美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

津市の昔の地名~検校町

2014-07-13 21:15:55 | 津のこと


かつて津市内に「検校町」という町名がありました。
現在は公式な地名ではなく「津市中央」の一部となっていますが、
自治会の名称などに「検校町」という呼称が残っています。

津市中央、裁判所と武内病院の中間にある画像の公園にも
「検校公園」と、昔の町名が付けられています。

ここが「検校町」と呼ばれたのは、
江戸時代に「杉山検校」という有名な「検校(けんぎょう)」が
住んでいたからだと伝えられています。



「検校」とは盲人の組織「当道座」の最高幹部に位置する人です。
映画「座頭市」で有名な「座頭」もこの組織に属します。
江戸期以前の盲人の組織は、平家物語などを弾き語りする「琵琶法師」の集団でしたが、
江戸時代になると、幕府の盲人に対する職業保障の意味から
按摩や鍼灸を行って収入とするようになります。
「当道座」の組織には、定められた階級があり、
大まかに言うと最高位が「検校」、最下級が「座頭」です。
盲人がこの組織に入ると、見習いのような修行時代を経て
「座頭」となり、あとは精進次第で位を上げていきます。

その最高位である「検校」は、全国に100人くらいしかいなかったそうで、
現代の大学病院の院長と呼ばれる医師が、国公私立大あわせて80人くらいなので、
そのくらい貴重な人物であったと言えるでしょう。

さて津藩出身とされる杉山検校(杉山和一、1610年生まれ)、
父も祖父も津藩士だったようですが、
杉山検校は、5代将軍・綱吉公の病気を鍼術で治療し、効があったので、
宅地や禄を与えられ、関東惣録検校に任じられました。
さらに、江戸で鍼治講習所を開き、多くの門下生を養成し、
門下生の三島安一を通じ、杉山流鍼術を全国に広めたということです。



杉山検校が津に住んでいたのは、おそらく少年時代までのことで、
「盲目の身で、藩士として奉公することはできないから、
 この子は座頭として生計が立つようにしてやろう」と
親が当道座の組織に預けたのだと思われます。
検校となった頃には、既に江戸に住んでいたのでしょう。
そうすると、
杉山検校の出身地というだけでこの町を「検校町」と呼んだことになりますが、
本当にそれだけだったのでしょうか?

惣録検校となった杉山検校が、
故郷の町に配下の座頭らを住まわせ、津城下の民衆の治療に当たらせたので、
彼らが住んだこの地域を、尊敬をこめて「検校町」と呼んだ、ということが
あったのかもしれません。

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