5/5 中村浩子 And Then 第1話
夏でもないのに暑い日だった。
浩子は昼寝でもなかったけどベッドに横になっていた。
電話がなった。
電話の予定はない。
浩子はでないことにした。
夕方、浩子が買い物から戻り、机に座ったとき電話が鳴った。
男、見知らぬ男だった。
何か言っているけどわけがわからない。
間違い電話ですよ
と浩子が言った。
間違い電話じゃないですよ と男。
男は最初から話し始めたけど、浩子には何の話かまったく理解できない。
それで私はなにをすればいいんですか?
と浩子が男に聞いた。
突然、浩子はもっと大事な聞くべきことを思いだした。
あなた、誰?
男はちょっと黙った、 それから電話を切った。
浩子は今は一人だ。
この春の初めに介護していた母が逝った。
浩子には兄と姉はいたがそれぞれ結婚して日本のあちらこちらにいる。
浩子は数年前、離婚して母一人の家に戻ってきた。
浩子が育った家で、父はもうだいぶ前に亡くなっていた。
浩子に子供はいなかった。
家には野良猫が庭に住みついていた。
その子も一人のようで、オスかもしれない。
ご飯は猫がごはんと言うときだけやっていた。
この冬は時々家に入れてやったが
温かくなったら自分で出て行った。
この家の南側の庭は狭く洗濯ものは南側の廊下に出していた。
軒が深いので外に干せないこともなかった。
部屋は廊下を廊下がグルっと一周してあり6部屋もあった。
廊下を挟んだ向こう側に3畳間と台所、浴室があった。
大きな家で半分は貸してあった。
玄関前に1本のもみじの木があった。
門のあるほうの庭が広かった。
門はもう数か月しまったままで用事のある人は門から数メートル横の
木戸から出入りしていた。
直子は母の介護しているうちから、母が逝ったらこの家を売りたいと
兄と姉に話していた。2人ともここに戻る気はないし、
このだだっ広い家に一人で住む気も浩子になかった。
浩子はまだ29歳で、兄、姉とも30代だった。
この家を売る話を、今の部屋を借り手を見つけてくれた不動産屋に
話してみた。
不動産屋は今の敷地を更地にしてマンションでも建てれば
と言ってくれたけど、兄も姉も浩子も、そして3人合わせても
そんな資金はなかった。
結局売ることにして、今の住人には出て行ってもらった。
浩子の両親の家は都内有数の住宅街のひとつと言うこともあり、
土地付きでその家はあんがい早く売却できた。
浩子はその金でマンションでも買ってと思ってはいたが
さて、それからどうするとい人生設計を考えたとき
マンション案はあっさり却下した。
浩子はフランスにいた。
そこで出会った日本人の男と結婚したけど、
フランスに居ながらにしてフランス語を覚えようとしない男の考え方や、
彼の和食店を手伝うのも次第に嫌気がさした。
それは彼が妻は手伝うものという発想で浩子にただ働きさせていたから。
母の老化による衰えを口実に離婚して帰国したのだ。
母はまだ70歳を超えたところで、帰国して見ると
まだまだ元気だった。
浩子は学生に戻ったかのように好き勝ってをして生活していた。
家事は一切母に任せ、夕食後の後片付けすらやらないでテレビを見たりしていた。
浩子の生活費は無賃で働かせた元夫からの慰謝料でまかなっていた。
慰謝料は毎月送るのは高くつくからと一括払いにしてほしいとの
元夫の言い分で2500万円で手を打った。
弁護士の介入が功をそうした。
そんな母が急に弱り、立つのもままならない状況になった。
それは浩子が夕飯の後片付けを気まぐれに今夜はやるよと
言ってやった翌日に始まった。
浩子の父の死は事故に巻き込まれた結果だが
母は突然弱々しくなったと思ったら3か月ほどで逝ってしまった。
兄も姉も母の最期に会えなかった。
誰も母がそんなに簡単に亡くなるなんて思っていなかった。
浩子は葬儀の後、兄と姉にこれからどうすると聞かれた。
浩子の気持ちは決まっていなかった。
フランスに戻りたい気持ちもあったけど
母が元気なころ、墓守りはどうすると言った。
そのことが気になって、兄と姉に話してみた。
2人とも鼻先で笑って、墓守なんかするためにお寺に金を払っていると
言った。
そうか、私は自由なんだ。
再婚する気もすぐにはないし・・・・・
少し考えるわと浩子は言った。
兄は転勤族だけど、姉はうちの町に来てもいいわと言ってくれた。
浩子はキリスト教徒ではなかったけど
子供のころなぜか浩子だけ日曜学校というのに通っていた。
そのせいか、心のどこかに清教徒精神が根強くあった。
禁欲じゃないけど、あれも駄目、これも駄目と
自分を縛る傾向にあった。
それがひょんなことでパリに行って、解放された気になっていた。
と言ってもフランス人男とたわむれたことはなかった。
だから日本人となんか結婚して、兄からも姉からも
なーに、それ、パリまで行って
という”非難”を浴びた。
家を売った金の3分の一をもらって、
浩子は賃貸のマンション暮らしをしていた。
ここなら束縛されることもなく、引越しは自由だ。
早朝の朝、ベランダから外を眺めていた。
朝日はすでに登り、今日は晴れという空模様だった。
静かと思っていたら、連休でマンションの住人の多くはいなかった。
犬の声が下で聞えた。
下を見たら、散歩中の男と犬が歩いていた。
犬は横切った猫を追いかけようとしていた。
犬と猫って宿敵なんだと浩子が思った。
大吾郎、止めな と人間の声。
ヘー、あの犬、大吾郎って言うんだ。
浩子は小声で だいごろう と呼んでみた。
大吾郎が浩子を見上げた。
同時に飼い主も振り仰いだ。
まあ聞こえたんだ と浩子は思ったが
おはようございますと言ってみた。
飼い主もおはようございますと言って感じのいい笑い顔を見せた。
大吾郎の飼い主はこのマンションに一番近いコンビニの上のマンションに住んでいた。
あの出会いのあと、2人は近所のコンビニで出会ったのだ。
その時、外につながれた大吾郎が浩子をみつけた。
大吾郎は臭いを嗅いだこともないはずなのに
浩子に旧知のように尾を振って歓迎してくれた。
2人で店の前で戯れていたとき、飼い主が出てきた。
飼い主も、あの時の とすぐ浩子に気がついた。
挨拶を済ませて浩子がこの辺にお住いですかと聞くと
沢田啓太はこの上ですとあごでしゃくった。
それから啓太は缶コーヒーを1本くれて、
電話しますと言って建物の中に入って行った。
それから数日後の朝、浩子に電話があった。
出会い早々申し訳ないのですがと切り出した。
急な出張が決まりまして、あのー、エーと
大吾郎を数日預かってくださいますか?
両親は遠方で頼みに行く時間がなくて。
浩子はまあ、ずうずうしくと思わないこともなかったが
いいですよ
と気楽に引き受けてしまった。
こうして犬と浩子の暮らしが始まった。
庭なしの家で動物と暮らすのは浩子にとって初めてだった。