とーねです。
わたしはつくづく怠惰である。
高校時代は、よりよい大学にいくことー大学でそれ自体大したことではないことに気づいたがーが目標であって、そのためにほとんどの時間をささげていた。
しかし今となっては、どうもだらだらと過ごしてしまう。家にいては映画を見て過ごしてしまい、いつのまにか眠りについている。かといって、大学にいくのもおっくうなのだ。
べつに本を読むこと、学問することはきらいではない。執筆も好きな方である。どちらかといえば、わたしの欲望や好奇心をかき立てるものなのは、間違いがないのだ。
にもかかわらず、どうもダラダラと過ごしてしまうのである。なぜなのか。それを考えてみたい。
そもそも、どんな意味深いことをしようとしても、その最初の段階は、骨折りをしないといけない。
たとえば、テストでいい点取る喜びを感じるためには、一度苦労をしないといけない。苦労のさきに喜びがあるわけで、ある行為とそれによって得られる快楽に、時間的なズレがあるのだ。
どうもわたしは、よくもわるくもあきらめやすく、その場に流されやすいところがあるようだ。
だからいまのじぶんが楽をしたいのなら、ああそうか、じゃあ楽をさせてやろう、となる。べつにじぶんなんて、どうなってもいいんだ。どうしようが、なんの意味がないのだと。だから、いつまで経っても作業をしない。そこにはいまのじぶんへのネガティブな意識がある。
他方で相反する奇妙な感情が、胸の内にあるようだ。それはいまのわたしが、未来のわたしにたいして、異様とも言えるポジティブな期待を寄せているというものだ。
どうなろうが、べつに良い。未来のわたしがきっと危機に陥ったときに、どうにかしてくれるのだろう、という根拠なき確信である。
そのさい、きっと危機に突き動かされて、一心不乱に作業をするみずからを、想像しているのだ。
いずれにせよ、いまのわたしへのネガティヴな自己放棄は、未来のわたしへのポジティブな責任転嫁につうじているようだ。矛盾することが、どうもわたしの心には両立しているのである。
しかしこの表面的な矛盾の根底で、あい通ずることがある。
それは、わたし自身の意志で生きることの放棄である。いまのわたしは、未来のわたしに意志を投げ出している。かといって未来のわたしは、危機に突き動かされて作業に励むのであって、それは自らのうちからの推進力によらないのだ。あるいは、未来のわたしは、さらにその先の未来のわたしへと、債務を担わせるのである。
ようは、わたしにはどうも、強烈な他力本願というか、運命への信頼というか、そしてその一方で自己意志の放棄というか、そういったみじめな信仰ともいえる衝動があるようだ。
しかしそのように虚心段階にみずからの弱さやみっともなさをここに告白したとき、教え子たちの意志の強さや、真摯さに気づかされるのである。だったらば、ひとりの教育者として、いかに身を振るのかをあらためることができるのである。