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かつて津市内に「検校町」という町名がありました。
現在は公式な地名ではなく「津市中央」の一部となっていますが、
自治会の名称などに「検校町」という呼称が残っています。
津市中央、裁判所と武内病院の中間にある画像の公園にも
「検校公園」と、昔の町名が付けられています。
ここが「検校町」と呼ばれたのは、
江戸時代に「杉山検校」という有名な「検校(けんぎょう)」が
住んでいたからだと伝えられています。
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「検校」とは盲人の組織「当道座」の最高幹部に位置する人です。
映画「座頭市」で有名な「座頭」もこの組織に属します。
江戸期以前の盲人の組織は、平家物語などを弾き語りする「琵琶法師」の集団でしたが、
江戸時代になると、幕府の盲人に対する職業保障の意味から
按摩や鍼灸を行って収入とするようになります。
「当道座」の組織には、定められた階級があり、
大まかに言うと最高位が「検校」、最下級が「座頭」です。
盲人がこの組織に入ると、見習いのような修行時代を経て
「座頭」となり、あとは精進次第で位を上げていきます。
その最高位である「検校」は、全国に100人くらいしかいなかったそうで、
現代の大学病院の院長と呼ばれる医師が、国公私立大あわせて80人くらいなので、
そのくらい貴重な人物であったと言えるでしょう。
さて津藩出身とされる杉山検校(杉山和一、1610年生まれ)、
父も祖父も津藩士だったようですが、
杉山検校は、5代将軍・綱吉公の病気を鍼術で治療し、効があったので、
宅地や禄を与えられ、関東惣録検校に任じられました。
さらに、江戸で鍼治講習所を開き、多くの門下生を養成し、
門下生の三島安一を通じ、杉山流鍼術を全国に広めたということです。
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杉山検校が津に住んでいたのは、おそらく少年時代までのことで、
「盲目の身で、藩士として奉公することはできないから、
この子は座頭として生計が立つようにしてやろう」と
親が当道座の組織に預けたのだと思われます。
検校となった頃には、既に江戸に住んでいたのでしょう。
そうすると、
杉山検校の出身地というだけでこの町を「検校町」と呼んだことになりますが、
本当にそれだけだったのでしょうか?
惣録検校となった杉山検校が、
故郷の町に配下の座頭らを住まわせ、津城下の民衆の治療に当たらせたので、
彼らが住んだこの地域を、尊敬をこめて「検校町」と呼んだ、ということが
あったのかもしれません。
津市の昔の地名~佐伯町
津市の昔の地名~常磐町(津市北丸之内)
土田御前の墓(津四天王寺)