・冒頭社説には2種類しかない、野党型と与党型と。
野党型の記者は政府が何をしようと、必ず何か難癖をつけ、非難し叱責し忠告しなければならない。
一方政府側の冒頭社説の記者は、政府がどんなことをしでかそうと、必ずそれを弁護することになっている。
前者は常に変わらぬ否定であり、後者は常に変わらぬ肯定である。
・・・ところでどちらの陣営に属する場合でも、この職に就いて何年かするうちに記者たちは精神にタコができて、
ある種の決まったもの見方をするようになり、一定数の紋切り型だけで食いつなぐようになる。
・・・そこに留まるようなことがあれば、優れた人といえども必ず凡庸な人間になってしまう。
・記者は2種類にわかれる、与党の記者と野党の記者に。
与党の記者は好人物として通っている。概して才気ある人物が多く、面白く快活で世話好きである。
外交官のように堕落しているとみずから認めているが、みな楽天家である。
一方野党の記者は取りすましもったいぶった輩が多い。
思うにこれは体の外に多くの徳を出しすぎたため、体の中には徳が残っていないからに相違ない。
謹厳家をもって任じ執拗に政府を責め立てるが、本当の目的は一族郎党の便宜を図るためであったりする。
・野党新聞の標的となるのは決まって権力の依怙贔屓や攻勢を書く、さながらこん棒の一撃のような印象を与える。
それも当然で野党の新聞は例外なく次のような格言を金科玉条としているのである。
「まずは鉄槌、説明はそれからだ」
・今日、批評はもはやただ一つのことにしか役立っていない。
批評家に糊口の資を与えることである。
・ジャーナリストにとってありそうなことはすべて真実である。
・(結論)もしジャーナリズムが存在していないなら、まちがってもこれを発明してはならない。
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以上、長い長い引用でした。
じつはこれ、今のジャーナリズムのことを言っているわけじゃない。
今から170年以上も昔のバルザックの「ジャーナリストの生理学」からの引用。
野党新聞を朝日や毎日に置き換えたら、
与党新聞を産経や読売に置き換えたら、
今の日本でもそのまま通用する。
・ジャーナリストにとってありそうなことはすべて真実である。
それで、慰安婦問題もモリカケ問題も
まずは鉄槌!~理由はあとから
翻訳者は解説で言っている。
一般にジャーナリズムはフランス革命で「表現の自由」を得たことで初めて誕生したとされるが、この「表現の自由」はジャーナリズムによって「妬み、僻み、嫉み」の「三み」を全開させる権利と曲解され、人間のありとあらゆる悪徳が社会の表面に浮上するきっかけを作った。
そう今の日本でも170年もの間、何の進化することもなくこのジャーナリズムがはびこっている。
そしてバルザックは言っている。もし本当の言論の自由が実現したら今のジャーナリズムは滅びてしまうだろうと。
かっては新聞への投書~その実新聞社の検閲を通してしか自分の意見を伝えることはできなかった。
それもその投書も投書者へ何の断りもなく了解もなく編集者がかってに文章を変えたり、縮めたりしてきた。
こんな傲慢なことがまかり通っていた。
(きっと今でもそうだろう)
ところがネットが普及して、自分たちの意見を自由に伝えることができるようになった。
するとたちまち新聞社が今までやってきた捏造、誘導記事があからさまになってきた。
そう、言論の自由で一番困っているのは今のマスコミなのだ。