65番札所三角寺
伊予三島で下車し改札を通ると駅員さんに三角寺への方向を聞いているおじさんがいました。
「こっちですよ」と言いたいところを少し待って・・。
「お遍路ですか?三角寺はこっちみたいですよ」と伝えると一緒に向かうことに。
門司港から来ているとの事。
このころ挨拶がてら何処から来ているのか聞くようになっていました。
旅行で行ったことがあったので門司港の駅が素敵だった事を伝えると、
今、解体し始めていて綺麗にしているとの話を聞きました。(H30の春に頃に公開されるようです。)
そんな門司港の話を聞きながら進み、高速の下を潜って遍路道に出たところで
すごい勢いで進む男性と出会いました。
「三角寺ですか?こっちですよね?」とお兄さん。
これも遍路さんの挨拶のようなものでしょうか。
しばらく3人で進むも坂道で私が離脱。。
どうも上り坂は自分のペースでないと進まない感じなのです。
もう二人の姿は見えなくなりました。。。
左にいった気がするけど、看板が右を示しています。
さんざん迷って看板を信じて右に進みました。
すると、迷ったときに現れる弘法大師さまがワンちゃんお散歩で現れました。
ワンちゃんの名前はココちゃん。
「こっちは車の道で正式な遍路道じゃないよ」と大師さま。
やっぱり、さっきの道は左だった。看板は車に向けての案内でした。。
しかし、けっこうもう登ってきた。。
「こっちからも行けますか?」と私
「行けるけど遠回りだよ」と大師さま
「行くなら、あの家の向こう側を左に入るといい」と大師さま
「けっこうきつい道ですか?」と私
「登ってしまえば平坦な道が続くよ」と大師さま
「行ってみます!ありがとうございました」とお礼を行って進むことに。
振り返って挨拶をもう一度と見るとやっぱり姿はなく。。
やっぱり大師さまか。。。
今考えると金剛杖についている鈴音を聞いて間違って来てると思って
家から出てきて教えてくれたのかもしれないと思ったりもします。
途中遍路道のような山道もありました。
道に出ると三角寺まで、500mと700mの案内標識!どっちを信じるか?!
やっぱりここを歩く遍路さんは少ないからか車からもの珍しい目で見られながら進みました。
たどり着くと沢山の車が駐車していて賑わっていました。
山門は階段を登った上に見えます。
山門と鐘楼が一緒になっているスタイルです。
鐘楼門をくぐり境内に入ると先ほどのお兄さんがお参りを終えてくつろいでいました。
「けっこう時間かかったね」と言われたので、道に迷った事を伝えました。
門司港のおじさんは次のお寺へと向かわれたそうです。
お参りを終えてここのお寺の名前の由来ともなった三角の池を写真に収めました。
お兄さんが「どうして三角寺というのだろ?」と言っていたので、
「この池が三角だからみたいですよ」と教えてあげると興味津々に池を見て、
「そういわれてみると三角だ」と言っていました。
詳しくは、弘法大師が21日間秘法を修めた三角形の護摩壇の跡が三角の池になったとされ、
池の中には三角形の島があって弁財天が祀られています。
小林一茶が詠んだ樹齢300~400年の樹齢の山桜は枝ぶりも立派で花が咲いていなくても存在感がありました。
ほかにも、お兄さんが親しく話していたご夫妻は昨晩の宿が一緒だったそうですが、
相模原から来ていて造園屋さんとのことでこのお寺にある高野槙につてい教えてくれました。
葉に筋が入っているものがそうなのだそうです。
今まで、それほど植物に注目をしていなかったですが、ここから一気に気になる存在になりました。
今日は、このお寺でおしまいです。
午前中は61番~64番をお参りしてから三角寺の予定だったのですが、
前日に終えてしまったので今日は一つだけになってしまいました。
次はいろいろなお遍路さんが問題にしていた66番札所雲辺寺。
途中に宿がないとのことでした。
ここから雲辺寺までは約24kmの道のりのようです。
同じ日に辿り着いている女性のブログがあったので、行けるのかもしれません。
山門をくぐり、石段を降りて自撮りを忘れていたので撮っていると、周りがざわついています。
いろいろな人が「次どこまでいくの?」と聞くのです。
「今日はここまでなんです。」というとなんとなく残念そう。
この時は考えも及びませんでしたが、雲辺寺まで送ってくれようとしていたのかな?と今は思います。
菩提の愛媛最後のお寺でした。
いよいよ涅槃の香川です!!
瀬戸内海が美しく臨めます。けっこう登ってきた
段々畑 四国の石垣は美しい
ちょとだけあった山道
あと500m?700m??どっちが正解???
山門への石段
山門は鐘楼門となっています。
美しい彫刻が施されている本堂
境内の様子
三角の池
高野槇
美しい桜が咲いていました
帰りの道で見かけた「虚心坦懐」
何のわだかまりもない、さっぱりとして平らかな心。
何かに捉われることなく、平静な態度で物事に臨む様。
途中に古事記にも出てくる古墳がありました。
伊予三島で下車し改札を通ると駅員さんに三角寺への方向を聞いているおじさんがいました。
「こっちですよ」と言いたいところを少し待って・・。
「お遍路ですか?三角寺はこっちみたいですよ」と伝えると一緒に向かうことに。
門司港から来ているとの事。
このころ挨拶がてら何処から来ているのか聞くようになっていました。
旅行で行ったことがあったので門司港の駅が素敵だった事を伝えると、
今、解体し始めていて綺麗にしているとの話を聞きました。(H30の春に頃に公開されるようです。)
そんな門司港の話を聞きながら進み、高速の下を潜って遍路道に出たところで
すごい勢いで進む男性と出会いました。
「三角寺ですか?こっちですよね?」とお兄さん。
これも遍路さんの挨拶のようなものでしょうか。
しばらく3人で進むも坂道で私が離脱。。
どうも上り坂は自分のペースでないと進まない感じなのです。
もう二人の姿は見えなくなりました。。。
左にいった気がするけど、看板が右を示しています。
さんざん迷って看板を信じて右に進みました。
すると、迷ったときに現れる弘法大師さまがワンちゃんお散歩で現れました。
ワンちゃんの名前はココちゃん。
「こっちは車の道で正式な遍路道じゃないよ」と大師さま。
やっぱり、さっきの道は左だった。看板は車に向けての案内でした。。
しかし、けっこうもう登ってきた。。
「こっちからも行けますか?」と私
「行けるけど遠回りだよ」と大師さま
「行くなら、あの家の向こう側を左に入るといい」と大師さま
「けっこうきつい道ですか?」と私
「登ってしまえば平坦な道が続くよ」と大師さま
「行ってみます!ありがとうございました」とお礼を行って進むことに。
振り返って挨拶をもう一度と見るとやっぱり姿はなく。。
やっぱり大師さまか。。。
今考えると金剛杖についている鈴音を聞いて間違って来てると思って
家から出てきて教えてくれたのかもしれないと思ったりもします。
途中遍路道のような山道もありました。
道に出ると三角寺まで、500mと700mの案内標識!どっちを信じるか?!
やっぱりここを歩く遍路さんは少ないからか車からもの珍しい目で見られながら進みました。
たどり着くと沢山の車が駐車していて賑わっていました。
山門は階段を登った上に見えます。
山門と鐘楼が一緒になっているスタイルです。
鐘楼門をくぐり境内に入ると先ほどのお兄さんがお参りを終えてくつろいでいました。
「けっこう時間かかったね」と言われたので、道に迷った事を伝えました。
門司港のおじさんは次のお寺へと向かわれたそうです。
お参りを終えてここのお寺の名前の由来ともなった三角の池を写真に収めました。
お兄さんが「どうして三角寺というのだろ?」と言っていたので、
「この池が三角だからみたいですよ」と教えてあげると興味津々に池を見て、
「そういわれてみると三角だ」と言っていました。
詳しくは、弘法大師が21日間秘法を修めた三角形の護摩壇の跡が三角の池になったとされ、
池の中には三角形の島があって弁財天が祀られています。
小林一茶が詠んだ樹齢300~400年の樹齢の山桜は枝ぶりも立派で花が咲いていなくても存在感がありました。
ほかにも、お兄さんが親しく話していたご夫妻は昨晩の宿が一緒だったそうですが、
相模原から来ていて造園屋さんとのことでこのお寺にある高野槙につてい教えてくれました。
葉に筋が入っているものがそうなのだそうです。
今まで、それほど植物に注目をしていなかったですが、ここから一気に気になる存在になりました。
今日は、このお寺でおしまいです。
午前中は61番~64番をお参りしてから三角寺の予定だったのですが、
前日に終えてしまったので今日は一つだけになってしまいました。
次はいろいろなお遍路さんが問題にしていた66番札所雲辺寺。
途中に宿がないとのことでした。
ここから雲辺寺までは約24kmの道のりのようです。
同じ日に辿り着いている女性のブログがあったので、行けるのかもしれません。
山門をくぐり、石段を降りて自撮りを忘れていたので撮っていると、周りがざわついています。
いろいろな人が「次どこまでいくの?」と聞くのです。
「今日はここまでなんです。」というとなんとなく残念そう。
この時は考えも及びませんでしたが、雲辺寺まで送ってくれようとしていたのかな?と今は思います。
菩提の愛媛最後のお寺でした。
いよいよ涅槃の香川です!!
瀬戸内海が美しく臨めます。けっこう登ってきた
段々畑 四国の石垣は美しい
ちょとだけあった山道
あと500m?700m??どっちが正解???
山門への石段
山門は鐘楼門となっています。
美しい彫刻が施されている本堂
境内の様子
三角の池
高野槇
美しい桜が咲いていました
帰りの道で見かけた「虚心坦懐」
何のわだかまりもない、さっぱりとして平らかな心。
何かに捉われることなく、平静な態度で物事に臨む様。
途中に古事記にも出てくる古墳がありました。