とっても蒸し暑い日だった。
こんな時は何にもする気がしない。
こんな時は何にもする気がしない。
もっとも何にもする気がしないのはいつものことではあるけど・・・
晴耕雨読だけでなく暖耕暑読や暖耕寒読なんて言葉があってもよい。
というわけで今日も何にもしなかった。
趣味はいろいろあるけど、こんな日はせいぜい夜に読書をするくらいだ。
陶芸や竹細工なんてやっていられるかい!
クラシック音楽も聴く気になれない。
写真も面倒、炎天下に園芸なんてとうていする気になれない。
最後に残るのは酒と読書。
酒を呑むのは趣味と言うよりも日課、あるいは仕事。
自分の存在を自覚するためにも呑まないではいられない。
「われ思うゆえにわれあり」ではなく「われ酔うゆえにわれあり」だ。
そして最後に残るのは読書。
この趣味だけが最後まで残りそうだ。
晩の6時ころには晩酌をはじめて、ほろ酔い気分で食事をして、8時くらいにはもう眠る。
すると夜中1時か2時ころには目を覚ます。
それから朝まで長い長い、読書と転寝の時間が始まる。
ちょっと読んではまた眠り、またまた起きて読んではまた眠る。
本も一つの本ばかり読むのではなく、疲れたら別の本を読む。
というわけでたいてい数冊を同時に読んでいる。
今読んでいるのは、太平記、古今和歌集、滑稽本・傾城買四十八手、世界の名著見るだけノート・・・などなど、
ほかにも読みかけの本を何冊か枕元に置いてあって、気が向いたら読むことにしている。
古今和歌集は万葉集、新古今和歌集の中ではもっとも読みたくない本。
それで今まで読まないできた。
でも普通に考える和歌のイメージというとやっぱり古今集。
とっても魅力的な万葉集に対して技巧的な古今の和歌に芸術性よりも言葉の遊びを感じてしまう。
「貫之はへたな歌詠みにて候」なんて子規の真似して言いたくもなる。
ともあれ和歌と言うとやっぱり「古今集」、
少しずつ、ちびりちびり読んでいる。
滑稽本は江戸の庶民の読み物。遊郭の案内書という面もある。
しょせんたかだか庶民の読み物、本来ならすらすら読めるはずなのに、これがなかなか手間取っている。
洒落は時代と言葉に制約される。
洒落の言葉の意味を説明したのでは洒落にもならぬ。
当時の風俗、言葉、遊郭のしきたりなどいちいち注釈を読むのはなんとも煩わしい。
注をパスしても面白い、あるいは面白そうだなと言うことはわかるけど、
でもやっぱり物足りなさが付きまとう。
シェークスピアの喜劇もやたら洒落が多いけど、やっぱり洒落は2流の笑いだと思う。さすがにモリエールには洒落は少ない。
滑稽本、今まで4編を読み、今、5編目だけど面倒くさくなって中断している。
太平記については書きたいことがいっぱいあるので、次回にまわす。