日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

水のように心を注ぎ出せ

2010-01-16 | Weblog
哀歌2章

  「いろは歌」。エルサレムが崩壊していく有様を嘆き悲しむ

  1~10節 エルサレムは廃墟と化した
  1節「なにゆえ、主は憤りおとめシオンを卑しめられるのか。イスラエルの輝きを天から地になげうち、主の足台と呼ばれたところを怒りの日に、見放された」。口語訳「ああ、主は怒りを起し、黒雲をもってシオンの娘をおおわれた。主はイスラエルの栄光を天から地に投げ落し…」。口語訳が判りやすい。イスラエルは主の怒りによって投げ捨てられ、エルサレムは輝きを失ったのである。
  エルサレムの祭儀は消え失せ(6節)、祭壇も聖所もなく(7節)、城壁と城郭は敵の手に渡され(7~8節)、王も君候も預言者、長老も主から見放されている(9~10節)。

  11~14節 町の広場には飢えと悲しみの民 
  12節「幼子は母に言うパンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて母のふところに抱かれ、息絶えてゆく」。幼子も乳飲み子も餓死し、広場には乳飲み子を抱いた女たちが横たわっている悲惨な状態。偽りの預言者は民を迷わすだけ。

  15~16節 道行く敵は嘲笑する
  16節「敵は皆、あなたに向かって大口を開け、歯をむき、口笛を吹き、そして言う『滅ぼし尽くしたぞ。ああ、これこそ待ちに待った日だ…』」。手をたたき、口笛を吹き、囃してる。

  17~19節 涙を流し、御前に心を注ぎだせ
  18節「主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ」。計画したことを実現なさる主に(17節)、心から叫び(18節)、御前に「水のようにあなたの心を注ぎ出せ」(19節)という。以下に悲嘆の深いことか。

  20~22節 主への哀願
  20節「主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか…」。口語訳「主よ、みそなわして、顧みてください…」。1章でも繰り返されていた。

  心を注ぎ出して哀願する。それはヤコブの格闘のようである(創世記32章25節)。 

わたしと共に軛を負いなさい

2010-01-15 | Weblog
  哀歌1章 
 
  哀歌は、旧約原典では諸文書でルツ記の次ぎにあるが、エレミヤの後にくるのは70人訳による。現行聖書はエレミヤ哀歌とは言わない。1~4章は技巧的な「いろは歌」となっている。

  2節「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」。夜もすがら泣き悲しむのは、バビロンの捕囚の民となっているからである。
エルサレムが擬人化されている。諸国の民から「女王」、「姫君」と目されたが(1節)、周囲の友はみな欺き、敵となった。
  「慰める者」のないことが繰り返される(9、16、17、21節)。
5節「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し…、彼女の子らはとりことなり、…引かれて行った」。捕囚の原因は神に対する背反である。「エルサレムは罪に罪を重ねた」という(8節)。
  9節「…ご覧ください。わたしの惨めさを~」。慰める者のないわたしを「ご覧ください」「聞いてください」と執拗に主に訴える(11、20、21節)。

  14節「背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ力尽きてわたしは倒れ、刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった」。捕囚は、主から負わされた軛であると嘆き苦しむ。

  軛を負う者らに呼びかける方がおられる。人となられたイエスである。
  マタイ福音書11章28~30節
   「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
   休ませてあげよう。
   わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
   そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
    わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

  ここで、軛は決して一頭で負う農具でないことに留意しなければならない。「わたしと共に軛を負う」ということである。

投げ捨てられて気がつく

2010-01-14 | Weblog
  エレミヤ52章 

  51章64節から、52章は付録記事となる。
  列王記下24章18~25章30節と殆ど同じである。但し25章22~26節はエレミヤには無い。エレミヤ52章28~30節は列王記にはない。
  本章4~16節は39章1~14節に既に出ている。

  小見出しは岩波訳に倣い、次の通りである。
  1~3節 ゼデキヤの悪
  2節「彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」。
  4~11節 エルサレムの陥落
  7節「都の一角が破られた。戦士たちは皆逃げ出した。彼らは夜中に、カルデア人が都を取り巻いていたが、王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って都を出、アラバへ向かって行った」。王と戦士らは逃亡した。しかし王ゼデキヤと一族は逮捕され、リブラで処刑された。王は両眼をつぶされバビロンに連れていかれる。

  12~16節 破壊と捕囚
  14節「、親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁をすべて取り壊した」。貧しい民の一部以外に投降した者らは捕囚とされた。

  17~23節 神殿略奪
  神殿で使用したすべての青銅、すべての金銀の製品を奪い取り、持ち去った。

  24~27節 逮捕と処刑
  祭司長、次席祭司、戦士の指揮官、王の側近、徴兵を担当する書記官、豪族らは捕囚民として連れ去られバビロンで処刑された。

  28~30節 捕囚民の数
  エレミヤ書にのみ詳細に記されている。

  31~33節 ヨヤキン(イェホヤキン)王の恩赦
  彼はエビル・メロダクの王即位の時恩赦を受け、優遇されたが、後のダビデ王位継承にはならなかった。

  一巻として纏められた聖書なのにエルサレム崩壊記事が四度も繰り返されて記される(列王記下24~25章、歴代誌下36章、エレミヤ39章、52章)。むしろ読ませるというべきか。3節「 エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から投げ捨てられることになった」は、その総括である。

  神がなされる出来事を深く記憶させる聖書のメッセージだ。人は自分にとって都合の悪いことは忘れ、どうでもよいことをいつまでも忘れない愚かなのだ。主を忘れることの警告が申命記8章11節以下にある。
  主が恵み深い方であるかを体で知る必要がある(詩34篇9節)。

神の義と慈しみ

2010-01-13 | Weblog
  エレミヤ51章 
 
  本章も長いバビロンに対する滅亡予言。岩波訳小見出しに倣うことにする。
1~10節 イスラエルもユダも神から見捨てられない
  1節「主はこう言われる。『わたしはバビロンに対しレブ・カマイ(カルデア)の住民に向かって滅びの風を巻き起こす』」。口語訳「…『見よ、わたしは、滅ぼす者の心を奮い起して、バビロンを攻め、カルデアに住む者を攻めさせる』」。新共同訳は「レブ・カマイ」を固有名詞にしているが、エレミヤ特有の字隠し語で「立ち向かう者の心」が原意。口語訳はこれを採用している。彼らはバビロンをふるいにかけ、もみ殻のように吹き飛ばすのである(2節)。弓を射る者に全軍を聖絶せよと命じる(3節)。
  10節「主は我々の正しさを明らかにされた。さあ、我々はシオンで我らの神、主の御業を語り告げよう」。神の義(ツェデク)がバビロンを滅ぼすことで、イスラエルとの関係を回復させる。

  11~23節 バベルの最期
  11節「矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと…」。バビロンの滅亡は主の定め。
20節「お前はわたしの鎚、わたしの武器であった。お前によって、わたしは国々を砕き…」。「お前によって」が十回繰り返される。それは神が用いる鉄鎚である。

  24~46節 バベルへの報復
  24節「しかし、わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、お前たちの目の前で報復する。彼らがシオンで行ったあらゆる悪に対してと、主は言われる」。
33節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。娘バビロンは、麦の打ち場のようだ。今や、彼女は踏みつけられ間もなく、彼女を取り入れる時が来る」。

  47~58節 報復の神がバベルに報いる
  47節「それゆえ、見よ、その日が来ればわたしはバビロンの偶像を罰する。全土はうろたえ殺された者は皆、国のただ中に倒れる」。「その日が来れば~」とは神の審判の時を指す。これは52節にもある。
56節「滅ぼす者がバビロンに攻めて来た。勇士たちは捕らえられ、弓は折られた。まことに主は仇を返される神、主は必ず報復される」。滅ぼす者が攻めてくるとあるが、歴史的には11節の「メディア」を指し、後のペルシャ支配の時代が到来する預言である。

  59~エレミヤ、バベルへの象徴行為を命じる
  29章にネブカドレツァルに書き送った巻物とは別に、このバビロン滅亡預言の巻物をセラヤに託してバビロンに持ち運び、石を結びつけてユーフラテス川に投げ込んだ。そして「バビロンは沈み、災いのゆえに再び立ち上がることはない」と預言した。

  二つの巻物は相反する内容となる。先の巻物はバビロンでの定住であるが、ここではやがて神の滅びが起こるという警告である。
  これは神の義(10節)と、嗣業の民への神の憐れみの両面を示すものである(19節)。神の正義(ツェデク)と公平・慈しみ(ミシュパト)とは切り離せない(22章15節、23章5節)。詩85篇11節see
 

  

羊の大牧者

2010-01-12 | Weblog
 エレミヤ 章 
 
  2節「告げ知らせよ、諸国民に。布告せよ、旗を掲げて布告せよ。隠すことなく言え。バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、そのう像は辱められ、偶像は砕かれた」。バビロン滅亡の預言。
 ベルは神名、 バアールと同じ。マルドゥク「主」。エレミヤは48章から49章で七つの周辺諸国の滅亡を預言したが、この時点でやがて起り来るバビロンの命運をも見据えているのである。それは歴史を支配する主なる神の審判である。
 4節 「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る。ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て彼らの神、主を尋ね求める」。「その日、その時」とは25章11~12節に記されている七十年(完全数)後である。イスラエルの民は、帰還の道を尋ね、「さあ、行こう」と言う。そして永遠の契約を今一度結ぶことを確信する(5節)。これも32章40節に約束されていた。

 22節「その地に戦いのとどろきと大きな破壊が起こる」。それは全世界を砕いたバビロンの槌が折られ砕か れる時である(23節)。
29節「バビロンに向かって、射手を呼び集めよ、すべて弓を射る者を…」。バビロンの猛攻撃がはじまる。14~15節も同じ。
35~37節には「剣が~」が四回出てくる。その滅亡はソドム、ゴモラの時のようである(40節)。

  20節「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである」。散り散りになった羊(17節)が元の住みなれた牧草地に連れもどされるのは、主の許に帰って来るのである(19節)。
 注目すべきは、神が「まことの牧場である主」(7節)となっていることである。外敵のいう言葉だが、エレミヤは羊を迷わせた羊飼い(6節)と区別している。

  44~46節は遊牧民エドムに語った言葉(49:19-21)を、バビロンに転用している。ここでも緑の牧場と獅子、引きずられて行く羊が出てくる。羊飼いたちは無力だ。
  バビロンも、新しく導き帰す国も、主の牧場である。真に養われる処が指し示されているようだ。

  羊の大牧者を、この視点からもう一度明確にしたい(ヘブライ13章20節)。

神の怒りの杯

2010-01-11 | Weblog
  エレミヤ49章
 
  1~6節 アンモンに向けて
  1節「アンモンの人々に向かって主はこう言われる。イスラエルには息子がいないのか…。なぜ、ミルコムがガドを占領し、その民が、ガドの町々に住んでいるのか」。「ミルコム」はアンモンの神名。アンモンとイスラエルは隣国として長く関わった。ソロモンの政略結婚でアンモン人ナアマを妻に迎え、その子がレハブアムである(列王記上14章21節)。アッシリヤが北イスラエルを占領した時、ガドに侵入し定住したことを指している(紀元前721年)。
  4節「背信の娘よ、なぜ、お前の谷、豊かな谷を誇るのか…」。アンモンの高慢を断罪し、神の審判が降ると告げる(5節)。6節は、48章47節と同じ。

  7~22節 エドムに向けて
  7節「エドムに向かって万軍の主はこう言われる。テマンには、もはや知恵がないのか。知者たちの策略は尽きたのか」。危機に直面し国策が求められるのに、知恵は消えうせたのかと問う。エドムの起源は創世記36章1節にある。
  10節「…このわたしもエサウを身ぐるみはがして隠れがを暴いた。彼は身を隠すことができない。彼の子孫は滅びた。親族も隣人も失われ…。」盗賊がすべてを奪っていくように、主なる神も、エドムを丸裸にし、子孫、親族、隣人すべてを失うという。神の怒りの杯を必ず飲まねばならない(12節)。
 
  23~27節 ダマスコに向けて
  23節「ダマスコに向かって。ハマトとアルパドは、悪い知らせを聞いてうろたえている。安らうことのない海のように、彼らは不安におののいている」。迫りくる神の審判に慄くシリア(首都ダマスコ)である。「ハマトとアルパド」は都市の名前。同じ裁きの預言はアモス1章3~5節にもある。
  26節「…その日には、ダマスコの若者たちは広場で倒れ、兵士は皆、息絶えて静かになる、と万軍の主は言われる」。死の町と化し、兵士の屍が広場に放置される。

  28~39節 ケダル、ハツォル、エラムに向けて
  ケダルとハツォルは防備を失い荒野となり(28~33節)、エラムはもはや強力な軍備も無くなる(34~39節)。自信や慢心、誇りを持つ国々にも神の審判は下る。
 
  本章では、公平と正義の神は、選びの民イスラエルが背反の罪に対して怒りの杯を飲むのに、近隣の国々はその杯を飲まなくてもよいというのか。否、必ず飲まねばならないと告げているのである(12節)。

  ここに罪ある者の代りに怒りの杯を飲まれた方がおられる。神の御子イエスである。
  マルコ14章36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。

終りの日の回復

2010-01-10 | Weblog
  エレミヤ48章 

  1節「モアブに向かって。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。災いだ、ネボは略奪されキルヤタイムは恥を受け、占領された」。口語訳「…ああ、ネボはわざわいだ、これは滅ぼされた~」。モアブに対する預言 
  イザヤ15~16章、アモス2章1~3節にも破滅の預言がある。モアブの起源は創世記19章37節にあるが、イスラエルとモアブとの関係は良くない。アルノン川北部に位置し、イスラエルを絶えず脅かした。ヨアキム王治世の時には、バビロン軍に加勢してアラム、アンモンらと部隊を送ってユダを攻撃した(列王記下24章2節)。しかしゼデキヤ王の時はイスラエル周辺の諸国と反バビロンの同盟を目論んでいる(27章1~11節)。
 「モアブは幼いときから平穏に過ごして、捕囚となったことはない。古い酒のように静かに寝かされ、器から器へ注ぎかえられることなく、その風味は失われず、香りも変わることがなかった」。ユダの第二回捕囚の時までモアブは安泰であったが、しかし、寝かされたブドウの瓶が砕かれるようになると告げる(12節)。紀元前582年頃ネブカドレツァルによって滅ぼされた。

  28節「モアブの住民よ、町を捨てて、岩山に住みかを造れ山峡の岩壁に巣を作る鳩のように」。岸壁に巣を作る鳩と表現されるが、どこに遁れようとも、敵は鷲のように翼を広げて飛んで来て餌食になるだろう(40節)。

  47節「しかし、終わりの日に わたしはモアブの繁栄を回復すると、主は言われる」何故神は審判で滅ぼし尽すことをされないのか。
  異国のどの民族であっても、「終りの日」全世界の民に神の審判がなされる。しかし神はすべてを滅ぼし尽くすことを望まれない。神の慈愛(ヘセド)をもって民の救いを願っているからだ。これはアンモンに対しても同じである(49章)。
 
  ヨハネ3章16節が示される。口語訳「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。



 神の鋭利な剣

2010-01-09 | Weblog
エレミヤ47章
 
   1節「預言者エレミヤに臨んだ主の言葉。ファラオがガザを撃つ前にペリシテ人に向かって」。ペリシテ人に対する神の審判である。
  ユダに隣接する民族集団で、イスラエルがカナンに侵入し建国した時代から反対勢力として悩まし続けた。それは士師記、サムエル記に出てくる。ペリシテ人は早くから鉄製の武器を用いて戦闘しその威力を誇っていた。
  3節「軍馬のひづめの音/戦車のごう音、車輪の響きに/父親は力を失い/子供を顧みることもできない」。これは自国の軍隊ではない。北から攻撃してくるバビロン軍である。

  6節「災いだ、主が剣を取られた。いつまで、お前は静かにならないのか。鞘に退き、鎮まって沈黙せよ。」口語訳「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ」。主の剣を擬人化した表現である。戦闘でバッサ、バッサと激しい音を立てる剣に「早く鞘に納まって鎮まれ、沈黙せよ」と呼びかけているが、しかし鎮まることはできないという(7節)。ペリシテ人に下される神の厳しい審判を表わしている。

   主の剣はエフェソ6章17節「霊の剣、すなわち神の言葉」とある。これはヘブライ4章12~13節では一層明確になる。
  「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」。
  裸にされて腹の底、内臓をえぐり出される状況である。日常的にイスラエルの民は犠牲の動物を祭壇にささげるため鋭利な両刃の剣を用いていた。キリスト者も同様に、自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げることが求められる(ローマ12章1節)。その時主の手には、鋭利な剣があるということではないか!!

 あなたを無罪とはしない

2010-01-08 | Weblog
  エレミヤ46章 

  46章~51章諸国民に対する預言
  2節「エジプトに向かって。…エジプトの王ファラオ・ネコの軍隊に対する言葉。バビロンの王ネブカドレツァルは、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に彼らを撃ち破った」。ユダ王国はエジプトとバビロンの二大国に挿まれ、これに翻弄され滅亡の道をたどることになる。
  ユダがエジプトに支配された時期と、エジプトをバビロンが攻撃して替った時の王が2節のヨアキムである。その著しい政変記事が列王記下23章28~24章7節にある。

  3~12節 エジプトは辱められる
  5節「何故、彼らは隊を乱して退くのか。勇士らはちりぢりに逃げ去るのか。彼らは振り向くこともしない。恐怖が四方から迫る、と主は言われる」。エジプト軍の敗走記事は、列王記下24章7節にある。
  12節「諸国民はお前が辱められるのを聞いた。お前の悲鳴は地を満たす。勇士は勇士と共によろめき、もろともに倒れる」。エジプトの辱めとともに戦勝のニュースは諸国民に伝えられる。

  13~24節 エジプトは撃たれる
  18節「『わたしは生きている』とその御名を万軍の主と呼ばれる王は言われる」。エジプトやバビロンの王ではなく、彼らは神の手の中で戦っていることを示す。
  20節「エジプトは美しい雌の子牛だ。あぶが北から襲いかかる」。岩波訳「美しく美しい雌の子羊だったエジプトは。だが虻が北から、来るわ、来るわ。」語呂合わせに訳している。「北からの襲来」はエレミヤの預言の主要テーマであった。
 
  25~26節 エジプトに対する最後の預言
  25節「万軍の主、イスラエルの神は言われた。『見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する』」。テーベはエジプトの首都。万軍の主は、命を求める者の手にファラオを渡すと告げる(26節)。

  27~28節 イスラエルの帰還
  27節「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな…」。30章10~11節と同じである。
  28節「…わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。」新改訳「公義によって、あなたを懲らしめ…」。「正しく」とはエレミヤが繰返した神の公平(ミシュパート)である。これは正義(ツェデカー)と共に記される(33章15節、22章3節口語訳)。
  二つの国が滅ぼされてもイスラエルの罪は消されない。神の公平と正義が裁くというのである。そこで神は「あなたを無罪とはしない」(岩波訳)と宣告する。

  ここでキリスト者に「安価な恵み」(ボンヘッファー)を語っていないかが問われてくる。

義の冠が待っている

2010-01-07 | Weblog
  エレミヤ45章  

  1節「ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口述に従ってこれらの言葉を巻物に書き記した。…」。これは36章に出てくる。バルクはエレミヤの口述筆記者として受難の日々を歩むことになった。
  3節「あなたはかつてこう言った『ああ、災いだ。…わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない』」。ここに彼の生涯が示されている。エレミヤと一緒にエジプトに連れて行かれ彼の代弁者となっている(43章6節)。
   51章59~62節には、ゼデキヤ王がバビロンに行った時、宿営長としてバルクの兄弟セラヤが同行し、エレミヤの巻物をバビロンに持って行っている。ここに「マフセヤの孫でネリヤの子であるセラヤ」とある。歴代誌下34章8節「町の長マアセヤ」から、バルクもその孫であり、名門の出身かも知れない。
   彼には栄達の道からは遠く、エレミヤと共に孤独な生涯だったことが3節から想像される。
   5節「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない…。」バルクに神の言葉は厳しい。神の僕の道はエレミヤもバルクも同じである。
 
   「ただあなたの命だけは、どこに行っても守り、あなたに与える」。口語訳「しかあなたのいのちは、あなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与える」。岩波訳「あなたの行くすべての所であなたの命を戦利品として与える」。これは神からの唯一の慰めとなる。

   戦士は激戦の後に戦利品を授かるが、バルクには何も無く、ただ与えられるのは命だけか。しかしこれは殉教者に授けられる命の冠である。

  ここで示されるのは
  第二テモテ4章7~8節口語訳「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」 

わたしの言葉が立つか、彼らの言葉が立つか

2010-01-06 | Weblog
  エレミヤ44章 

  2~6節 エルサレム廃墟の原因
2節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。エルサレムとユダのすべての町にわたしがくだしたあらゆる災いをお前たちは見た。これらの町々は今や廃虚と化し、住む者もない」。既に前から在留していたユダヤ人もいたようである(1節)。エレミヤはエジプトに移住したすべての民に向って預言した。
   4節「わが僕である預言者たちを…繰り返し派遣して、わたしが憎むこの忌まわしいことを行ってはならないと命じた」。それにも関らず、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪を改めず、異教の神々に香をたくことをやめなかったことがエルサレム廃墟と化した原因であると語った(5~6節)。

   7~14節 エジプトに移住した民の背信と神の審判
   8節「何故、お前たちは移って寄留しているエジプトで、自分の手で偶像を造り、異教の神々に香をたき、わたしを怒らせ、自分を滅ぼし、世界のあらゆる国々で、ののしりと恥辱の的となるのか」。神の審判としてなされたユダの滅亡を経験したにも関わらず、エジプトで同じ背信行為を行うのは何故なのかと問う。
   14節「エジプトの地へ移って寄留しているユダの残留者には、難を免れ生き残り、ユダの地に帰りうる者はひとりもない。彼らは再びそこに帰って住むことを切望しているが、少数の難を免れた者を除けば、だれも帰ることはできない」。神の厳しい審判を告げる。

  15~19節 エレミヤに対する反論
  15節「すると、自分たちの妻が異教の神々に香をたいているのを知っている男たち、そこに多く集まって居合わせていた女たち、更にはエジプトの上エジプトに住む人々がこぞってエレミヤに反論して言った」。新改訳では「大集団の女たち」とある。彼らは「あなたが主の名を借りて我々に語った言葉」として反論する(16節)。
  そして大集団の女たちは、エレサレムの災禍は「天の女王に香を焚くこと」をしなかったのが原因だったので、今ここで「天の女王に香を焚くこと」を止めることはできないという(17~19節)。
 
  20~30節 エレミヤの重ねての警告
  24節「エジプトにいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け」26節でも繰返している。かつてのモーセのようだ。

  28節「…わたしの言葉か、彼らの言葉か、どちらが本当であったかを悟るであろう」。口語訳「わたしの言葉が立つか、彼らの言葉が立つか…」。歴史を支配する神が真実を証すると語り、「わたしの告げた言葉が実現する」その時を預言者は確信する。
 

おのが腹を神とする

2010-01-05 | Weblog
 エレミヤ43章  

  1~7節 エジプトへの逃亡
  2節「ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない」。エレミヤの告げる言葉を全面否定した。42章に示された彼らの態度は一変している。「高慢な人々」とある通り、神の聖意に対して自分の意志や考えを先行させることだからである。彼らはエレミヤと行動をともにしている書記官バルクが唆したのだと言った(3節)。
  4節「こうして…ユダの地にとどまれ、とい主の声に従わなかった」。一行はエレミヤとバルクを連れてエジプトの地、タフパンヘスにたどり着いた(7節)。

  8~13節 エジプトにおける預言
  9節「大きな石を手に取り、ユダの人々の見ている前で、ファラオの宮殿の入り口の敷石の下にモルタルで埋め込み、…」。エレミヤの象徴行為。ネブカドレツァルが来て、ここに王座を置くと預言する(10節)。
  バビロンはこの地を支配し、「太陽の神殿のオベリスクを破壊し、エジプトの神々の神殿を火で焼き払う」(13節)。口語訳「彼はエジプトの地にあるヘリオポリスのオベリスクをこわし、エジプトの神々の宮を火で焼く」。岩波訳「…エジプトの地にあるベト・シェメシュの諸々の柱を~」となっている。バビロン遠征軍は国土をも荒らし、「平然として」(岩波訳)この地を去っていくと告げた(12節)。
エジプト滞在の逃亡者についての預言は44章に出てくる。

  神の御声に従うといったことを否定し、その予言は偽りだと言う高慢な人々とは、 「己の腹を神とする者」であり、その行き着くところは滅びである(フィリピ3章19節)。

   このような偶像をもって神社仏閣に初詣する群衆を映像で目にする時に、激しい悲しみを覚えずにはいられない。

致命的な誤り

2010-01-04 | Weblog
  エレミヤ42章
  
  1~6節 エジプトへの逃亡者らはエレミヤに祈りを求める。
  2節「預言者エレミヤに言った。「どうか、我々の願いを受け入れてください。我々のため、またこの残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください…」。エジプトに逃亡しようとしていたヨハナン、エザンヤとその許に結集していた残留軍と民は、エレミヤを訪ねてきて、主なる神に祈りを求めた。エレミヤはこれを承諾したのである(3~4節)。
  己の願望を白紙にして神に祈ることなら、それは正解である。
  6節「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」ここに祈りの基本がある。

  7~22節 エレミヤ、祈りの解答を告げる
  いを受け入れてくださるよう求めさせたが、そのイスラエルの神、主はこう言われる…。』」。10日後、エレミヤは神の言葉を告げた。これまでの予言と変わらない。それはこの国に留まることである(10節)。
  11節「バビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるなと主は言われる」。ヨハナンと軍の長らは、反バビロン派の首謀者イシュマルを国外に追放はしたが、暗殺された総督ゲダルヤに対するバビロンの報復を恐れていたのである。
  12節「わたしはあなたたちに憐れみを示す。バビロンの王もあなたたちに憐れみを示して、この土地に住むことを許すであろう」。エレミヤは神の憐れみ(ミシュパト)を伝える。
  彼らは「良くても悪くても…主の御声に聞き従います。…主の御声に聞き従うことこそ最善なのです」と誓いながら、心底はそうではないことをエレミヤは見抜いて、エジプト逃亡に対して警告している(13~17節)。
 へ行けば、わたしの怒りと憤りが…あなたたちにふりかかる。あなたたちは…恥辱の的となり、二度とこの場所を見ることはできない」。警告が繰り返される。
20節「あなたたちは致命的な誤りを犯そうとしている…」。致命的とは、神と預言者を偽り、神の言葉に従わないという二重の罪である。

  どんな事でも御心に従いますと祈りを依頼しながら、その答えを聞く前に既に結論を出していて都合の良い方を選び、願望を変えない。これほど高慢で、神の聖意を無視する祈りはない。これが致命的な誤りである。



迷える羊の群

2010-01-03 | Weblog
  エレミヤ41章
  
   1~3節 イシュマエル、ゲダルヤとミズパにいたバビロンの占領軍を殺す
   2節「そのとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼と共にいた十人の部下は、突然襲いかかって、…ゲダルヤを剣にかけ…」。暗殺計画を見抜けなかったゲダルヤは王家の末裔イシュマエルに殺される。更にミツパにいた側近と占領軍のバビロン兵士たちも殺された(3節)。

   4~10節 イシュマエル巡礼者も殺す
  翌日、エルサレム陥落を嘆いて神殿に向かう巡礼者80人がミズパに通りかかった。イシュマエルは哀願する10人を生かし、70人を殺した。ミズパにいた民の残留者を捕虜にしてアンモンに逃れようとした(10節)。

  11~15節 ヨハナンと軍の長らはイシュマエルを追跡
  12節「直ちに、すべての兵を率いて…イシュマエルと戦うために出発し、ギブオンの大池のほとりで彼に追いついた」。総督を支持していた反イシュマエル派のヨハナンと兵士たちは彼らを追跡した。 
  13節「イシュマエルに捕らえられていた人々は皆、カレアの子ヨハナンと軍の長たちの姿を見て歓喜した」。彼らは一斉に身を翻してヨハナンのもとに帰って行った(14節)。その情景が浮かんでくる。

  ヨハナンと共にいた軍の長らは、イシュマエルから救い出した民らを連れ、バビロン軍の報復を恐れてミズパを出発し、ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまり、エジプトへ逃れようとした(16~18節)。総督のゲダルヤ亡き後に彼らはなすべきすべを失っていたのである。

   捕囚後のユダの民も指導者も、無秩序状態に陥っていたことが伺える。これは羊飼いのない羊の群れが彷徨している有様であった。「羊飼いを撃つと羊の群れは散らされる」(ゼカリヤ13章7節)とある。

   主イエスは飼い主のいない羊を深く憐れまれた(マルコ6章34節see)。

   第一ペトロ2章25節「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」が示される。

死に至るまで忠実

2010-01-02 | Weblog
  エレミヤ40章 

   1~6節 エレミヤの釈放
  1節「…親衛隊の長ネブザルアダンが、バビロンへ捕囚として移送されるエルサレムとユダのすべての人々と共に、エレミヤを捕虜として鎖につないで連行したが、ラマで釈放することにした後のことである」。彼の釈放はエルサレム北20キロ程のラマであった。そこで親衛隊長は今後の処遇について極めて好意的な言葉を告げている(2~5節)。それは選択の自由である。
   6節「ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、国に残った人々と共にとどまること」であった。アヒカムはかつてエレミヤを保護した人物である(26章24節)。

   7~12節 ゲダルヤの総督としての働き
   7節「…野にいたすべての軍の長たちはその部下と共に、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地に立てて総督とし、バビロンに移送されなかったその土地の貧しい人々に属する男、女、子供たちを彼のもとにゆだねたことを聞きた」。そこで軍の長たちは、ミツパにいるゲダルヤのもとに集って来た。
 8節にイシュマエル、ヨハナンとヨナタン、セラヤ、エフィイの一族、エザンヤとその部下たちの名前が挙げられた。
  10節「このわたしがミツパにいて、やがて到着するカルデア人と応対しよう。あなたたちはぶどう酒、夏の果物、油などを集めて貯蔵し、自分たちの確保している町々にとどまりなさい」。ゲダルヤは、逃亡した彼らに寛容な態度を示した。

  13~16節 ゲダルヤ暗殺計画
 14節「アンモンの王バアリスが、あなたを暗殺しようとして、ネタンヤの子イシュマエルを送り込んでいるのをご存じでしょうか」。その時ミズパにいるヨハナンと軍の長が来て暗殺計画を告げたが、ゲダルヤは、この進言を信じなかった。そこで重ねてヨハナンは極秘に、事態の重大さを告げてイシュマエルを殺害すると申し出たが、ゲダルヤはこれを拒否した。
   この結果は41章に記される。
   これは、信頼に基づく共同体でない時に必ず内紛によって、崩壊するという教訓となる。

  エレミヤ晩年の記事であるが、彼がバビロンではなくユダの民の間に住む決断をしたことに注目したい(5~6節)。彼は自らの安寧を求めなかった。神の言葉を伝えるという召命に応えるためだと思う。老いの身ながら、死に至るまで忠実な僕の姿を見る(ヨハネ黙示録2章10節)。預言者には隠退はない。大いに見習いたいことである。