ペドロランド日記

スペインの国際村「ペドロランド」を中心にフランスとイギリスに発信地を移しながら、日々の出来事を綴っています。

ウバラーラ(Uvarara)

2016-03-15 13:13:23 | 
先日、知人のルーマニア人女性のボーイフレンドが新しいレストランを近くに開店したというので、友人夫婦と一緒に出かけた。経営者はやはりルーマニア人だが、レオナルドという同じコマーシャルセンター内にあるロンドンっ子のユダヤ系イギリス人が経営するイタリア料理店で、つい最近までシェフをしていたそうだ。

内装は茶色とベージュを貴重にしたモダンなスタイル。レオナルド同様、13ユーロのイタリア料理を中心としたセットメニューが売り物のようだが、アラカルト料理は、やはり同じセンター内にあるちょっと高めのルスティカというフュージョン料理の店と競合する。先にこの店に行った偵察隊の知人のグループによると、ラムラックがお薦めで、ルスティカより素晴らしいということだった。一方、知人のルーマニア人女性のお薦めは、アンコウ。というわけで、アラカルトで行くことにした。



これは、突き出し。なかなか、目を引くプレゼンテーションである。

が、メニューを見ると、これはという前菜がなかったので、私は前菜はパスすることにした。無理して選ぶには、値段が高い(スープが5ユーロで、ほかの前菜は8ユーロ)。旦那は、シーザーサラダを注文したが、チキンばかりで、色彩も乏しく、あまり見栄えがしなかった。もっと野菜の彩をふんだんに使って、サラダっぽい演出が必要。



メインコースは、ラムラック(子羊肉のあばら骨部分のロースト)を選んだ。周囲はよく焼けていて、中身はピンクと完璧な焼き具合であるが、ちょっとニンニクが強すぎる。それに脂身が多い。ハーブの風味がいっぱいのルスティカのラムラックのほうが断然上だ。でも、マッシュポテトはおいしかった。ピンクの飾りはパルメザンチーズを溶かして固めたもの。

友人夫婦は、アンコウとエビ・貝のロブスターソース添えを注文したが、シチュー風で、メニューから感じられる食材の華やかさとは程遠い見栄えだった。

最後にデザートは、パンナコッタの赤いフルーツ添え。フルーツはちょっとした飾り程度で、失望だった。パンナコッタは、味はよかったが、液状に近くて、パンナコッタという名前から想像されるイメージとは異なる(だから、ひっくり返っていなくて、ボウルで出てきた)。

もしもう一度訪れるなら、今度は典型的なイタリア料理中心の安いセットメニューのほうを試すだろう。

ヨールディング

2013-12-30 16:19:09 | 


トレーラーハウスのあるイギリスのYalding(ヨールディングと発音します)が一躍有名になってしまった。23日からイギリスを襲った暴風雨のため、3つの川が合流するヨールディングでは、川の推移が上がり、トレーラーハウスの周りは、まるで一面茶色の海のよう。前にも書いたように、このキャラバン場のトレーラハウスおよびログキャビンには、オランダで考案された水害対策が施されている(そうでないと、保険がおりないので)。水が出ると、トレーラーハウスが浮く仕組みだ。テレビのニュース写真を見ると、我が家の外の地上約2メートルの高さにあるベランダの手すりすら水に沈んでいるので、川の水位は、2メートル以上に上がっていたようだ。一部のトレーラーハウスは、まっすぐに浮かばずに、一方に傾いている。写真では、我が家は大丈夫のようだったが、心配であった。

日曜日に、夫の家族が様子を見に行ってくれたところによると、わたしたちのトレーラーハウスの中は問題なかったとのこと。でも、2つあったプラスチック製の物置の一つが消えていた。どこかに流れていってしまったのかもしれない。1つは重い敷石を床に置いてあったため、無事だった。でも、中身はさぞかし汚れていることであろう。

この時期、イギリスに行っていたら、たいへんなことだったと思う反面、ヨールディングにいたら、被災見舞いに訪れた首相のデイビッド・キャメロンを見ることができたのにと、ミーハーな気持ちを抑えきれないわたしだった。




Never Let Me Go by Kazuo Ishiguro

2011-07-10 16:45:54 | 
今日のフランス・ドルドーニュ地方の天気はのち



これまで、本の感想をブログで書いたことはなかったが、最近友人たちの書評を彼らのブログで読んで、久々に読書感想文なるものを書いてみたいと思っていたところだった。

この本と出会いは運命的にも思えるものだった。日本のネット友達がメールの中で、いろいろと考えさせられたと書いていたので、心に留めていたら、その後、たまたまスペインに来ていた夫の義妹がこの本をイギリスから持ってきて読んでいたのだが、「30ページ読んだが、全然はかどらない。もし興味があるなら、あげる」と言って、譲り受けることになった。

結論から言うと、技術的に優れており、ミステリーとしても楽しめ、社会的・倫理的・哲学的・宗教的な問題を投げかけていて、非常に興味深い本だった。最初の部分は退屈に思えるかもしれないが、ここを乗り切って読むだけの価値は十分ある。

このブログには「続きを読む」という機能がないようなので、ここから先はネタバレがありますが、気にしない方だけ読んでください。

まず、技術的な面で、とてもよく書けている。語り手の主人公とその友人ルースなど登場人物の微妙な感情と性格が、語り手の目を通して非常に詳細に繊細に描かれている。これは後に述べるように、物語の展開にとって、非常に重要となってくる。

ここでは通常の世界とは隔離された非常に特殊な世界が描かれているわけであるが、それが、登場人物の感情や性格同様、やはり詳細に丁寧に描かれている。ハリー・ポッターを読んでいるような気分になった。ハリー・ポッター同様、詳細がよく描かれているために、読者をその独特の世界にどっぷりと浸らせることができるわけである。マグル(魔法使いが普通の人間を指す言葉)に対して、ここではnormalという言葉が使われているように、普通とは異なる世界が繰り広げられているという点で非常に似ており、それは、一部で交錯するものの、ほとんどは交わることがない世界である。もちろん、ハリー・ポッターの魔法の世界が、普通の人より優れた能力を持っているという意味で、普通でないのに対して、この世界は、普通の人間より劣っているという点で、とても悲しいのであるが。

ヘールシャムは、まるでホグワーツ(魔法学校)のようである。寄宿舎学校の様式に基づいている点でも似ているが、SaleやExchangeと言った独特な行事・制度があるのも、ホグワーツのよう。義妹が「孤児院だかなんだかわからないところで、どうでもいいような日常のことが細かく書かれているだけで、つまらない」と言っていたところでも、興味深く読むことができた理由の一つのは、ホグワーツとの比較を楽しめたことであろう(もう一つの理由は、重要な秘密を最初からわたしは知っていて、逆にそのヒントがどこに隠されているのかを見つけることだった)。

特有の言葉と言えば、"complete"という言葉も独特である。通常、他動詞として使われ、自動詞としての用法はないようだ。ハリー・ポッターにも特殊な動詞はよく登場する。ここでは、"complete"という言葉は、"die"の代わりに使われているようで、「死ぬ」ということのようであるが、"complete"という言葉を使っているところに、ここで描かれている人たちの唯一の生きる目的が臓器提供であるということを表している。つまり、死ぬということは、ただ単に寿命を「全うする」というだけでなく、目的を「完了する」ということなのだろう。特に、死ぬことにより、生きているうちにはできなかった残りの臓器の提供が可能になるわけであり、死ぬことによって、すべての目的が完了するということになるわけだ。また、トミーがクリッシーの死について話す場面で、「2回目の臓器提供で"complete"するようではだめだ」というようなことを言っている。ルースはこの発言に同意していなかったが、このようなトミーの考えかたを見ても、4回目の臓器提供者に払われる尊敬の念と言った点でも、こうした人たちには、臓器提供が自分の生まれてきた目的であり、仕事であるという意識が根付いているに違いない。

このように自分たちの生きる目的をはっきりと意識している人々でも、愛には、その目的、つまり死を延ばすだけの価値があると信じているのは、とても興味深いことであり、心を打たれるほど悲しいことだ。

詳細を丁寧に描くことで、独特の世界がいかにも実在するかのごとくに、読者に信じさせることができている。ハリー・ポッターを読んでいたときも、いかにも魔法の世界が実在するかのごとく、「これは魔法の世界ではどうなのだろう?」などと、物語を離れて、いろいろなことを考えてみたが、この小説についても、同じ経験をした。たとえば、この中で、「学生たちは、子供を持つことができない」と書かれていたが、これは、生理的に子供を作ることができないのか、それとも、規則として子供を作ることが許されないのだろうかと疑問に思った。子供を作ってはいけないのは倫理的に当然であろう。また、たぶん、遺伝学的にも、クローン同士で子供ができた場合、不都合があるに違いない。しかし、表現からしても、クローンたちには、もともと生理的に子供を作れないような処置が施されているのだろうか、あるいは、外的な生殖器官はあっても、生殖機能はもともとないのだろうか、などと想像してしまった。

一見、何事も起こらない平穏なヘールシャムでの無邪気な子供時代が描かれているようであるが、あちらこちらに疑問を呼び起こす伏線が張られている。そして、登場人物たちの会話や事件を通して、徐々に、さまざまな事実が明らかになる。が、最大で最後まで残る疑問は、なぜこうまでヘールシャムでは、創造性が重要視されているのか、である。

最後に近いところで、真実が創設者の一人であるミス・エミリーの口から明かされる。クローンたちにも「魂」があることを証明するために、子供たちの創造性を助長し、優れた作品を収集したのだった。彼女と共同創設者のマリー・クロードは、クローンたちにも魂があることを理由に、ヘールシャムのような人道的な環境をクローンたちに提供する必要性を説いたのであろう(たぶん、ほかの施設では、クローンには魂はないという前提のもと、クローンたちは家畜のような扱いをされていたと想像される)。

が、ヘールシャム計画は、その一部である臓器提供計画全体に対する大きな矛盾である。人間とは何かという問題になるだろうが、魂があれば、それは人間として認められるのではないだろうか。そして、臓器提供のために人間を創造するということは、人道性の上から絶対に許されることではない。ミス・エミリーはヘールシャムの閉鎖を社会的風潮の変化のせいにしているが、ヘールシャム計画は、最初から大きな矛盾を内臓したものであった。つまり、クローンにも魂があったら、臓器提供のためにクローンを創造することは明らかに許されるべきではない。ヘールシャム計画の成功こそ、その終焉を余儀なくするものであった。

この本はいろいろな問題を扱っているが、そのもっとも重要なものが、クローンにも魂はあるということであろう。クローンにも魂はあるかという疑問は、クローンが登場したときから、わたしも自分自身に投げかけていた疑問であったが、わたしもクローンに魂はあると思っていた。これを読者に確信させるために、一人称でクローンの一人の観点から、彼女を含めた登場人物の感情や性格が、詳細に、共感を呼び起こすように、描かれているわけである。この大きな問題に最後に直面する前に、読者は、すでにクローンも魂としては自分と変わらないことを確信しているのだ。

また、、こうした社会的問題のひとつとして、脳死の問題も若干言及されている。トミーが4回目の臓器摘出手術を受ける前のこととして触れられているが、technicallyには死んでいるが(もちろん、ここでもcompleteという言葉が使われているが、これは脳死を示唆しているのだと思う)、ある意味で意識はあり、そして残りの多くの臓器摘出が行われる様子について二人で語りあったとある。生命維持装置のスイッチが切られるまで、もう何もすることはなく、ただ自分の臓器が摘出されるのを見守るだけという「ホラー映画のような」光景があるだけだ。著者は脳死が人間の死とは認めていないのだろうか。

実は、まだまだ細かい疑問は残る。その1つが、ミス・ルーシーは、どのような考えから、ヘールシャムの方針に反対の姿勢をとったのか。深く考え出せば、底の尽きない本だ。ネット友達の言ったとおり、考えさせられることの多い本だった。