日で山々には喜びの声が絶える(7節)。
9節「わたしは慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。…」。神の深い慈しみも、豊かな憐れみはもはや無い(5章11節)。
10~14節 審判の緊急性と不可避性
10節「見よ、その日を。今やその日が来る。順番が巡って来る。王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た」。岩波訳「不法が花咲き、うぬぼれが芽生えた。暴虐が起こり、邪悪の杖となった」。王杖(マッテハ)を不義(ムッテハ)と読み替え、ここではバビロンの王ネブカデネザルを指しているようだ。終りの時の表現である。
11節「…彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える」。破滅の激しさを示す。
13節「…群衆に対する審判の幻が、撤回されないからだ。罪のゆえに、誰一人命を保つことはできない」。審判の不可避性である。戦いの角笛を吹いても誰も出る者はいない(14節)。
15~19節 災禍を避けることはできない
16節「たとえ、逃れた者たちがのがれて山に行っても、皆、おのおのの自分の罪のゆえに谷間の鳩のように嘆く」。疫病と飢饉と外敵から逃れることはできない(17~19節)。
20~22節 美しい飾りも戦利品として敵の手に渡す
23~24節 民は鎖につながれて捕囚の民となり、国は荒廃する
25~27節 国に恐怖が襲う
25節「恐怖が臨む。彼らが平和を求めても、どこにもない」。この悪い知らせに、彼らが預言者に幻を求めても得られず、祭司から律法は失われ、長老には助言はない(26節)。王は嘆き、君候たちは恐怖にとらわれ、民の手は恐怖に震える(27節)。
これでもかこれでもかと徹底して終末を告げる。「末期症状」(元訳5節)である。
罪が赦されるのは神の奇蹟である。イザヤ1章18節、第1ヨハネ2章2節を読む。